真・女神転生Ⅲに足が生えてきた

 RPGとは、ロールプレイングである。
 ロールプレイをすることによって、ゲームはより楽しくなる。
 それはつまり主人公への心情的追従であったり、あるいは自分の思うとおりに動かしてプレイヤーと主人公をシンクロさせたりすると、人は楽しい……はず。
 けれどゲームは基本的に終わりが決まっているので、思ってたんと違う! とかいやそう言う事をしてほしいんじゃないけど? とかになるときもある。南無。
 だからきっと終わりの決まった道筋に違いを持たせるのが選択肢で。
 さらに言えば、選択ではなく、行動に意味を持たせるのがアライメントというシステムなのではと思う。
 が、それはそれとして、真・女神転生Ⅰ、Ⅱとか他にあったアライメントはⅢによってどっかへ行っていたのだった。

アライメントシステムと欠点

 アライメントシステムとは? ルーツはTRPGであるD&D(ダンジョン&ドラゴンズ)にまで遡る、いわゆる人物等の属性を表すシステムである。それぞれ中立を軸として、秩序&混沌と善&悪の計9つで表すのが基本で、これをメガテン風に言うならロウ&カオスと、ライト&ダーク、中立がニュートラル。
 そして、今回はこのアライメントという枠組みを用いた真・女神転生における属性判別システムに対して言及をするものとする。

 真・女神転生においてアライメントは、属性を判別してルートの変動に関わってくる大きな要素である。他にも使用できる悪魔に関わって来る事もあるけど。
 大事なのはそのルートの変動に関してで、ルートが決定するのは選択肢によるもの……だけでなく、真・女神転生ⅠやⅡではなんとプレイヤーの諸行動によってゲーム内部の属性値が上下するのだ。
 例えば、使う回復施設がメシア教会ならロウ、ガイア神殿ならカオスに傾いたり、仲魔と同族を会話するとロウ、倒すとカオスに傾いたりする。
 こうした行動の積み重ねにもよって分岐するというのは、プレイヤーのプレイスタイルと密接に関わって高い没入感を得られる……と考えることもできる。

 まあ、実際のところ属性変動値に関してはシナリオ上の選択肢による変動がかなり大きいので一概にそう言えないのだけれども、それでもこのアライメントでプレイヤー自身の選択と主人公への同調が高まっているのは理解できるんじゃなかろうか。世界を左右するのは、自分自身の行動と積み重ね次第という訳である。


 そんなアライメントは真・女神転生Ⅰなどでは、基本的に善いことをする、あるいは勢力のメシア側に肩入れするとロウ側に傾き、意図的に非人道行為をしたりガイア側に肩入れするとカオス側に傾くという塩梅になっている。
 一度触れると、「そんなものか」と思いがちだが、よくよく考えてみればこの分類は割と、いや結構おかしい
 別にメシア側は善であるという訳でもカオス側が悪という訳でもない上、善行はするけれどそれはそれとしてメシアのやり方は気に食わないとか悪行しておいてメシア側の在り方に賛成とかそういった考え方は全然有りうる筈なのだ。実際メシア側って結構あくどいし。
 先に中立を軸とした二種類のアライメントの示し方を述べたが、踏まえて考えると真・女神転生Ⅰとかのアライメントはその二種類が一つに纏められて設定されてそうだ。つまり、ライトロウ‐ニュートラルニュートラル‐ダークカオス。こうなってしまうと、アライメントというシステムがまるで機能していないのではないかという気がしてならない。
 それぞれの勢力に加担するという目的でのアライメント、という点においては意味があるが、善悪の区別という点においてはまるで意味をなさず、その癖割と善行してるとロウに傾くのだ。ちがっ……そんなつもりじゃ……

 大体、ロウ‐ニュートラル‐カオスという枠組み自体がそもそもアライメントというシステムに落とし込むのが無理がある。本家アライメントがロウではなく秩序であるように、混沌に対応するのは混沌を律する為の法(ロウ=ルール)よりも秩序そのものなのではないだろうか。

