自己紹介③|長野移住&夫婦で同時に脱サラ起業。 私の履歴書《サラリーマン時代編》〜師匠との出会いと武者修行〜
この記事をお読み頂きありがとうございます。
長谷川嵩(はせがわ たかし)と申します。
はじめに
前回のnote記事では、自己紹介シリーズの第2弾として、今の私の性格や価値観形成に大きく関係していた幼少期の生活について話しさせていただきました。ワーカホリックで挑戦的な生き方を選ぶ性格は父譲りであったことを改めて振り返り自分のルーツを再確認しました。
改めて簡単にご紹介すると、私の会社は4期目を迎え、大企業から地元長野県の企業まで、多様なクリエイティブに携わりつつ、充実した仕事と森暮らしを両立しています。(企業サイトには一部ではございますが、実績を掲載しております)
私が32歳の時に大きな住宅ローンを背負い、そしてその直後に夫婦で脱サラして広告会社を立ち上げるまでの経緯を書いたnoteシリーズの一部であるこのエピソードでは、自己紹介シリーズの第3弾として、長野県への移住を果たすまでの私の職業的な道のりを「私の履歴書《サラリーマン時代編》」と題してお伝えしたいと思います。
【新社会人】就職氷河期を乗り越え広告業界へ
ドブ板営業から始まる涙の1年目
大学を卒業した私は、CM制作会社としては業界最大手のAOI TYO Holdingsの子会社である広告会社(現在は合併により存在しませんが…)でキャリアをスタートしました。当該会社は展示会、ショールーム、プライベートショーなど、イベント関連業務を得意とする広告会社でした。
私の初めての仕事は、通常「ドブ板営業」と呼ばれる厳しい現場で、毎日のテレアポと飛び込み営業に挑戦しながら、泣きながら取り組みました。そこでの経験はメンタル的にはかなりきついものではありましたが、何度も支えてくれた先輩のおかげで乗り越えることができました。
その指導係の先輩は元ヤンキーで、初めは非常に怖い存在でしたが、実は非常に優しい方でした。
新卒時に私を採用した役員の先輩は、私にとって神のような存在であり、そして指導してくれた先輩は兄のような存在でした。私はお二人を「人生の師」として自然に崇めるようになり、今でも尊敬してやまない存在です。
昨年も彼らは我が家に宿泊してくれました。それほど濃密で、私にとって大きな成長の機会を得られた社会人としてのスタートとなりました。
突然の合併で会社が無くなった
しかし、予想外のことが起こりました。突如として会社が他社に吸収合併されることになったのです。新入社員の私にとっては、それは非常に大きな衝撃でした。私たちが吸収される側であったため、私が愛して止まない会社が変わり、尊敬する先輩たちも次々と去って行きました。
「会社は突然に無くなる」、「いざという時に、会社は社員を守れない」- これらは、新卒社員だった私が辛く悲しい思いをしながら学んだ事実でした。心の支えであった先輩たちが去ってしまったことで、私は深く揺れ動き、全力疾走していた日々から足を止めざるを得なくなりました。
何より大切なことは、自分自身を強く保つこと、誰かを責めることなく、自己の道を切り開く必要があるということでした。この会社を選んだのも、そしてこの企業に留まるかどうかも全て自分の決断です。自分自身が原因であるという視点で事態を深く考え続ける日々が一段落するまで続きました。
そんな時、学生時代に学園祭にて関わっていた音楽ライブ(直接の担当者ではありませんでしたが)の制作の現場を思い出しました。たくさんの人々が感動を共有するその場を作り出す仕事に、再び興味を抱きました。そして私は心新たに、音楽業界への転職を決意したのです。
【音楽業界への転職】夢だった舞台裏での仕事
老舗のコンサート制作会社へ
