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お題小説「正装」

 正装した父を見た覚えがない。
 遺影を見ている内に、はたと気づいた。黒い枠の中で父が着ていたのはワインレッドのセーターで「お父さんはいつもこれを着ていたな」「だからいつ撮った写真なのかもよく分からないな」と思い返している内に「そういえば」と思い至ったのだ。わたしの記憶に残っている父の姿の中に、セーターとTシャツ、作業服以外のものがない。あとは精々、最後の半年を過ごしていた病院での病衣か。
 親戚がそんなに多くない家とはいえ、家族で冠婚葬祭の場に出ることがなかったわけではない。大体、学校の入学式や卒業式くらいは来てもらっていたはずだ。それでもセーター姿以外の父を思い浮かべることができない。なんなら学校の式は本当にいつもの服で着ていたかもしれないとさえ思う。
 葬式の準備の合間に、わたしは兄にこの発見を伝えた。兄は「ああ」と遺影を一瞥した後に「俺もそうだな」と頷いた。
「親の服装とか気にするような歳になってからは、そういう機会がなかったからだろうな。母さんの晴れ着も、見た覚えないだろ」
「ないね」
「見てやろうぜ。とっとと良い男つかまえて結婚式やってくれよ。じゃないと、俺も母さんの正装見ないで死ぬことになる」
 そう言ったあと、兄はわたしの顔を見つめ、頭を掻いた。
「ああ、悪い。これ、ハラスメントか」
「いや、気にしてないけど。わたしは普通に結婚願望あるし」
 わたしの目から動揺を読み取ったのだとしたら、それは兄が言ったことの前段の部分ではなく、後段の部分に対する動揺だ。
 何故、最初から結婚することを諦めているみたいな口ぶりなのかが分からなかったのだ。
 今日だって眼鏡から靴先まで、父の葬式のため戻ってきた息子として文句のつけようがない恰好と態度ができる兄だ。子供の頃からずっとそうした如才なさで、おまけに勉強とスポーツまで誰よりもよくできていた。大学も東京の名門に進学して、卒業したあとはわたしでも名前を知っている大企業に勤めている。地元の高校を出たあとは実家暮らし、働いているんだか働いていないんだかも微妙な生活をしているわたしなんかよりも、ずっと結婚できる可能性は高い。それこそ、早くいい人を見つければ良いのに、なんて考えていた。
 あくまでちょっとした違和感で、何もなければすぐに忘れていただろう。
 けれど、わざわざ見当はずれのことを聞き返してきたせいで、その自然さが、当然のことという態度が、妙に引っかかるものになってしまい、葬式の最中も、後も、しこりのように疑問が残った。

 謎が解けたのは数か月後、喜ばしくない事態が発生してだった。
 家に、正村さんが訪ねてきた。
 正村さんは兄の会社の先輩で、会ったことは一度もなかったけれど話はよく聞いていた。「とにかく頼りになる人」とあの兄が賞賛するくらいなのだからさぞたくましい方なんだろうと思っていたのだけれど、玄関に立つ正村さんの頬は落ちくぼんでいて、背も丸まっていて、そのまま沈んでいってしまいそうだった。
「お兄さんと……うちの家内は、来ていませんか」
 父の葬式以来、兄は帰ってきていなかった。その旨を伝えると正村さんが「そうですか」と踵を返しかけたので慌てて呼び止める。
「その、何かあったんですか」
「いや、大したことではないんですが」
 わたしは何も返さなかった。兄を探しに来たというだけならば、仕事関係でのちょっとした用事で納得できなくもないが、正村さんは「家内」と言った。
 正村さんはもうしばらく俯いた後、ようやく顔を上げて母はいるかと尋ねた。わたしは首を振って返した。
「事情だけ、説明しても……?」
「お願いします」
 居間へ案内しようとしたが、正村さんは固辞した。ただ、疲れてしまったのか、式台に腰だけ下ろした。わたしも正座した。
「お恥ずかしい話なんですが、どうも、うちのがお兄さんと駆け落ちをしたらしいんです」
 正村さんは、その話をする間もずっと、兄のことも奥さんのことも下げるような言い回しをしなかった。
 兄は、勤め始めて程なく正村さんの家へあがってご馳走になるような関係になったらしい。
「弟ができたみたいな気持ちでしたよ」
 兄は、「兄貴みたいな人」と正村さんのことを話していた。勿論そのことは黙っていた。
 正村さんの奥さんと兄は同じゲームをしていたらしく、それで二人でイベントに行くようにもなったのだという。それについて、兄も奥さんも特に隠すような素振りはなく、正村さんも関係を疑うこともなかった。仲が良くて嬉しい、とさえ考えていた。
 実際、兄のことだから女友達、あるいは姉貴分と触れ合うだけのつもりだったんじゃないだろうかとわたしも聞いていて思った。
 だが、どこかで変わってしまったらしい。
「一昨日、置手紙を残して出ていかれました。お兄さんからは謝罪のLINEが」
 そこまで語ると、力尽きたといったように正村さんは深くため息を吐いた。わたしからも何か言えることはない。「もし何か連絡があれば」とだけ残して立ち去る正村さんを、今度は呼びとめなかった。
 わたしは正村さんの背中の残像を見つめるように、しばらく、ぼーっと玄関に突っ立っていた。
 兄が結婚なんて自分はできないという口ぶりだったのはそういう理由だったのか、と腑に落ちてから、少し笑えてきた。
 正村さんと離婚してもらって自分たちが結婚を、という考えも、所詮は人妻との火遊びなのだからと軽く終わらせるつもりも、兄には一切なかったわけだ。しまいには駆け落ちだなんて、テレビドラマくらいでしか聞かないようなことをやるなんて。
 正村さんの話を聞き終えても尚、わたしの頭の中の兄のイメージはピシリときめたスーツ姿だ。子供の頃から見知った兄の顔だ。
 
 一年が経ったが、兄とはまだ連絡が取れていない。正村さんの方も同様のようだった。
 それでもわたしの方はわたしの方で生活は続いている。正村さんもきっとそうだろうし、兄と正村さんの奥さんもそうだろう。
 わたしは、この一年の間にちょっとした出会いがあり、結婚をすることになった。
 披露宴は行わず代わりにレストランを貸し切って、親族知人を集めたパーティーを行うことにした。カジュアルなもので、参加は礼服でなくて良い。
 兄の席も、つくるつもりだ。

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