『なりたい似合う好き』最近の所感
こちらについて最近思うところのまとめを少々...
・『なりたい』について
欲しい服があるときには今の自分とその服を結んだ延長線上にいる自分になりたいかと考える。
あまりに突拍子もないものだとブレるし、今の自分に馴染みすぎても将来に連れていきたくなければ着なくなる。
『なりたい』を言語化すると本質とズレる気がするので、最近は感覚に頼っている。
そもそも私は『私』であり続けたいと思っているので、ある意味単純な話だ。『私』というのは自分の頭で考えたこと、自分で感じたことを血肉として育っていくものだと思っているので、『私』が求めるものが(私の人生において)正解に決まっている。
『なりたい』自分を言語化してしまうとその言葉をものさしのように使ってしまい、自分との対話が疎かになってしまう気がする(あくまで私は)。なので今は感覚を研ぎ澄ますことに集中する。
・『似合う』≒『馴染む』→馴染ませる
自分の肉体に似合うものは間違いなくあるけれど、それだけではつまらないと思っている。『なりたい』や『好き』を肉体に馴染ませる要素として『似合う』を用いたい。
戦略的に「あえて」用いるものという立ち位置だ、今のところ。
・『好き』を信じたい
今まで自分の『好き』に対する信用度は低かったと思う。少なくとも『なりたい』に対する感覚ほどではなかった。
今まで『好き』な服も気にせず着てたが、どちらかと言うと遊びというか戯れに近かった。『なりたい』へ向かう時は修道者のような真剣さをもって進むが、『好き』は移ろいゆくもの、桜を愛でているようなもの。一時的な、軽薄な付き合いをしていたように思う。
しかしブランドバッグで好みど真ん中のデザインを見つけてしまってから真剣に取り組まざるをえなくなった。『好き』というだけで数十万円の大金を払えるか?というのをバッグ側から突きつけられている。
とりあえずロック画面と待受画面に設定して常に眺められるようにしたら人生にハリがでて何となく全体的に調子がいい。
実物を見に行ったが、正直持たない未来が見えないほどである。
厳密に言うと、日常的に使っているイメージは湧いていない。今までなら「使わないなら買わない」と結論づけていたと思うが、使わないけど好き!という気持ちが高まりすぎて、持たないイメージも湧かない。
『好き』は人生の起爆剤のようなものなのかなと思うようになった。『なりたい』は(感覚に頼るものの)思考が先に立つが、『好き』は全く別方向の自分が爆発しながらやってくる。迸る感情を大事にしたらもっと違う『私』に会えるかもしれない。