尾崎豊2ndアルバム『回帰線』レビュー
前作『十七歳の地図』から1年4ヶ月弱振りのアルバム『回帰線』。尾崎豊19歳の頃の作品である。
1. Scrambling Rock'n'Roll ★★
正直、私はこの曲をそこまでリピートした経験がない。回帰線のアルバムをシャッフル再生で聴くときくらいで、ライブ映像を見て楽しそうだなあと思うくらいだ。
尾崎豊はロックンローラーだという。この曲はロックンローラーとして「自由」に生きる様を唄う。そこまで歌詞に深い意味はなく、文面通りに受け取ればよい。
そんな中、「自由っていったいなんだい」と問いかける。彼は「自由になろう」と語りかけるのに、その「自由」すら定義されていない。自由という概念もまた、社会的拘束に基づくものなのだから。
しかしながら、私たち人間で思うように生きていけている人間は、現代もなお少数である。人間は、大なり小なり社会的な拘束を受ける。自由に生きたことがないという人は、一度すべてを捨てて自由に生きてみるとよい。案外、社会的拘束というものは居心地が悪いものではないということに気がつくはずである。
2. Bow! ★★★☆
個人的に好きな曲ではあるのだが、いかんせんレビューをするのが難しい。アルバムの2曲目という感じの曲である。
「モラル」とされることを飲み込めば、人はコモディティ化する。「モラル」に縛られた人間は、他人と差異を見出すことができずに、そのアイデンティティーを「他人と同じであること」に見出す。
サラリーマンというのは、社会の歯車である。社会はサラリーマンなしでは回らない。それにもかかわらず、尾崎はサラリーマンにはなりたかねぇという。それは、プロレタリアートの先人とまったく同じ轍を踏む人生に、意味を見出すことができないということだろう。
しかし、この曲はこのフレーズが一番刺さる。尾崎豊はこのアルバムを通じて、いや、前作から通じて「自由」を歌っていたのに、それが金で買えるちっぽけなものだという。もっとも、彼は通じてまた「愛」も歌っていたのだが。
自由を金で買えてしまう結果が、後年の『紙切れとバイブル』に現れた苦悩である。「自由」を手に入れたとして、「自由」とは金なのであるから、そこに本質的な価値は見出だせない。
目先の「豚」という「おいしいもの」を食べたとして、そこで得られるものは、金で買えるちっぽけな快楽に過ぎない。かといって、鉄を喰うべき理由にはならないのだが、目の前の豚に食いつかず、あえて鉄を喰うほうが長期的にみて正解であることは、人生において少なくない。
3. Scrap Alley ★★★
昔ともに悪さをした友人に向けられた曲である。情景描写に終始し、特に行動指針というものはない。この曲自体が歌っていて楽しいし、鮮明に情景が想起できる。「昔は昔で楽しかったけど、今は今が楽しいし、昔のことでは笑えないね」という曲である。しかし、なぜかこの曲を一度聴くと好きになってしまう。そのような魅力がこの曲にはある。
4. ダンスホール ★★☆
尾崎豊がオーディションで歌った曲で、デビュー前から存在した曲だ。それゆえ、尾崎豊をこの曲を聴かずして語ることはできないのだが、この曲もまた「グレてダンスホールに入り浸る娘」の情景描写に終始する。聞き手が共感するかしないか、それがすべてである。私は彼女の気持ちはよくわかるつとりだ。
5. 卒業 ★★★★☆
『回帰線』の中で一番有名な曲はこれである。そして、尾崎の曲の中でも屈指の人気を誇る。尾崎の人気曲には「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」「Forget-me-not」のようなラブソング系と、「15の夜」「Driving All Night」のような「自由」系があるが、本曲は後者の類型に属する。
まず、従うべき対象と、従うべくべきでない対象を区別する。そして、そもそも「従うべき」という固定観念は正しいのかを問う。校則等に従ったとして、教諭は校則を無批判に使うだけである。
そんな何も考えずに「ルールはルールだから」という大人に対して、憤懣するのは当然である。そして、そのような大人たちは、この曲を「学校の窓ガラスを割る悪い曲」というのだから、何ら反省していない。少し話がそれるが、KIRINJIの『善人の反省』にいう「善人」も似たようなものである。
