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「考える」ということを考える
日々、わたしたちは考えている。パスカルは、「人間は考える葦である」という言葉を遺した。彼のその言葉によると、人間⇒考える葦の論理式が成り立つ。なお、人間=考える葦と捉え、考える葦⇒人間という可能性も否定できないが、人間以外の生物が考える葦に該当する場合、科学上の正当性は否定される。
さて、私は彼のこの言葉を曲解したい。すなわち、考えない者はおよそ人間ではない。したがって、人間を人間たらしめる、人間の構成要件要素は、考えることである。ちなみに、特に断りなく人間という語を用いる際、それは現生人類(ホモ・サピエンス)を指している。
考えていなければ、それは人間ではない。そうであるならば、わたしたちは、「考える」とは何かを考えなければならない。なぜなら、「考えるとは何か」を考えていない生物は、考えていないのであるから、人間ではないからである。もっとも、この論理にはこのような論理的脆弱性が含まれる。すなわち、パスカルのいう「考える葦」とは、何かしらの事物について考えていればよく、必ずしも考えることについて考える必要はないという問題である。
この記事を開いてしまった人間は、自己を人間たらしめるため、考えるを考えることを放棄できない。なぜなら、考えるを考えることを放棄した時点で、その生物は人間ではないからである。つまり、わたしはこの記事を通じて、読者を考えるという迷宮にいざなった。
思考と本能
「考える」ということは、人間に固有のことなのだろうか。たとえば、ボールを追っかけて飼い主のもとに戻ってくるいぬころは、「考える」ことをしていないだろうか。
生物の本能に、生物の行動の理由を求めることがある。たとえば、ある鳥には帰巣本能があるから、遠い場所に巣立ってもまた戻ってくるのだとか、人間には生殖本能があるからセックスをするのだという、本能ゆえに行動という説明をする。それは科学的には正しいであろう。しかし、人間がセックスをする際、わたしたちは、「快感を得られる」や、「子供を作れる」という期待を考え、行動に移す。わたしたちは、生殖本能に基づいてセックスをしているのではなく、わたしたちの考えに基づいてセックスをしている。そうであるならば、ある鳥が、巣の場所を記憶している可能性や、巣に戻ることによって得られる何らかの期待を考えていると考えるのが、アダプションとして妥当な推論である。
もしわたしたちが、生殖本能のみに基づいてセックスをしていたら、わたしたちは人間ではない。性犯罪者は、考える葦であるからこそ性犯罪者なのであって、もし生殖本能のみに基づいて強制性交を行ったのであれば、その生物は人間ではないので、刑法典の名宛人にはならないはずである。
思考と運命論
さて、下ネタを語るのは楽しいから、少々話がそれてしまった。ここで閑話休題とする。時折わたしたちは、考えないことを望む。たとえば、唯一神に救いを求めたり、人生を運命と言い換える。それは、思考を「神」や「運命」に決定されているものだとすることで、思考の多様性を否定し、思考という迷宮から逃げ出そうという、「考えた結果」である。神や運命に頼ることによって、彼らは思考を断絶した。したがって、彼らは思考をしていないので、人間ではない。ここに、人間が無神論者でなければならない理由がある。
「考える」ということは、「考えるということではない」ではないということである。したがって、考えるということではない(=考えない)ことを考えることによって、考えるということの輪郭は鮮明になるはずである。わたしは、パスカルの「人間は考える葦である」という言葉の真実性を考えない。なぜなら、パスカルの言葉が真実でない可能性を考えてしまえば、この記事の前提は崩れるし、その論証で文字数が嵩み、さらにはその論証の論証もしなければならないからである。
思考と思考停止
そう考えれば、人間は考える葦であり、なおかつ考えない葦でもあるという可能性はないだろうか。つまり、人間の本質は、考えることであり、考えないことであって、どちらが欠けても人間ではないという可能性である。その仮説によると、考えない人間は人間ではないから、思考が止まらないと言っている人は、人間ではない。しかし、そもそも、人間というものの本質は、実存より後にあるもののはずである。ジャン=ポール・サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉が本当であれば、わたしは男に生まれたのではなく、男になったはずである。
思考と実存
考える葦、考えない葦というのは、人間の本質であろうか、実存であろうか。人間の本質であるとするならば、わたしたちは考える葦であることを選択したのであって、考えないことを選択した生物は、人間でないというのは、本質によって人間を定義することに他ならないのであって、人間の定義に循環論法が生ずることとなる。では、人間の実存に、考えるということが含まれているのだろうか。仮に、人間の実存に、考えるということが含まれているとしよう。そうすれば、たしかに人間の定義が循環論法となることはない。しかし、新たな問題は、「人間の実存に考えることが含まれている」ということについて、考えないということをしなければならないということである。もしそうでなければ、人間の実存に考えるということが含まれていることを証明しなければならないが、人間の実存に考えるということが含まれているというのは、本質が実存に先立っていることに他ならない。
このことから、わたしたちが人間たるわけは、考えるということと、考えないということという一見アンビバレンスな概念のジンテーゼに他ならない。「考える」ということは、「考えない」ことを考えることに他ならず、「考えない」ということは、「考える」ことに他ならない。
思考の人間固有性
そこで、他の生物に、以上の論理が妥当しないかを考える必要がある。つまり、パスカルの「人間は考える葦である」という言葉に意味があるならば、それは人間という種類の限定に意味がなければならないからである。つまり、「この世のすべての生物は考える葦である」とするならば、「人間は考える葦である」は当然のことであって(ただし、人間が生物でない可能性)、パスカルの言葉に意味はほとんどない。鳥は、考えるということ、あるいは考えないということができないのであろうか。つまり、わたしが鳥であれば、この文書を書き続けていることだろう。もしわたしが人間であれば、考えないという選択をとっているはずである。それは、鳥が考える葦ではないという論拠にはならないが、わたしが考える葦であるという論拠にはなる。
思考の迷宮入りへ
わたしは思考の迷宮に読者をいざなった。そして、わたし自身、考えないことによって、思考の迷宮を抜け出そうとしている。しかし、わたしは読者に続きを問われれば、きっと答えるであろう。なぜなら、そうしなければ、わたしは考えないことを本質として定義してしまっており、実存たるわたしを置いて先立たれてしまうからである。考えるということは、考えるということであり、考えないということである。