少女のダブルバインド
やらなきゃいけない仕事もほったらかしにしながら、私は本を作るため、昔書いた詩の選定と修正、編集をしている。
昔の詩は、その当時のまま載せようかと思ったけど、今となるとやはり稚拙な表現や、音が悪いところがあり(私は感覚的に音がスムーズに流れないのが好きじゃない)、どうしても直したりしている。
当時はその渦中にいるので、表現に余計なものがあったりもする。
私の中で詩作というのは、感情や感覚、知覚を精鋭化し、それに言葉を当てはめる作業であり、これは自分のブランド、レタルでも言えることだけど、全体を崩すような雑味があるのは好きじゃない。
というわけで色々と作業を始めているのだけど、昔の詩の中で処女を喪失したあたりのものを読むと、度々「汚れた」とか「罪」という言葉が出てくる。
そのあたりの詩は、今の自分にはしっくり来ないことも多いし、たかだか処女喪失で大袈裟な、と今になっては思うけど、それがそのときの自分には一大事だったのだろうなぁとも思い、昔の自分の混乱に胸が痛くなった。
ちょうどそのタイミングで、岡藤真依さんの「少女のスカートはよくゆれる」の中の一編の『終わらない夏』が公開されているというTwitterが流れてきた。
岡藤真依「少女のスカートはよくゆれる」
http://webcomic.ohtabooks.com/skirt/
少女の頃のあのむせかえるような性への興味と、同時に引き起こされる罪悪感。
加えて、パートナーと性的行為に及ぶ過程で引き起こされる性暴力のトラウマ。
繊細で、綺麗で、エロティックで、淡いタッチの絵がリアルな話と相まって、心の琴線にタッチする。
どうして少女の性は罪悪感に満ちているのだろう。
少女に限らない。
大人になってからも女の人は性欲を持つことすら罪悪感を持つことが多い。
みんな両親のセックスで産まれてきたはずなのに。
自撮り熟女のマキエマキさんという方がいる。
最近人気なお方だ。
このツイートを読んで、マキエマキさんが自撮りをすることにと納得してしまった。
最近「セクハラを訴えるのはババアばかり」という発言に対して「ババアになってやっと言えるようになったんだ」と反論している人がいて、それもよくわかると35歳になった私は思うのである。
性的に消費されやすいのに、自身は性欲を持つことは許されないような雰囲気さえある女性の性。
性欲を持つことや性的行為に及ぶことに罪悪感を持つ少女たち。
男性はそういったねじれ、みたいなものは少ないのではないかとは思う。
とはいえど、最近は私自身のミサンドリーがなくなり、男性ともフラットに対話できるようになったので、男性といろいろ話してみると、男性は男性でねじれがない分、性的行為にリーチできないと恥ずかしい、というプレッシャーがあるのはわかってきた。
それはそれでしんどいなとは思う。
でも、男性には「女性には性欲があることがにわかに信じられない」という人も数多くいるようで、それはそれで女性を不幸にするし、お互いが不幸になる原因のような気もしている。
性というのは、私にとっては自分を苦しめるものの反面、大変面白く、考える要素がたくさんあると思う。
性が二種類に分けられていることを不便に思いつつ、分けられているからこを生まれる表現というのもたくさんあると思うし、そう考えられる自分は、もう少女じゃないのだ。