チャレンジは本来、楽しいことのはずだ
その昔、繰り返し経験したパターンがある。
新しいことにチャレンジするとき、孤立するのだ。
未知のものへ取り組む感覚が、食い違っているらしい。
「うおおすげえじゃん!あれやってみたいね!」
と俺が言ったとき、周りがげんなりしてしまう。
何か、義務感みたいなものを感じ取ってしまうらしい。
あれをやらなければならない、みたいな…。
やってみて、それで出来なくても良いんだよって思うんだけど、
そういう感覚は誰もが持っているものではないと。
今は、言う相手や場面を選ぶようにしている。
私は基本、新しい挑戦は楽しいと思っている。
40歳になった私が格闘技をやっているのも、楽しいからだ。
諸々の懸念要素が念頭にはあるものの、それを差し引いても楽しい。
ジャブやストレートの打ち合いに、脳内に電気が走る。
日々生じる僅かな変化、それが嬉しくてたまらない。
パンチの軌道を読み被せるように自分のパンチをねじり込む瞬間。
一発けん制して次で当てる、という相手の動きに、
そのけん制の拳をはたいて一発当てていく瞬間。
それを実現するまでの過程で取り組んだ無数のこと。
相手との距離感を掴むためのジャブの打ち方、
素早い左右の打ち込みを実現するためのスタンスの修正、
自分より距離の調整が上手い相手への対策、
手応えを確かめ、反復する日々。
取り組みたての早い段階で、結果をイメージしている。
実現するはるか前から「出来る」と確信している。
それを描けるだけの脳内シミュレーションが走っている。
だから楽しい、だから続けられる。
良くストイックと言われるが、私はストイックとは思わない。
叶うかも分からない結果を脳内で感じて、ハッピーになっているだけだ。
取り組む以前の段階で、ハッピーになりうるだけの情報を集め、
何度も何度も模擬演習し、やったぜ!って反芻していただけ。
挑戦の開始時点で、すでに達成感を感じているだと思う。
だから、挑戦することが楽しい。
挑戦して出来なかったら?
思い描いた結果が叶わなかったら?
まあ、描き方がまずかったとか、大きすぎたとかあると思うし。
そこはのちのち調整していこうねって話ではあるけどさ。
それはそれとして、まずは泣けば良いじゃない。
落胆して絶望して、それでいいじゃん。
それが生きてるってことでしょ。
やらなかった場合をシミュレーションしたら分かるでしょ。
絶対に後悔するじゃない、やれば良かった、って。
思い描いた絵があったとして、
その絵が実際に見れるなら嬉しい。
絵とは違う結果になったら、それはそれ。
思い描き方をもっと変えてみよう、って思うだけだ。
結局のところ、自己実現ってそんなもん。
始まりは錯覚でも良いんだよ。いや錯覚なんよ。
それにどこまで肉付けするかってだけ。
錯覚に色が付いていく様は、なかなか楽しいもんだよ。
出来上がりは全然違ったりするけどね。