インターネットと意図

品田遊『納税、のち、ヘラクレスメス: のべつ考える日々』を読んでいる。まだ途中(というか、その都度適当に開いたページから読んでいるので進捗がわからない。多分まだ全部読んでいないと思う)だが、人間の反応の記述がたくさんあっておもしろい。人間の反応の記述がたくさんあっておもしろい? 物事に対する感じ方や行動の具体例がたくさんあっておもしろい。なんだその感想。

具体的なところで印象に残ったのは、例の「頻出ツイート」の話と「悪霊」と題された話だ。これだけ分厚いエッセイでそこをピックアップしている時点で意地が悪いnoteなので、この先で怒りそうな気配がする人は読まないでくださいね。


「頻出」の事態の詳細は省略するとして、当時私はあれにややイラッとした側の人間だった——らしい。ちっとも覚えていなかったが、何かその話を日記に書いたような気がするなと思って、該当箇所を読んでから自分の日記を遡った。当時の自分はこんなことを書いていた。

どうして私は苛立ちを覚えているのか、ということを今日ぼんやり考えつづけていた。恐山さんのnoteの件についてだ。恐山さんは自分が思考した痕跡/道筋、背景、意図のようなものを極力文字の上から消してしまう傾向にあると私は感じていて、その無機質さは今の環境だとおそらく傲慢に映る。受取手に対して情報の受け取り方を指定するやり方はいくらでもあり、発信者と受信者の双方を守る上で重要だろうと私は考えているが、恐山さんはそういうことをまあまあ怠る人だと思っていて、自分の意図を相手側に考えさせるような発信が度々ある。私はたぶんあの人の無防備さに怒っている。

何様だお前、というツッコミは当然だが、誰に見せるでもない日記だったので一旦大目に見てほしい。これはツイート等を含め今まで一度も表に出していないし、今の私はこれを引用しながら「へえ、そんなこと考えてたんすね」と思っている。

なぜ個人的な日記を公開したかというと、その件についての箇所とは別の「悪霊」の章で以下のような記述があったからだ。

言葉を文字通りの意味に読んで解釈するのではなく、その言葉が発されたシチュエーションも加味した「意図」を読み込むというのは、とても重要な能力なのだろうと思う。しかし、ときにその意味を無視して意図だけが読み込まれ、すり替えられる。これだけはどうしても慣れない。

品田遊『納税、のち、ヘラクレスメス: のべつ考える日々』

発売してそう経っていない本から引用しておいてなんだけど、これだけ書いてもよくわからないかもしれない。私はこの箇所の話を「ネット上では書いていない意図が勝手に解釈され、その結果炎上するようなことがあるが、自分はそれを快く思っていない」という感じで読んだのだが(それが誤っている可能性も当然ある)、そこでかなり「なるほど!」と思った。


「頻出」の件も同様に、意図が読み違えられた結果起こったタイプのものだろう。ここで想像されたり誤解されたりした意図とは、端的に言えば「なぜこの人はこんなことを発信しているのか」という理由だ。

しかし、エッセイの中で恐山さん(品田さんと書くほうがなんかしゃらくさくないですか?)が書いていたその理由は、想像で到達するには難しそうな一方で、おそらくそれが読み取られた時点でメッセージの効果を十分になさなくなるのではないかと思われるようなものだった。そこで過去の自分の誤読がわかった。相手に意図を考えさせているわけではなかった。むしろその意図は不在でなければならなかっただろう、ことインターネットにおいては。

うまく説明できる気がしないので、結論から先に書く。その試みを邪魔したのは、個人というメディア性の問題なんじゃないだろうか。誰が発信したか、ではなく、誰かが発信している、だ。SNSは「平たい」場所なので、誰かが何かを言っているとき、それは内容だけでなく「そういう人がいる」のメッセージを持ってしまう。誰かが何かの目的のために何かを発信していることに対して、自分に向けられていると考えるにはその場はあまりに広く、アカウントは相対化された個人にすぎない。仮にそこで意図がちゃんと想像されたところで、「隣の町に革命家になりたいって言ってる青年がいるらしいね」みたいな感じにしかならないのではないか。エッセイですら、「へえ、この人は今のインターネットに対してこう考えているのか(そして、こう行動したのか)」という感想と「確かに、そうあるべきだ!」みたいな同調をする人の数を比較すれば、前者のほうが多いだろう。それは健全だともいえる。後者の同調がすぐ起こりうることは危険でもあるからだ。

文学や演劇で観客に挑戦的な、ときに現実に対する教訓じみた内容を伝えられるとすれば(そして、その意図が理解されてもなお有効であり続けられるのだとすれば)、それは作り手がわが特権的な立場にあり、観客が否応なくその場における当事者であるからではないか。それでもある種の「分析」は、作り手にかかった魔法を解いて、一人の人間に矮小化していくような側面を持っているだろう。SNSはそれが容易で、かつそこに偏見や根拠のない印象がめちゃくちゃ入り込んでくる環境なだけだ。

要するに、恐山さん自身が書いているようにSNS上では意図が印象として頻繁に想像されてしまうし、想像に対して客体になったところで既にそのメッセージがまともに伝わる可能性は低いんじゃないか、というのがこの部分に対する私の感想だ。


ここまで書いてきたように、私自身の印象の上でも、その人は人間の具体例になったり一個人になったりしている。エッセイを読み進める道のりは、なんだかふらつきながら歩いているような感じがする。豊かな感性に触れるたびにめまいがするが、ある程度作られたものでもあるだろうしそうでもあれ、と思う。思っているのか? 本当に。結局のところ、文字から何をどれくらい感じとるべきなのかよくわからない。距離と理解の方法に正解はあるのか。私はネット上の人物をクリエイターとして以外に尊敬しているなんて話を全部錯覚だと思ってきたが、もしかすると自分のほうが乏しい見方をしているのかもしれない。目がしぱしぱする。カーソルの上に陽炎が立ちのぼる。