小説「Guilt:」

 朝、珈琲を傾けていると、決まって彼のことを思い出す。それは罰なのだと思っている。人は生活の中で、特定のものや、場所や、習慣に、忘れられぬ人の影を見る。珈琲の味を私は知らない。それはなにも、彼のことを考えるのに夢中になっているわけではない。ただ過ぎ去ったものを再び押し流す、それは日々の濁流である。一杯飲みほして立ち上がる。すると私はきっと彼を忘れている。そうでもなければこの唇にリップを塗って、陽の光のもとに出ていくなんて、とても人間のできることではないだろう。


 当時、私は某国でとある研究所に勤めていた。国境付近の少々殺伐とした空気の漂う町にある他には特筆すべき点のない小さな研究所で、そこでは主に製薬の研究がなされていた。私はそれなりに可愛がってもらっていたけれど、それは私が他の人たちよりずっと若く、幼く、無知だったからだということは、身に染みてよくわかっていた。私は助手というより、単なるお手伝いにすぎなかった。至極当然のことだった。私はあと三十年経っても、あんなふうにはなれないだろう。頭の出来が違うとはこういうことなのだな、と私は入ってすぐに知り、しかしこの人たちも、こんなところで別に軍事研究でもないことをしているのだから、世間からすればちっぽけなものにすぎないのかと感慨にふけった。給料袋の中身は多くはなかった。しかし、むしろまっとうな感じがした。私はそれまで学校へ通っていたのと同じように毎日そこへ出向き、雑務をこなしたり、何度目かの実験を引き受けたりしていた。
 勤めはじめて数年が経った頃に、私にお見合いの話が持ち上がった。母は、姉の夫の友人の誰かの息子が近くに住んでいるらしいから会ってみなさい、と言って、なぜだか写真でもプロフィールでもなく連絡先を教えてきた。私は単に、これはもう決まった話なのだろうと思った。私の意思はあとからついてくることだけを望まれている。嫌だとはそれほど感じなかった。それが非常に、親からすれば合理的な方法であるのはよくわかっていた。
 あなたにはもったいない人、すごい人だと、伯母がやってきて言った。そう言うならそうなんでしょうと私は答えたと思うけれど、おそらくそれは伯母の耳には入らず、彼女は紅茶にレモンをぎゅっと絞ってその汁をこちらまではねさせて、向こうの了承は取ったからあなたはただ明後日の二十時に駅前で立っていればいいのよ、と嬉しそうにまくしたてた。
 それはおかしな話だった。相手の顔も知らないお見合いなんてものがあるの。待っているあいだじゅう、私は気を抜くと笑ってしまいそうだったし、同時に、怖くてその場から逃げ出してしまいそうだった。なにしろ男の人とふたりで待ち合わせること自体、初めての経験だったのだ。遠くから私の顔を見てすっぽかされるんじゃないかと気が気でなく、だから突然知らない男性から「もしかして」と声をかけられたとき、私は心底ほっとしたのだった。

 その人は私よりいくらか歳上で、国の、ある有名な特殊部隊の軍人だった。しかしその華々しい肩書きとは裏腹に、彼自身はとても――言ってしまえば、地味な印象を受けた。それは所謂軍人らしい質実剛健というのではなく、どこにでもいるサラリーマンと言われたほうがよほど納得できるような感じだった。細い目はいつもぼんやりとどこか遠くを見つめていて、体格も着痩せするほうなのだろう、コートなんかを羽織っているとかなり細身に見えた。私は、つい、本当に軍の方なんですかと尋ねてしまった。言ってからはっとして慌てて頭を下げた。「すみません、あの、失礼な質問でした」
 すると彼は「よく言われます。気にしないでください」と小さく笑った。
「僕の仲間はテレビなんかで英雄扱いされてますが、僕はただの裏方ですから。親にも、お前は本当にあそこで働いてるのかといまだに帰るたびに言われます」
 彼の声は年齢の割に落ち着いた印象を受け、穏やかで耳なじみがよく、ちょっとぼうっとしていたら通り過ぎてしまいそうだと私は思った。
「配属されてから、どれくらいになるんですか?」
「五年です」
「それは、長いんでしょうか」
「長くはありませんが、部隊の中では長いほうではあります。僕の直属の上司は十一年やっていますが、前線にいるのは大体ここ二年以内に配属された人たちです」
 その意味すること――彼の仕事はあまりに危険なのだということを理解するのに、私は少しの時間を要した。彼はその間、柔らかい眼差しで私の眉毛のあたりをじっと見ていた。彼の背の高さからは、そのあたりがひとつ自然な置き場所だったのだろう。上目遣いに見やると、彼はきまって驚いたように瞬きをした。まるでそれが動くとは思ってもみなかったかのように。
