3つの褒め方と無条件の肯定
モンテッソーリメソッド、レッジョエミリア教育に関する講演を聞いた際の、子供の褒め方と肯定についてのメモと私自身が感じたことのまとめ。
※モンテッソーリはメソッドとしてすでに確立しているのに対し、レッジョエミリアは街全体で取り組んでいる教育スタイル。
この褒め方と肯定に関する部分は、どちらも同じ捉え方をしている。
3つの褒め方
3つのうち①と②は少し注意して使う必要がある。
個人的には、おざなりと人中心の褒め方は一緒になることも多いと感じる。
例)すごいね、かっこいい!
→どこがかっこいいのかはわからないが、「かっこいいのは良いこと」と満足しやすい。
子育てしていて良くあるなと思うのは、当然のことを為しただけで「すごいねえ!!できたねえ!!」とおだてたり、まだそれをする前に「これできたらかっこいいなあ!」と、先に回り込んでおだてる行為。
これらも結果を求められ続けるので、子供にとっては心の奥の方で重く感じ取っているかもしれない。
頑張ってボタンを外そうとしていたら、それができてもできなくてもあるがままを認めたら良い。
「ボタンはずせたね」「あと少しではずせそうだったね」と。
要するに無理に褒めたり、ましておだてたりする必要はない。
言うことがなければコメントはなくても構わない。
信頼する大人が側にいて、温かい目で見ていることそのものが必要なだけのこともある。
条件付きの肯定とは?
ご褒美と罰で子供をコントロールするこの行為は、私自身が子供の頃からもやもやと抱いてきた違和感から避けたいと思っていたので、エビデンス込みで裏付けしてもらえた。
条件付きの肯定とは、以下のように褒美や罰を与えることで子供を大人の思い通りの姿にし、その結果次第で肯定する行為。
これを繰り返し続けて行くことは、身近な大人から愛情を受けるには条件が必要であると教えてしまうことになる。
その結果、子供は行動そのものの価値ではなく愛情、褒美を得るため、もしくは罰を避けるための行動を模索する。
対して無条件の肯定とは、できてもできなくても、今のあなたはそういう姿なんだねと受け止めていくこと。
そうなってはだめ、じゃない。
人中心に褒めることや勢いですごいね!と褒めることがだめなわけでもなく、子どもが挑戦しなくなることがだめなわけでも、失敗を恐れることがだめなわけでもない。
ただ大人の対応で子どもの姿が変わり、子ども自身の未来の選択肢が増えるのであれば、そうであるために私にできることをしたい。それだけのこと。
人は行動そのものに価値を感じなくなると、挑戦することにも価値を感じなくなる。
失敗してしまっては褒美を貰えないので、自分が成し遂げられる範囲で行動する→それはすなわち褒美をもらう又は罰を避ける為の行動になっていく。
(必ずしも全員がそうなるわけではないが、追跡調査を行ったというエビデンスはあるそうだ。)
無条件の肯定とは?
何でも言うことを聞いていれば良いのか?
怒ったり褒めてはいけないのか?
そうではない。
行動そのものを見て親や先生が評価するのではなく、子供全体(理由、気持ち)に寄り添い事実を認める。
努力や過程、工夫、根気を褒め、認める。
場合によっては肯定や共感でもなく、ただあるがままを認める。
いやなんだね
あきらめずにできたんだね
こうやってみようって気づいたんだね
そうなんだね
と、何も褒める条件がなくたってその時そのままの姿を肯定していく。
具体的に日常ではどうしたら良いのか?
この手の講演では、ここの部分を具体的に教えてくれたとしても、そうそう上手くはいかないよと思うようなことが少なくない。
我が子へ対して試行錯誤し、様々なメソッドから接し方を学んだ私の結論は、以下のように淡々と行程を説明すれば良いということ。
ここで伝えようとしていたことは、目の前にいる子供の姿を、今、私もしくはあなたが、無理やり思い通りにしなくても良いということ。
そうでなければならないという思いを手放すこと。
上のような言い方をしたところで、歯磨きは嫌がるし野菜は食べない、おやつを欲しいとぎゃんぎゃん泣かれ、時にはひっくり返って鮮度抜群のえびのように跳ね続けられることは何度となく経験済みだ。
そこで褒美や罰を持ち出して「今食べる、今歯磨きする」ことを成し遂げなくても、将来の子供の姿には影響がないから大丈夫だと、声も文字も大にして伝えたい。
note内のタグの使い方がわからないのでできないが。
そして当然ながら、褒美や罰を使ってでも静かにしてほしかったり座っていてほしかったりする時もある。
その時はその時、潔く褒美を与えたって構わない。
子供たちには案外ダブルスタンダードが通用してきた。
日々褒美や罰を繰り返して、無理やり成し遂げる嫌な気持ちを積み重ねるよりも、後々になって「なぜ食べるのか、なぜ歯磨きが必要か」を理解して、嫌々でなく自主的に明るい気持ちで行動できる日を待つことがとっても大切だ。
そしてそういう日が必ず来る。
本当に大丈夫。
あんなに手が掛かった我が子、3年生になった今では食べた食器は自分でキッチンへ下げるし、お風呂も歯磨きも宿題も自分のタイミングで自分でこなす。
あんなに泣き叫んで靴も靴下も履けずに、公園もスーパーも裸足で駆け回っていた彼女、今では23センチのお気に入りのナイキのスニーカーを履き、滑りが悪くてかかとがつぶれたら嫌だからと靴下も履く。
大丈夫。
「赤信号だから止まる」ように教えたいのではなくて、「なぜ赤信号では止まる必要があるのか」を思考できる基礎を築きたい。
それはいずれ、自分の行動の意味を考え決断し、未来の姿を作る力になるだろうと思うから。
未来で大業を成せるようにとの親心も隠しきれないが、ただ元気にたのしく生きていってほしいし、子どもたち自身が納得した未来を生き抜く力を付ける手伝いがしたい。
つまりはただの親ばかである。
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