 実のところ対立構造としてコスモス(秩序)という表現ではなくロウ(法)を用いた理由に関してはある程度推測が行く。真・女神転生ⅠやⅡでは特に顕著だが、あの世界では秩序を作り上げる勢力と全てを破壊したい勢力での争い……ではなく、既に秩序を作り上げて新しい法を敷いた、あるいは敷こうとしている強大な勢力と、それに反抗して全てを混沌に戻そうとしている諸勢力での争いであり、思想による体制の違いというより政府とレジスタンスのような関係性なのだ。だがその上で重要なのは政府(ロウ)もレジスタンス(カオス)も等しく悪魔という立場で、基本その立場同士に上下が無く、対立である。(パワーバランスはあるが)
 仮にカオス側が勝利したとしても、そこから内部でどこが主権力を握るかの争いが起きるのは目に見え、その勝利者が次のロウになるのだ。つまり、カオスもまたロウなのだった。
 そんな中でアライメントを分けるとするならば、やはり思想で分けるよりかは体制で分ける方がよさげなのは思い至るので、恐らくそういう経緯でアライメントが分けられたのだと考えられる。アライメントとは思想ではなく体制。今日はそれだけでも覚えて帰ってください。

 ……が! それは良いとして、ならやっぱりこのアライメントに行動の善悪が反映されるというのは、やはりシステムとして間違っている! 体制だって言ってんだろ!
 アライメントは思想などから属性を分けるものなのだから!

コトワリというココロミ

 じゃあ廃止したほうが良くね?
 そんな事が言われたのか言われてないのかは全く知らないけれど、兎にも角にもアライメントを無くしたのが真・女神転生Ⅲであった。
 代わりにエンディングを分岐させるのが、Ⅲからの思想を表すコトワリという代物。
 登場する人間それぞれがコトワリと呼ばれる強い理想から生じた思想を持っており、そのコトワリが次の新たな世界を作り上げる礎となる。
 主人公はそのコトワリに賛同したりしなかったりすることでエンディングが分岐するのだが、立場が曖昧なまま結局全員殴りに行くアレよりかは明確な立場、思想に賛同して肩入れするこのコトワリという新しい理念は非常に興味深い代物だ。
 なにより、全ての思想がコトワリにあるわけじゃなく、プレイヤーが割と忌避しがちな尖った物であり、明確な正解があるわけでもないのもかなり好印象でさえある。中途半端な立場でいると怒られるし。
 この際大事なのはそれぞれの思想の善し悪しなんかは割とどうでもよく、争いの争点がロウやカオス等の体制ではなく明確に思想になったということである。
 正直各所でロウカオスのアライメントが秩序混沌とごっちゃになっているのを見ているし、そもそも秩序混沌と言うアライメントでさえ万能ではなく割と破綻しがちなので(各自で調べてみてください)、新しい真・女神転生を試みたかったという思いが良く伝わってくるのだ。
 そうして結果がどうであれ、このコトワリという新しい試みを私は良く言祝ぎたいと、プレイ時に思ったりしたのだった。

全てを繋げて生えてきたアマラ深界


 アマラ深界をやるまでは。

 アマラ深界とは、真・女神転生Ⅲ-NOCTURNE マニアクスにおいて追加された新要素である。最初の真・女神転生Ⅲには無く、追加要素として加えられた。
 アマラ深界全体がダンジョンでもあり、ゲーム上便利な要素を得られたり、追加のシナリオや語られなかった裏側についてがアマラ深界にて開かれる。
 当然アマラ深界を進めなければ(シナリオに関して)わからない事もあり、追加要素の要素として考えるとある種真っ当な追加要素ではある。
 ……要素として考えると。
 結論から先に言ってしまうが、基本的にアマラ深界でのシナリオは蛇足である。かもしれないとかではなく、蛇足である。……いや、個人の考えだけどさ。
 基本的にアマラ深界での追加シナリオでは世界の構造の話であったり、登場する概念の深堀り等したりするが、これがまあ蛇足極まりない。
 先ずアマラ宇宙という概念がでてくる。ここはまだ蛇足と判断するには早いが、雑に言ってしまうと並行世界、宇宙でも同じことが起こっているよ等と教えてくれたりする。かなり規模が大きいなと思ったり、他の宇宙まで巻き込むのか……と思ったりもする。