 可愛いところのある人だ、と私は思った。それが第一印象だった。
 そのまま斜面を石が転がっていくように、私たちはお付き合いをはじめた。好きだと言い合ったわけではないけれど、私たちは週に一度ずつのお互いの誘いを決して断らなかったし、それはときに恋愛映画であったり、小ぎれいなホテルであったりした。これをデートと言わずになんと言うでしょうね、と私は彼の分厚いからだに包まれながら考えた。その中で私は一度も夢を見たことがなかった。息を閉じるように眠り、朝目が覚めると彼は先に起きていて、大抵ちかくで身支度をしていた。おはようございますと私が掠れた挨拶をすると、彼は夜の続きのような声で、珈琲が入っていますよと言った。


 あるとき、それは朝ごはんを私のアパートで共にしているときだったと記憶している。私たちがトーストをかじっている横で、テレビはしきりに隣国との情勢悪化を伝え、経済への影響を伝え、政治の欠点を嘆いていた。私はぼんやりと、戦争になるんですか、と尋ねた。彼はテレビの向こうの青空を眺めながら答えた。
「はっきりしたことは言えませんが、おそらくは」
「すると、あなたも戦争へ行くんですか」
「可能性は大いにあります」
「……軍人の方がなにをされているのか、具体的には私、何にもわかりません」
「それでいいんですよ。知らない方がいい」
「人を、殺すんですよね」
「言い方によるでしょう」彼はトーストの端っこを口の中へほうりこんだ。意外と、こう——〈男らしい〉仕草をするものだなあと、私はそんなことばかりを意識の端で気にしていた。
 テレビの画面が変わった。自動車のコマーシャルが流れ始めた。
 彼はテレビの電源を切り、私に目を移した。
「気にしますか、やっぱり。僕が軍人なのは」
 私は慌てて言った。
「いえ、あの、全く、嫌なわけじゃないんです。すごいと思っています、本当に。ただ……私には遠い世界のことなので、想像できないんです」
「僕からしても、ミカコさんは遠い世界の住人ですよ」
 そう言って彼は笑った。小さな子どもを諭しているみたいだと思った。
 私はトーストを飲み込んで言った。
「この前、軍の方のインタビューを見ました。……誇りを持って仕事をしていると、言っていました」
彼は数秒黙り込んで、ちょうど薄くほうれい線のあらわれるようなところをかすかに動かした。
「それは、その人がヒーローだからでしょうね」
「ヒーロー?」
「僕は……仕事を全く誇りに思っていないと言えば嘘になるかもしれませんが、表立ってそう答えるようなものではない気がします」
 ああ、と彼はほっと息をついた。「これが答えかもしれない」
「何の、ですか?」
「要は、僕のことが理解できないんでしょう?」
 私は迷って、半分うなずき、半分首を傾げるようなへんなポーズでその言葉を受け止めた。彼は時折目を閉じて考え込みながら、僕は軍人ですが、と前置きして、
「僕は誰にも讃えられないから、人を助けたり、殺したりできるのかもしれないです」
「……と、いうと?」
「僕は誰のヒーローにもなったことはないんです。他の人たちとは違って、僕は目立たない仕事ですから。やったことに対して世間から褒められはしないし、責められることもない。だから、続けていられるんだと思います」
「責められるのは誰だって嫌だと思いますけど、褒められるのも?」
「ええ、推測ですが」
 彼は穏やかな微笑みをうかべて言った。そして彼はお皿を持って、立ち上がった。
「僕ばかり話しても仕方ない。ミカコさんの話を聞かせてください」
「私なんて、そんな、話すこと何もないですよ」
「なんでもいいんですよ。僕は何も知らないんだから」
 私も立ち上がってキッチンへお皿を運ぶと、彼はそれを受け取って慣れた手つきで洗い始めた。私もやりますと言ったけれど、彼は二人じゃ狭いでしょうと言って取り合わなかった。仕方なく、私は洗い終わったものを受け取って拭きはじめた。そんなふうに私がばたばたと慌てているのがおかしかったらしく、彼はしばらくくすくす笑っていた。つられて私も笑うと、笑い声が近くで重なって、なんだか輪唱でもしているみたいだった。彼は石鹸のついた手を口元に近づけてまた笑ってみせ、ほら何か話してくださいよ、と言った。後から考えれば、これが私と彼の最後の平和な日常だった。私はしばらくそのとき彼の言ったヒーローというのが忘れられずにいた。彼の知らなかった姿を垣間見たように思えて、恐怖や疑問を超えて、私は本当に嬉しかったのだ。


