人を死に至らしめるウイルスのこと
2020年が終わる前に
いつか落ち着いたら書こうなんて思っていたけれど、まったく、落ち着くばかりか明日(大晦日)には東京をはじめ全国で過去最高の感染者数を記録するような勢いで増え続けているので、とりあえず大晦日イブの今日、少し心の内を吐き出しておこうと思います。
いちばん伝えたいこと
この流行のウイルスについて、もっとも恐れるべきことは何なのでしょうか。
感染力でしょうか。
いや、誰がなんと言おうとそれは、もし重症化して死んでしまった場合、お見舞いどころか火葬にも立ち会ってもらえず、次に家族や友人と会うときには骨になった姿であるということだと思っています。
遺された人たちはどうなってしまうのだろうか。と。
悔やんでも悔やみきれないだろうし、どうやって家族や友人の死を受け入れるべきなのでしょうか。受け入れられるのでしょうか。
「かかっても、ほとんどの人が無症状か軽症で済むんだから…」
なんて、他人事のようにこのウイルスのことを軽視して、今がよければなんて軽い気持ちで飲みにいったり会食したり。
次々と感染が広がる最前線にいる、当事者意識がない人たちになんとか想像してほしいと思っています。
「もし、大切な人がこのウイルスに感染して亡くなってしまったら…」
流行病(はやりやまい)と日本の葬送文化
これについてはもう少し頭を整理してからアウトプットしたいと思っていますが、日本の火葬普及率が99%と、世界の国々と比較してなぜここまで高い水準にあるのかということの背景には、過去に流行した様々な疫病との戦いの結果であります。
つまり、社会衛生の観点から、火葬が合理的な遺体処理方法として採用されてきた(普及してきた)歴史があるからなのです。
ここであえて“遺体処理”という言葉を使っているのは否定的な意味を込めて、です。
亡き故人との最期のお別れの時間を過ごしたり、故人の死を確認する場というものは、まさに葬儀の場(セレモニーホールや寺院など)だったり、収骨を行う火葬場だったりするのですが、先にも述べたように、このことすら許されない現状は、誰が考えても異常なことであって、一刻も早く、安全に且つ安心を確保したうえで復活させるべきであると私は思っています。
文化行為としての火葬
また、ただでさえここ数年で”家族葬”の一般化や、“直葬”や”火葬式”といった葬送の簡略化が進んできているのにかかわらず、この度のウイルス流行を契機に、この状況を加速度的に進めてしまうことをたいへん危惧しています。
簡略化=葬儀の個別ニーズのプロデュースによる質の向上、および多様化自体は悪いことではないのですが(前回投稿記事参照)、その大事な部分を差し置いて、感染症対策を理由に目的もなく簡単に済ませてしまうことを問題だと思っている、ということです。
日本が世界に誇れる文化行為としての火葬が、ただの遺体処理のように扱われてしまわぬように。
弔いの場としての火葬場の存在意義について、今こそ改めて考えていきたいと思います。
参考文献:「火葬場の立地」火葬研究協会立地部会編 日本経済評論社発行
(2004年12月発行)