 それはいい。それはいいんだ、それだけなら。

 アマラ深界の話を進めると(色々省略するが)次に問題が出てくるのが光と闇の勢力だ。
 光と闇の勢力ゥ? となるが一旦置いて、話を聞くとどうやら先程のアマラ宇宙全体で光であるカグツチ勢力と混沌の悪魔が争い続けていると言うのだ!
 そしてなんやかんやでその無限の争いを終わらせるべく新しい混沌の悪魔を生み出そうとしていて、それが主人公なのだという。

 

 え、正気?
 なんで無くしたロウカオスの軸をもっかい持ってきたの?
 ……とは思ったが。まだ許せる部類であるとは当時の私は判断した。ギリギリ解釈内に留められる出来事で、ただ好悪の部類だと。
 絶対的なカグツチという概念存在と、それに対する混沌の悪魔の一勢力がいる……という考えならば、アライメントの軸として成立しうると思ったからだ。

 が! まだ終わらない!
 その後にメタトロンが登場するのだが、なんとそのメタトロンは神と同一であると言い放ち、こちらと戦闘を開始するのだ。
 つまりメタトロン=カグツチ側
 そしてメタトロンは悪魔 大天使メタトロンなので。
 カグツチ側=天使の、唯一神の軍勢で、対立する混沌の悪魔側はルシファー率いる悪魔の軍勢である。

 そう、無くしたロウとカオスの両者の関係を、それもいまいちロウが何なのかをわかっていない状態で再び持ってきたのだった。

 真・女神転生ⅠやⅡでそれが成立していたのは、偏にどちらの勢力も等しく悪魔で同じ立場で、唯一神>悪魔という不等号ではなかったためであるのだが、全並行宇宙を統べるアマラ宇宙の支配者=カグツチ(=唯一神?)とでは明らかに異常である。ロウとカオスが体制の話であるとしたが、光と闇の勢力だので明確に善悪が分けられた以上それももうめちゃくちゃである。

 だってこのままだと善悪の対立する話ですもの、これ。

 まあある程度妥協すると仮定して。カグツチ側というロウ、法の勢力とルシファー側というカオス、混沌の勢力のそれぞれの立場による争いだという見方も大枠で見ることはできるだろう。いや、ロウですらないのかもしれない。秩序混沌の言わば秩序側として考えることもできる。

 けれども、光と闇がどこまでもノイズになってくる。カオス側はどうやら闇の勢力らしいのだ。しかも自称
 そうなってくるとそれぞれの立場が善悪別れてしまい、真・女神転生ⅠやⅡの頃からのロウ、ニュートラル、カオス、それぞれに善し悪しがあり絶対の正義はない、というような考えに至れなくなる。そこまで無視すればようやく納得できるだろうか。 


 結局。秩序混沌、神悪魔、ロウカオス、そういったどの対立軸を持ってくるよりも先に、善悪の二元論が話に出てきてしまう。アマラ深界における追加シナリオとはそういう事だと私は思わざるを得ない。
 本編シナリオで繰り広げられるコトワリの争い。決して完璧でなく、鋭利で拒みたくなるようなその想いには確かに輝くものがあった。
 そしてそれは単なる善悪には決して囚われない。囚われないはずだったが?
 結局善悪に囚われてしまったのだろうか。あるいは、真・女神転生のロウカオスとはそういうものだと思われていたのだろうか。
 コトワリという試みが意欲的であったが故に、残念に思ったり過大評価しすぎかとも思ったりした、今回のnoteでした。おしまい。

 

 (ちなみに、私は先生のエンディングが一番好きでした……)
 (それはそれで書き手の立場として危ういのではない……? とも思ったりするのでした……)


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