 数週間後、戦争が始まった。
国境に面したこの町は戦場にこそならなかったものの、新たに軍事施設ができたりして、少しずつピリッとした空気をおびはじめた。この町に住む人はみんなある程度のことには慣れていて、パニックにならなかったことは幸いした。それでも、いや、だからこそ、その雲行きの怪しさを誰もが感じていた。
 その日、研究所が閉まった。国境から近い町の半分の施設に閉鎖の命令が下ったのだ。臨時休業というとご飯屋さんみたいだね、と所長がおどけて言い、再開の決まった見込みがないんだからもっと言い方があるでしょう、と先輩が釘を刺した。私は言い方なんてなんでもいいと思っていたが、自分に今なんの肩書きもないのだという状況には、少しの寂寥感みたいなものがあった。私は大学受験に失敗したときのことを思い出した。あれとは違うけれど、それより良いのか悪いのか、私には判断がつかなかった。
 なぜかアラームをいつも通りにかけて起き、お湯を沸かしているときだった。携帯が鳴った。彼からの電話だった。彼とはもう、一ヶ月以上会っていなかった。三週間前のメールに、中々家に帰れそうもないのだと書いてあったきりだった。
「もしもし」と彼は向こう側で言った。直に聞くより、少しだけ高い声がした。
「今晩は帰れそうです。もしご都合が合えば、ご飯でも行きませんか」
「だいじょうぶです。ぜひ」
「よかった。では、郊外にいいレストランを知っています。そこはいかがでしょう」
 私は了承の旨を返信し、振り返って、部屋のクローゼットを開けた。そして、少ない中からいちばん良いだろうと思える小ぎれいなグレーのワンピースを出した。それからふと、彼は一体どんな服で来るんだろうと考えた。私だけはしゃいで、ばかみたいじゃなかろうか。だって彼はあんなに忙しくしているのだ。けれども他に良い案も考えられず、私は結局ワンピースに着替えた。着てみたら案外みすぼらしくて、今の時間はなんだったんだろうと思った。
 レストランの前で、彼は煙草を吸っていた。私はそのとき初めて彼が喫煙者だったことを知った。私が声をかけると彼はにっこり笑った。よれた白いシャツに、グレーのジャケットを羽織っていて、それが黄色い光の中で影のほうへ吸い寄せられているようだった。
 私は、こんなときでも変わらずご飯を出す店があるのね、と内心感心しながら、パスタをくるくる巻いて口に運んだ。彼は向かいでビーフシチューを食べていた。それだけで私には、ここはまったく平和な町のような気がしてしまったが、しかし彼の目は、どうも私を見ているとは思えなかった。言ってしまえば、それはきっと軍人の目だった。それだけがいやに気になって、私はフォークを落としそうになり、気付いた彼があっと声を上げてやっと自分の手に意識を取り戻した。
 しばらく静かな食事が続いた。私は、今日は涼しかったですね、と言った。
「そうでしたか」
「気付かれませんでしたか」
「今日は、外にいなかったので」
 それにしてもわかりそうなものだけれど、それ以上は追求しなかった。尋ねられても困るだろうと思った。それに彼は何も言わなかった。黙っているのが、彼の日常なのだろうと思った。私は自分の職場である、研究所を思い浮かべた。あそこはきっと、外と比べれば静かには違いない。けれどもなんだかんだと誰かの声や物音があって、まったく無音になることはほとんどない——今を除いて。まるで真夜中のように、カーテンの閉まった中で眠っている試験管のことを思うと、なんだか私までそこに閉じ込められて置いていかれているようでおそろしくなった。
 彼はその中でも、きっと立っていられる人だった。私とは違うのだ。いつの間にか食事を済ませ、彼は窓の外をたまに通り過ぎていく車を眺めているようだった。
「……あなたは、軍の方なんですね」
 そのキョトンとした顔には、何を今更、と書いてあった。私は続けた。
「もし私が裏切ったら、私を殺しますか?」
「……僕は殺しません」
 彼は静かに答えた。「僕の仲間が、敵を殲滅しに行くだけです」
 そうですか、と頷いてから、「へんなこと聞いてごめんなさい」と笑った。
「だいじょうぶです。私、ただの一般人です。スパイでもなんでもない」
「……怖いですか?」
 彼はそっと私を見つめた。
「え?」
「今、この国が」
 私は咄嗟に口に入れたものを慌てて咀嚼し、喉の奥へ押しやって、「そんなことはないです」と言った。
「じゃあ、怖いのは僕ですか?」
 今度は言葉に詰まった。怖い? 彼が? 
