摂食障害であったり「行き過ぎた身体作りはナルだ」という言及に思うところ
先に私の結論を言ってしまいます。
「自分が望みに向かってるならOK、望まぬ結果に向かうなら考えよう」
こんだけじゃないかなぁと、私は考えています。
望みに向かっているかどうか、なんですけれど。
それは、自分が何に帰属し、どう生きるか次第なんです。
多くの人は「仲間」に帰属し、集団の中で生きることを望みます。
ただ、そうじゃない人は、無理に属すると苦しむだろうなと。
そのギャップと摩擦が、摂食障害と呼ばれたり、ナルと呼ばれたりする。
「人付き合いが大好き!俺たち仲間だよな!」
「人間と人間の相関模様が大好物!」
「ワンピース!鬼滅!絆のために命掛けるのかっけえ!」
大方の人々はこういう価値観なのでしょうか。
いわゆる「マイルドヤンキー(仲間大好きマン)」と呼ばれるものですね。
自分とは価値観が違いすぎて、想像しか出来ませんが…。
「仲間」と寝食を共にするのが当たり前。
「絆」の確認作業である付き合いを疎かにしてはならない。
仲間が良しとしている生活を否定するなど、あってはならない
こう考えると、まあ、彼らの言いたいことは分かるんですね。
何かに打ち込むことは付き合いの放棄に他ならない。
それは「絆」の否定であり、部族の掟を破るあり得ない行動だ。
たぶん、そのようなことを言っているのだと思います。
受け入れられ属することを望み、叶わぬと不調をきたす。
これの象徴でしかないのなかなぁと、そう思うんですね。
そもそも、属するかどうかって人それぞれなんです。
属することを望まない人が、生きていたっていい。
属している人が優先される場があること、
それを認めるだけで良いんです。
彼らには彼らの生き方があり、それを否定しないこと。
否定的な物言いをしないだけでなく、
儀式を壊さないことも含めて。
仲間、絆、そういった所属意識は人間の本能に近い部分になります。
そこから離れられる人間がいるというのは、信じがたいことなんですよ。
あんな心地いいものを受け入れないなんて、おかしな奴に違いない、
そのように感じてしまうんだと思います。単に、感性の違いですね。
たまたま、そういった仲間意識が薄く生まれ育ってしまった。
薄い側の当人も、苦しいんですけどね。
「絆」は、人間本来の孤独や苦痛を隠すためのプログラムですから。
どこに居ても、人間本来の孤独を感じてしまう。
だから、何かに打ち込むことで取り返そうとするのかもしれません。
でも、どうなんでしょうね。
孤独と付き合う生き方って、悪いことでしょうか。
何かに打ち込むとき、必ず向き合う壁のはずです。
人それぞれに戦い方がある。人生の向かう道がある。
その道が、少しずつ違うだけ。
自分の道を進むのに、人の力が必要な場面もある。
ただ、その関り方は、人それぞれで良いはずです。
否定しないことですね。
儀式を白けた目で見ないことも、そうです。
仲間意識の醸成には、それは必須のものなんです。
自分に必要ないからと、信じられないような顔をしなくていい。
なるほどね!と、頷いて、予定を思い出せば良いんです。
「お誘いありがとう!でも親兄弟/会社/先輩の重要な儀式があって!」
さらに優先順位の高い「仲間」「絆」を使えばいいんですよ。
(これは、マイルドヤンキーたちも使っているテクニックです)
ここから摂食障害に言及というのは不思議に思いますかね。
当事者が感じているものって「疎外感」なんじゃないかな、って。
なぜだか報われない、集団の中にいる実感が持てない。
だから、自分の望まぬ方法でも何でも、無茶でもしてしまう。
そんなことしなくて良いんだ、と気が付くことなんですね。
最初に挙げた結論に戻ります。
「自分の道に向かっているか、どうか」
感じているのは、人と違う道を進む心細さです。
でも、仲間が多くても少なくても、それって同じなんですよ。
ただ、孤独に気付くか、気付かないかの違いだけ。
ある意味では「孤独に気付く勘の良さがある」とも言えるのかも。
そんなもん望んじゃいねえよ!って言いたいでしょうけど。
孤独って、そんなに悪くないものですよ。
一歩ずつ自分の道を歩む、しみじみとした感動があります。
絆を得る道だって、悪くないですけどね。