推しと私とちくわ大明神

 『推し』という言葉が一般的に使われるようになってずいぶん経つように思う。今やオタク間だけじゃなくってもテレビなどでしばしば使っている人が見られる。

 ぶっちゃけそういうのを見るたびに嫌だな~って思うんだけど、これはまあ公共の場でネットスラングを使われるのに嫌悪感があるようなものだなという感じで自覚していた。オタクのミームを一般人に使われるのが嫌だっていう選民思想的なものではなくて、公共の場で淫夢語録を堂々と使ってる人を見ると引く、みたいな感じで。

 でもまじまじ考えていると、それはそれとして自分は一切『推し』という言葉をインターネットでも使ってないなとも思う。好きなモノは『好きなモノ』だし、好きなキャラは『好きなキャラ』。
 多分だけど、前述の嫌悪感以外の別の要素に忌避感があるんじゃないかとそこで思いつき、ついつい言語化してみたくなった。

誰が為の推し

 『推し』とは何ぞや。
 どう考えても語源は推薦、推測の『推す』。というかそのまんま。
 自分が薦めたいものを薦めたくて『推す』。それが『推し』の筈。

 でもこれってちょっと変だ。『好きなモノ』――敢えてダサく簡略化して『好物』と呼ぶけど、『好物』を全て推し薦めるとは限らない。
 『好物』≠『推し』なわけだ。

 そもそも『推し』とは、推すという行為は、無関係の第三者の存在がなければ成り立たない行為なのではないか。
 『私』が『好物』に対しての好きという感情を、誰かに伝えて『推す』。
 この一連の行為がないと『推し』は『推し』足り得ないのではないだろうか。図式にすればこうだ。

図式:推し

 この図の縦線より右側が、『好物』であり、そこに縦線の左が加わることで『好物』が『推し』になるのだろう。


 だから多分、自分はそういうところが嫌だったんじゃないかと思う。
 要するに、『自分』と『好物』だけで完結している空間に、むざむざ他人を招き入れる行為そのものが変で、嫌なのだ。

 別にこの好意が誰かに理解される必要性も、同好の士を増やす必然性も感じられない。それにそもそも、それだけ好きな『好物』に対してではなく『誰か』に対する行動を目的とするのって……ちょっと変じゃない? 自分だけ?

類似した検索結果?

 まあそんな個人の所感は置いておくとして、インターネットスラングを色々と思い返すと、『推し』とは似て非なるものがあるので、せっかくだし紹介……というか比較? してみたい。

『俺の嫁』文化

 もうすっかり死語(死語自体が死語なんじゃないか?)になっているが、『俺の嫁』、つまり好きな二次元キャラクターを嫁扱いする文化があったように思える。
 この『俺の嫁』自体が言われなくなったことに対して、やれオタクが母性を求めるようになったとか甲斐性がなくなったみたいな雑語りされがちだが、それは今の主題ではない。そうではなくて、『推し』文化として比較して考えると、同じ好きなモノに対しての扱いが似て非なる……いややっぱり似てるのか? な感じがする。

 『俺の嫁』自体は図式の右側に対する(恐らく)最上位の扱いにも思えて、究極的な自分と『好物』の完結した関係性でもあるのだろう。
 『推し』とは違う、『好き』という関係のオタク語にした文化にも思えるが……誰かに誇示する点で『推し』に似ているのかも?
 いやいや違うかもしれない。『俺の』と付いている時点で独占欲たっぷりの誰にも渡さない宣言の可能性だってある。

 既にオタク間ですら常用されなくなった言葉に対してこれ以上論じるのもあれなのでこのぐらいにしておくけれど。
 それはそれとして、単純にこれ以降明確な『好物』に対しての好き宣言が見当たらないのも不思議な所でもある。どうして『推し』に置き換わったのか、調べてみるのも面白そうだ。

同担拒否

 同担拒否。当になることの拒否
 さっきの『俺の嫁』とは違ってしばしば耳にする事もあるけど……これって『推し』の定義と真逆も真逆、完全否定する立場の文化……というか思想なんじゃないだろうか。

 この場合の担当は『好物』と同義と思われるが、まあ自分が好きなモノを自分だけが好きでありたいというのは、原始的な欲求ではあるが理解が及ぶ。『俺の嫁』と同様に図式の右側の究極系であり、その嫁のように伴侶扱いなら尚のことだろう。NTRやんけ~~~!

 けどまあ『同担拒否』自体が思考の主流になっていない理由も考えられる。
 これは先程の『俺の嫁』にも通じる事だけれど、『私』と『好物』の間であまりにも完結しすぎてしまい、それ以上の発展性がないんじゃないか、ということを。

 人間社会はコミュニケーションベースなので、自己完結した物事――他所へ漏れ出ない事物は当然話題に出ることは無い。多分だけど、多くの人にとって趣味とは分かち合うものであり、コミュニケーションの一種だから『推し』という方法の方が発展性があるんじゃないだろうか。

 なんて言っていると、先程の『推し』に置き換わった理由というものが見えてきたかもしれない。まだちょっと遠いけど。

ピピーッ!! 言葉狩り警察だ!!

 ここまで読んで「『推し』はそんなんじゃないよ~~」って思った人もいるだろう。自分でもそう思わなくもない。むべなるかな。

 ぶっちゃけこういう厳密な言葉の定義なんか割とどうでも良くて、ただ好きだから『推し』という言葉を使ってるのが大多数であることぐらい自分でも理解はしてるし、言葉が厳密な意味よりも響きの良いキャッチーさから選ばれるのは今に始まった事じゃない。
 それに、オタク文化なんてキャッチ―さの塊みたいなところもあるからね。さもありなん。

 でもせっかく使うなら正しく使った方が楽しいし気持ち良いじゃん? ってのが自分の信条なので、こうして整理してみた次第であります。


 元をただせば、『推し』文化はアイドル系の分野から流入した言葉で、なんだか納得感もある。アイドルとファンは多分一対一で完結しにくいし、前提としてライブの参加が主流になれば、当然ファン間でのコミュニティは形成されるだろうし、熱狂に呑まれれば新しいファンも引き込みたくなる。

 自分はそこまでの熱量は持てないけれど、『推し』たくなる気持ち自体は理解できる。
 できるが、今後好きなモノに対して『推し』という言葉は使わないだろうとも思う。別にこの好意を理解されたくないとか、誰にも共有したくないとかじゃなくて、「それが主目的」じゃないから、みたいなところで。
 もちろん、それはそれとして他人の言葉を批判するわけじゃない。この一連の下りは、使う人を非難するために定義したわけじゃなくて、使えない理由を理解するために見出したので。推しつけたりなどはしないというだけなのです。

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