「いいえ」
「そうですか」
 私は急に恥ずかしくなって顔を伏せた。黙々とパスタを食べ終わり、ちょっと目を上げてみると、彼はまだ私が最後に見たときと変わらずこちらを向いていて、額の斜め前で視線が交差するのがわかった。
 そして彼はテーブル越しに身を乗り出して、私の唇に、ドラマみたいなキスをした。


 戦況は悪くなる一方だった。そう伝えられているわけではないけれど、私たちは肌でそれを感じられる場所にいた。町の七割が立ち入り禁止区域に指定され、親から引っ越しなさいとひっきりなしに連絡が来た。私は電話を取らなくなった。あの人たちは、もう彼のことを忘れているのかしら。
 ニュースは特殊部隊の壊滅的な被害を伝えている。亡くなったという名前の中に彼はない——この時点では。私はどうしても彼の息を知れる場所にいたかった。それは不可解にも思えるような衝動だった。私は彼が今どの戦場にいるのかも知らず、怪我をしていても治す力もなかった。それでも町をひとりで出る気にはならなかった。
 これは侵略だ、と誰かが言った。私たちは私たちを失うだろうと誰かが言った。
 けれども失われる私とはなんだろう。私なんてどこにもあるとは思えず、あるとすれば、ここにいることを望んでいるこの私に他ならない。むしろ私は今、これまでで最も私を感じているのだ。そんなことを真面目に考えた。ずっと熱があるみたいだった。
 突然彼から連絡が来た。うちに来れますかと書いてあった。喜ぶ間もなく二通目のメールが来た。やっぱり公園にしましょうとあった。
 私は洗いざらしのジーンズをはき、スウェットを被って着て、貴重品をリュックに背負い、公園へ急いだ。町中には久しぶりに人を見かけた。みんな逃げているのだ、と私は他人事のように考えた。反対方向へ人をかき分けて走るのは、ひどく痛快だった。私だけが本当のなにかを知っているようで、走りながら私は、笑っていた。それは側から見れば異様だったに違いない。
 公園はがらんとしていたけれど、それでも一瞬、そこにいるのは彼だとは気付かなかった。いや、確かにそれは私の知っている彼に違いなかった。柔らかい目と着痩せした身体は、初めて出会ったその日の彼の印象そのままだった。
「ミカコさん」
 彼は私の名前を呼んだ。
「逃げましょう」
「……逃げる?」
「この戦争は、負けです。この国はなくなる」
「それで、逃げるんですか?」
「ええ」
「別の国に?」
「いえ、紛れ込みます。あの列車の中に」
 彼の視線は私の後方の、人々の殺到した駅へ向けられていた。
「で、でも、……」
「僕はいいのかって、言うんでしょう?」
 私は頷いた。
「僕の名前は、軍の名簿にはないんです」
「え?」
「そういうものなんです。どこにでも一定数います。……たとえ死んでも、わからないんです」
「本当に?」
「本当です」実験結果を報告するみたいに彼は言った。「だいじょうぶなんです。僕に任せてください。僕が生きていることを知っている……知って生きている人は、もうそう多くはないんです」
 一息に言ってしまってから、彼は公園のベンチに腰掛けた。ベンチは薄く砂ぼこりが積もっていて、彼のズボンにまっすぐ汚れた線が入っていた。私は隣に座り、横顔をじっと見た。
 彼は思いつめたようにうつむき、息を吸った。そして、カバンから水筒を取り出して言った。
「これを飲んだら死ぬ、と言ったら、どう思いますか?」
「……嘘だと思います」私は顎に手を当てて、久しぶりに真剣にものを考えた。「そんなものを持って逃げるのは、危ないでしょう」
「その通りですね」彼は笑っていた。あーあ、と天を仰ぐ彼は、それまで見たどんな彼より、子どもっぽく、明るかった。
「僕も人間だったんですね」
 彼は水筒の蓋を開けた。そして中身をその場にひっくり返した。鍋にでも注いでいるみたいに優しく、彼の足元に黒い水たまりができた。そして残り少なくなって手をとめ、彼は私を向いた。
 私は彼の左手に、自分の右手を重ねた。握ることはできなかった。彼の手は大きくて、端まで指が届かなかった。
 彼は一瞬のうちに、残りを自分の口へ開けた。
