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Eureka! (5) ~ At Par 額面通り

私は教育のプロ、学習のプロとしての経験はありません。
ゴリゴリのインベストメントバンカーとしてのキャリアを歩んできました。
人生の波を楽しく乗りこなすためには、大きな波を乗りこなすためにはどんなことが必要なのか、自分の経験から帰納法的に得た教訓を、MBAの経営学理論に当て嵌めてフレームワーク化したのが「Eureka!メソッド」です。

At parのパーとはゴルフのパーと同じ意味です。額面通りという意味です。
私は体を壊して世界の舞台から降り地元に戻って中小企業のビジネスアドバイスを行う中で、世界と私の地元(を含む日本の地方)の違いをさまざまな面で感じてきました。そして、大人になってからでは遅いと感じました。私が子供の教育市場に興味を持った経緯はそういうことです。

塾に求められる(親のニーズ)のは子どもたちの成績を上げることです。そして親が想定しているのは、教える科目の内容を子どもたちが定着させることです。定着した内容(文字情報)をテストでアウトプットさせることです。

求められていることだし、そういう期待の下お金をもらっているので(価値の交換)、それはやりますけど。
私が本当にしたいことはそんな表面的なことではなくて、もっと根源的な、多くの日本人の価値観を変えることです。
その中で特に一番抵抗が予想されるというか、受け入れられなさそうなのがこれだと思っています。


At Parとは

自分の思ったことを思った通りに言うこと

を意味しています。

つまり、そこには敬語(特に謙譲語)の縮小を意味し、謙譲の美徳の廃止を意味しています。
日本人の(かなり根本にある)美意識への挑戦だから難しいと思っているわけです。何かを変えれば副作用もあります。日本の良さが失われる部分もあります。だから難しいと思っているわけです。

謙遜が美徳だという文化は世界中で日本以外には知りません。「海外が正しい、日本は間違っている」と言うつもりは一切ありません。どっちが得か、合理的かという思考で行きついた結論です。

少なくとも敬語については正しく使うべきだと思います。私が一番最初に敬語の濫用が気になったのは、さまぁ~ずの三村が「外国人の方」とちょくちょく言っていたのをテレビで見た10年以上前です。その後なんでもかんでも「〇〇させていただいています。」と言うようになりました。
丁寧に言うのはいいと思うんです。
まぁだいたいろくに敬語を分かっていない人が使っているんでしょうが、

謙遜とは、
自分を低く見せることで相手に対する敬意を表すことや、相手を立てることです。

日本人からしたらこの上なくすばらしいことですよね。
しかし、へりくだることによって失われているものもあります。

1.受け手は言い手が本心かわからないので期待値計算がブレる。σが大きくなるわけですから、未来の予測が難しくなるという意味です。
「あれは本心なのか?」と思ったことはだれしもあるはずです。

2.そしてもっと重要なのは、自身の過小評価が癖になることです。
自身の過小評価も含め、自分にウソをつくことです。

本当はできると思っているのに、「いえいえ、私なんか.…」と最初のウソをつく。
成功すればいいのですが、失敗したときどんな気持ちになるでしょう?
多分また自分にウソをつきます。
本気を出せばできるけど今回は本気を出さなかった。
できないって言っておいてよかった.…

「謙譲の美徳」でついたウソのはずが、段々自分を甘やかすウソに変わります。どんどん本気から遠ざかります。

私はできることはできると言います。

そんな私を、自信家、高飛車、自己顕示欲旺盛、自慢.…と言います。
そういうことを言うのは決まってできない人です。

米国にSuitsというテレビドラマがあります。
ハーバード出身の弁護士の物語で、日本でもリメイクがありました。
主人公のハービー・スペクターの言葉に
It's not bragging if it's trueというのがあります。
「それが事実なら、ただの真実だ。自慢じゃない。」という意味です。

謙譲の美徳w
やる前から予防線を張っておいて本気なんか出せるんですか?
私は出せないと思います。

できると言って
できた ⇒ もっとできる自信がつく
できない ⇒ 自分の能力を知ることができ、向き合わざるを得ない。
⇒ 期待値(未来予測)のσ(可能性の分布)が小さくなります。

できると言ったのにできなかったら叩かれます。
言い訳をすることも一つの方策です。(多くの言い訳の原因は「人の嫌がることはしてはいけない」だと思っています。
嫌なことを言われたら、言った人が悪者で、自分は被害者。悪くない。
それじゃ改善は無理です。)
私は事実に向き合います。事実と感情は切り分けます。(線を引く)
(まぁ実際は切り分けていない人からの悪口も多いんですけどねw)

レジリエンスが必要になります。
レジリエンスは線を引くことができるとラクになります。
事実と感情、意見
それはそれ、これはこれ
自分は自分、他人は他人
こうやって細切れにすれば一つ一つの事象を受け止めるのがラクになります。

なんかまとまりがないですが、こんな感じのことを思っています。

塾では科目の知識を教えるのが契約だと思われるので、それはやっていますが、そんな上辺の薄っぺらい知識よりも、もっと根源的なものの考え方を教える方がずっと大切だと思っています。
本来そんなものは家庭で親が教えるものだと思いますが(軽井沢の森の住人はみんな知っています。私もそう教育されました。)、私の知る限りは多くの家庭でできているようには見えません。それなら私がやるのはやぶさかではありませんが、これについてだけは、日本人の価値観の根幹に関わるので躊躇しています。


It’s not bragging if it’s true.


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