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子どもとわたし

早速聞いて。

大学4年間を通して、様々な学校現場の学びの様子を見ることができた。2年次から教育実習をしていたこともあるが、ゼミに入ってから、県内外の子どもの学びの姿をたくさん見せていただいた。一瞬一瞬が面白く、奥深く、難しかった。印象深かったのは3つ。

子どもの「本気」
 「本気」ってなんだろうと考える。自分の経験上、何かに本気になるときって自分の世界に入っているから、状態を言語化するのは難しい。しかし、子ども達の姿を見て、「本気」とは、双六のマスを自分で作り出して進んでいくようなものであると気付いた。自分の世界に入っているのではなく、ある世界をつくって、そこに自分を投影していることである。一人一人が持つ疑問や課題をどうにかしたいと思い始めたら、子どもは強い。どこまででも行ける。教室の中で、45分の中で、単元の中で、学期の中で、如何にその瞬間を担保できるか。材と出会い、好奇心だけで取り敢えず動いてみることのできる場って必要。

「分からない」の価値
 実際に授業をさせていただく中で、「分からない」って最高の言葉だって気づいた。自分の立ち位置がある程度わかってるから出る言葉。教師側としては、どこが分からないか、どこまで分かっているかをはっきりできる子どもを如何に育てるか。それが表現できると、その後の解決に向けた相互作用が生まれやすい気がする。分からないならどうするかをすぐに考えるのは面白くない。分からないなら、分からない対象をもっと詳しく見てみる。一旦深掘りして、地道に行こう。問題解決学習が流行って長いが、解決することに目が向きすぎている。目の前の課題を深くまで分かってから。ゴールをすぐに求めない。

「ホンモノ」と出会うことの功罪
 授業でよく、実際のもの、人に触れることを重視する。導入で身近なものを使って考えやすくする。具体物に落とし込んで問題を考える、ゲストティーチャーから生の声を聴く。色んなホンモノに子どもは授業を通して触れることができる。
 その反面、出会ったホンモノたちが、子どもたちにどう響いているかを自覚させるというところに課題があると感じる。課題を考えるエッセンスになっているか?実際の学習場面で、人との出会いが、その後の子供の思考にどのような影響を及ぼしたか分からないことが非常に多かった。なんのために出会う?誰のために考える?自分との関わりは?そこまで考えて、ホンモノとの出会いが必要か吟味してもいいんじゃないかな。

タイトルにある「わたし」は、もうすぐ教師となる。子どもと教師の相互作用の中で一人ひとりが育っていく学びを丁寧に作っていきたいな。

ヒトリゴト、聴いてくれて、ありがとう。