私は、それゆえ事物を批判(×非難)する。こうしてレビューを書くのも批判の一つであるのだ。無批判の「善人」は、尾崎豊のような思慮深い学生を悩ませる。無意味なルールで縛ることを、伝統に訴える論証で根拠付ける。もしそれが誤謬だと指摘しても、大人たち「まだ子どもだ」とか、「大人のいうことを信じろ」と言って聞かないのだから、彼の感情は抑圧される。その抑圧の表現が「窓ガラスを割る」という行為なのに、その行為を悪として尾崎豊を流すなというのは、やはり幸せな人のようで羨ましい。
それゆえ、そんな大人に従うということは、すなわち理不尽を受け止めるということであり「負け」である。正しいことを堪えて、正しくないことを受け止めなければならないというのは、大学3年生の私でもまったく理解できないし、したいとも思わないから、彼がその理不尽に甘んじないのも当然だ。
6. 存在 ★★★★★
少し熱くなりすぎてしまったので次曲に移るが、私は回帰線の楽曲の中で存在が一番好きだ。もっとも、カラオケで尾崎豊メドレーを入れたときにこの曲が入っているのは、知名度の観点からいかんせん疑問がある。
サビの「さあもう一度愛や誠心で立ち向かってゆかなければ」で救われたことが何度あろうか。森羅万象を受け止め、愛や誠心で立ち向かい、目に映るものすべてを愛す。
2番では、愛や夢に悩んだらこの歌を思い出してほしいという。そして、誰も傷つけない嘘ならば嘘でさえ愛したいという。
Cメロに入りさっきまで「愛したい」と言っていた心情に翳りが見える。愛は真実ではないかもしれないし、愛は救いではないかもしれない。それにもかかわらず、彼は愛しているという。なぜなら、愛を疑ったところで人間は何もできないだけだからだ。
この後は1番のサビに戻る。愛すべき理由を語り、正確には愛するしかない現実を語り、もう一度愛や誠心で立ち向かおうという。愛や誠心で生きていれば、裏切りにひどく傷付けられることもあるけれど。
7. 坂の下に見えたあの街に ★★
前曲『存在』が観念的な曲であったのに対して本曲はストーリー的。アルバムの中の箸休め的存在だ。私は親父と昔話をしたり、まだ家族を築いたりしていないから正確なことは言えないが、いわんとすることは坂の下にあった実家を飛び出したが、親父と同じようなことをしていただけだったということである。僕も親父とカラオケに行く機会があれば、ぜひこの曲を歌いたい。
8. 群衆の中の猫 ★★★★
君を包むときに、「僕のせいで君が泣くこともある」というのは、『僕が僕であるために』における「馴れ合いのように暮しても君を傷つけてばかりさ」に通じるところだ。僕々では明日さえ教えてやれない⇒勝ち続けると言っていたが、本曲では何もかも分かち合って行きたい⇒僕の胸で泣けと言っている。
「優しさ」とは「うんうん」「そうだね」といった「共感」だけでなく、「それは違うのではないか」というのもまた優しさだ。それゆえ、雨に打たれる君を包むときに、君が傷付くこともある。共に価値観を共有し、共に成長する。悲しみに暮れてしまわぬように肩を抱き寄せるという「優しさ」は、単なる慰め以上の価値を持つ。
9. Teenage Blue ★★★☆
前曲で「優しさ」を歌ったが、この曲にいう「抱き締めてよ」は、その場凌ぎのかりそめの愛とも読める。10代の頃にリピートしていたが、20代になっても聞き飽きない名曲だ。
10. シェリー ★★★★
この曲で2番目に有名な曲はシェリーだろう(一番は卒業)。「シェリー」というパートナーに対して自分を語り、何もかもを尋ねる。依存さえも感じさせる問いかけは狂気と愛の境界にある。
この歌詞を狂気的と言わずしてなんという。「俺に愛される資格はあるか」と聞きながら「俺の笑顔は理屈じゃないかい」とは、なんて卑屈な態度だろう。転がり続けた人間はそうなってしまう。
総括
正直なところ、私はこのアルバムをアルバムとして聴くことはほとんどなく、いつも曲単位で聴いていた。アルバム全体を通して聴くと、前曲次曲とのバランスが取れたような配置になっておりリスナーに優しい設計だ。
執筆には時間がかかった割にあまりクオリティを詰めることができなかったから、また後日加筆修正するかもしれない。とりあえずは、『壊れた扉から』レビューの筆を進めることにして。
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