私が音楽業界への転職を決心したとき、音楽専門の求人情報サイトを最大限に活用し、大学時代に交流があったコンサート制作会社の先輩にアドバイスを求めるなど、情報を集めるためのあらゆる手段を尽くしました。転職活動では、本命の会社から比較的スムーズに内定を得られ、転職活動を迅速にに終えることができました。
内定が決まった後、私は現職の会社に退職の意向を伝え、退職に向けての準備を順調に進め、引き継ぎ作業を終え退職しました。
転職した制作会社は老舗で、国内外の超一流アーティストのコンサートを制作していました。大学時代から憧れていたアーティストの舞台裏に立つことができ、毎日が感動に満ち溢れていました。特に印象的だったのは東京ドームでのコンサートの現場で、ステージから見た観客席の壮大な光景は今でも鮮明に覚えています。
心身が壊れ、生涯で最も追い詰められた
しかし…現実は厳しく、全国ツアーが重なり、数ヶ月間ほとんど家に帰れないような超過酷なスケジュールに追われました。この状況は予想していた通りではあったものの、体力や精神的には予想外のダメージを受けました。
この期間中に心身が限界を超え、生涯で最も追い詰められた時期だったと思います。仕事のミスも連発するし、極度の睡眠不足で寝坊し、現場を飛ばした事もありました。散々先輩方には迷惑をかけました…。
こんな時にでもライブの本番の歓声を聞くと嬉しくて泣けてくるくらい、音楽の現場は好きでした。
でも…「これが自分がしたい生き方なのか…?」と自問自答する日々でした。そこで、偶然にも今の妻に出会ったのでした。
【再び広告業界へ転職】
充実した会社員生活を取り戻す
その後、妻との交際を始めた頃になりますが、新卒時代にお世話になった先輩からお声かけ頂き、再び広告業界に戻ることになりました。
転職した会社は、多数の帰国子女や外国人が所属している国際色豊かな企業で、大阪と東京に拠点を持ちながらグローバルに事業を展開している、それなりの規模を持った会社でした。そこで私は、意義深く、また充実した会社員生活を送ることができました。
私は管理職のポジションにつき、新卒社員から自分より年長の方々まで、多くの部下を指導する立場となりました。国内外現場にて、様々な規模のクライアントと共にプロモーション業務を手がけることにより、広範囲にわたる人脈と経験を積むことができました。
【移住の決意】
マグマのごとく湧き出た「森林“欲”」
このタイミングで妻と結婚し、江戸川区の団地で暮らし始めました。仕事も順調、夫婦関係も良好!となると、変化を求めたがる私の中にマグマのごとく湧き出た「森林“欲”」がありました。体が心底“森”を欲してきたのです。
偶然にも私の妻も同じ長野県出身で、日常の会話からも私たちの価値観が合うことを感じていました。そんな中、彼女も私と同じように森への思いを強く感じるようになりました。
私たちは公団住宅の部屋を観葉植物でいっぱいにしたり、近くの広い公園でテントを張り一日中キャンプを楽しんだりしました。また、頻繁に私たちの実家がある長野に帰省もしました。
徐々にその「森林“欲”」は加熱していき、最終的には「移住しよう!」と意思が明確になり、移住に向けた準備期間がスタートしたのでした。
最後に
これで東京サラリーマン時代編は終了です。
妻との結婚を機に、「森での生活」への憧れが強くなり、新たな生活への決意を固め、私たちは都会の生活に対してサクッとサヨナラを告げました。 都会生活から田舎暮らしへの切り替えは、単に都市の喧騒から逃げたかったからだけではありません。私たちが目指す理想の生活は、自然と共に、自分の手で何かを作り出し、自分らしく生き、成長していく環境を求めることです。
次回は、自己紹介シリーズの最終章で、森暮らしの始まりと起業への道程をお話しします。森の中での生活とビジネスのバランス、そこで遭遇する難題と、それを乗り越えたときに見えてくる幸せな世界。新しい土地での試み、失敗、そして成長の全体像をお伝えいたします。