自分の輪郭を描くこと
このツイートについて掘り下げていきたい。
馴染む=『自分』がなくなる?
自問自答ファッション講座を受けてから、色々頭を使って服を買うようになったのだけど、なんとなく傾向が見えてきた。
・世界観、物語性重視だが、気にいる要素だけを取り入れたい
気に入ったブランドで全身揃えたくはない。ブランドのコンセプトは気にするし、行きつけにするかを決める基準にはなるが、そこで一式揃えるとテンションが上がらない。(ここまで書いて、だからセレクトショップに惹かれることが多いのかもしれないと思った。それでもそこで全身は買わないけど。)
・テイストど真ん中は嫌だ。混ぜたい。
例えばオフィススタイルど真ん中、キレイめど真ん中、ナチュラルど真ん中は何故か着なくなる。デニム素材ならいっそスカート、レザー素材なら丸みを意識、Tシャツならキレイめ意識でジャストサイズ、マキシスカートなら素材はカジュアル、麻素材なら形はレディースらしく。そういう目線で服を選ぶとうまくいくことが多い。
これらの傾向について考えると、多分周りに完全に馴染んでしまうのが嫌なのだろうと思った。
例えばこのツイート。
オフィス街をスーツで歩く。当たり前のことだが何と無く嫌だ。オフィス街はいっそTPOを考えない格好がいい。軽いジャケットを羽織って中はTシャツ。靴だけはローファーにしたいかな。セットアップとかじゃなくてふざけた柄のマキシスカートがいい。
かといってオフィス街でドカジュアルみたいな完全に浮いた格好がしたいかというと、そういうわけではない。そこは文脈というか背景というか、そういったものを重視したい。カッチリしたイメージをローファーやジャケットといったアイテムで補いながら、それでも馴染みすぎないようにバランスをとる。そういう服選びをするタイプだから文脈や背景というのはとても大事なキーワードだ。
ここで話が逸れるが『自分』の範囲について話がしたい。
最近気づいたのだが、私は周りの環境まで含めて『自分』と認識する傾向にある。
例えば職場環境。同じ空間に1人でも生理的に無理な人がいると、転職を考えるレベルで拒絶反応を示す。自分の人生の中で認識したくないものは認識したくない。それは自分の要素の一部となってしまうから。そう考えている自分を意識することができたと同時に、環境抜きで自分というものが成り立っていないことに危うさを覚えた。
閑話休題。
環境が『自分』の一部と(無意識だとしても)考えている人間が完全にその場に馴染む服装をしてしまうとどうなるか。
『自分』が失われるように感じてしまう。それがなんとなくの違和感というか気が進まない理由だったのだろう。
『服には世間と自分との間の壁の役割を求めてるのかもなあ』というのがおそらくそれで、それがないと自分が溶けて消えそうな感覚だったのだと思う。
服は細胞膜?→輪郭を描くもの
今思うと壁というと強すぎる。外からのものは取り入れたいから。鎖国中の出島とか色々イメージしてたが、一番しっくりきたイメージは細胞膜だ。
文系なのでほとんど知識は抜けているが、たしか必要な成分を入れて不要な成分は排出して、周りと濃度が同じにするようになっているとかなんとか…。
濃度を一定にするために色々取り入れつつ排出する。イメージ通りだし、周りの濃度が濃すぎても薄すぎてもぺしょんとなったり破裂したりするとかなんとか…?細かいことは忘れたけど、周りの環境が大事ってことだよね!しらんけど。ということで、イメージは細胞膜。
細胞膜をイメージして生きていくのも風情がないので、いい言葉がないかなと思っていたら、しっくりくる言葉があった。『輪郭』。
厳密にいうなら、服は輪郭を描くための一つの手段である。(なんかそれっぽいこと言えた!)
周りに溶けないように、輪郭を描く努力をしていこうと思う。
これは表現することとニアリーイコールであり、服は表現のための手段の一つと捉えている。(なぜこんなに服のことばかり言っているか。それは自問自答ファッション講座を受けた自問自答ガールズだから。服を起点に自問自答した結果がこの雑記なので…)
『自分』を凝縮すること、表現すること
これから先の目標は、『自分』をもっと厳密に捉え直すこと。快不快・好き嫌いに自覚的になること。最終的には自分を表現すること。
何が好きで何が嫌に思うか。それを観察して自覚的になること。それを繰り返せば自ずと輪郭は描けるのではないかと思う。どこにいる自分が好きで、その場所でどういう装いをしたいか、どう振る舞いたいか。好きな場所というキャンパスに自分をどうしたら表現できるか。それを考え続けたら『自分』の根っこを掴まえられるかもしれない。