わたしの鞄
朝起きたら、冷蔵庫から昨晩の副菜のあまりを取り出す。ケトルに水を入れてスイッチを押す。100gきっちりはかってから丸め、冷凍しておいたご飯をレンジへ入れる。多めの野菜に、ほどよい主食、そして温かい汁物。全てが揃ったら、写真を1枚撮る。そして、アプリを開く。何を食べたか、1品ずつ入力し、写真をアップロード。カロリーや糖質、脂質、たんぱく質を確認し、ようやくひとくち目にありつく。まず野菜。汁。それからご飯。咀嚼をしつように繰り返す。さて昼は何を食べようか、夜はどうするか。朝ごはんではたんぱく質が足りなかったので、昼にサラダチキンを追加するか……。
食事は、時間の区切りとして、楽しみとして、エネルギーとして、生活のなかであらゆる重要性をもつ。断つことが修行の一環になるほど、当たり前で欠かせない営みで、特に私は意識の多くを割いている。食べることへの執着があるから、食事を管理しないと(されないと)やばかったとも言える。そしてアプリをはじめた。食事の決定権を意識的に自分以外へ置いた。始めたばかりの頃は、その面倒さに愕然とした。楽しみのなかにルールを敷き、日々記録、管理、数値化されるなんてありえん、そう思った、思っていたのに、気づけば記録しないと不安に駆られるようになっていた。そのアプリに従わない食事を、そのアプリの管理下におかれていない食事を、できなくなっていた。管理してくれて、数値にしてくれて、これなら大丈夫だよと言ってくれる存在がいると非常に楽だった。
毎日3食記録を続けて、半年が経った。サブスクの延長を迫られたので、爽やかな気持ちでキャンセルした。回転寿司に行った。爆盛りねぎまぐろを3皿、あぶりえびマヨグラタンを2皿食べた。アプリは開かなくなったが、削除はしていない。そのため、ごく自然に、当然のなりゆきとして、今も自動アップデートされ続けている。未来の私のために。
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