 さあっと、世界の色彩が変わった。彼は苦しんでいた、ように思う。しかし、私はそれを知覚できていたのだろうか。視界がぐるぐると、暗転したり、逆さまになったりして、そのはざまで彼の呼吸音が、大きくなり、小さくなり、なにかがこぼれ落ち、身体が崩れていくのを私は知った。しかしもうなにがなんだか、処理しきれない短い映像だけが瞼に点滅した。全部夢のことなんじゃないか、と私は考えた。もしも夢の中で彼に出会っていたとして、何の違いがあるだろう。いいえ、これは、現実です。すると、今から始まるのが私の夢なのかもしれない。彼は私の世界のすべてだったのだ。私の現実のすべては彼だった。起きているあいだ、私は彼のことだけをずっと考えていた。——それは都合の良い、記憶の改竄かもしれない。今となってはわからない。そもそも彼がここに存在していたことを、私は私の痛みによってしか証明することはできなかった。
 目を瞑り、開けた。世界の色は少しだけ戻っていた。
 私は彼の名前を呼んだ。
 彼は応えなかった。
 それが今の私たちのすべてだった。


 しばらくして、公園に女性がやってきた。一目見て兵士だとわかった。明らかに弱そうな一民間人である私に、特に警戒もせず歩み寄ってきたその女性は、残り十数メートルのところで彼に気付いたようだった。女性は倒れた身体が微動だにしないのを確認し、再び近づいてきた。私はそこでやっと女性が自分と同じ国の出身ではないのだとわかった。
 女性は私に、訛りの強いこの国のことばで、君がやったのか、と聞いた。それから彼の頭をつかんで顔を確かめ、この男は軍人で、一昨日私たちの仲間を壊滅させたひとりなのだと説明した。彼女のズボンの腰のあたりには、小型拳銃がきつくねじこんであった。私がなんにも答えないでいると、彼女は振り返って、もう一度、君がやったんじゃないのか、と今度は問い詰めるように言った。
「違います」
 私は答えた。喉は震えても立派に返事ができるのだった。
「そう。じゃあ、心当たりは?」
「ありません」
 彼女は彼のからだをぺたぺた触って調べ、「病気じゃない。自殺かもしれない」
「自殺」私はその言葉を繰り返した。
「ここじゃ詳しいことはわからないけど……何はともあれ、良かった」
 その横顔は、本当にほっとしたような、穏やかな顔つきだった。私は異国で戦争に身を投じるような人がこんな顔をするものなのかしらと思い、しかし同時に、その表情に私は確かに見覚えがあるじゃないかと脳の裏側で考えていた。彼女は眉間をぐっと寄せ、一度強く目を閉じた。何かに祈りを捧げているようでもあった。
 再び目を開けると、女性はなにか身分証明になるものを持っているかと尋ね、私が見せたパスポートと顔をじっと見比べてから、写真を撮るでもメモを取るでもなく黙ってそれを返してくれた。彼女は手を取って私を立たせた。
「一般人は早くこの町を出た方がいい。道がわからなければ、私が案内する」
「どうしてですか? あの、彼は」
「どのみち灰になる」
「え?」
「空爆だ。一般人は攻撃しないから、安心しなさい」
「……どうして」
「目的は軍事施設の破壊だ」
 彼女は無線を取り出し、おそらく、民間人を保護したというような連絡をした。応答があってから彼女はついてきなさいと言って歩き始めた。あの、と私はその背中を呼び止めた。
「駅なら、一人で行けます」
 彼女は少し悩むような仕草をして、うんと頷き、また無線でなにやら報告をした。彼女は公園の大通りまで送ってくれた。そして最後に私の手を引いて、耳元で囁いた。
「ここであったことは全部忘れなさい」
 耳の奥がキーンと鳴り響いた。一度真っ白になった脳味噌が、頭の中から散り散りに飛び出していってしまいそうだった。彼女は続けて何かを言った。聞き取れなかったけれど、それはたぶん福音のような言葉だった。


 戦争が終わると私は研究所を辞め、借りたアパートの近くの本屋でアルバイトを始めた。本屋は海の近くにあって、店の中でもかすかに潮の香りがした。その町に住んでいる人たちはみんな戦争なんて知らないような顔をしていた。しかし私もその何を知っているかと言われれば、何も答えられないのだった。本を相手に仕事をするのは楽しかった。なによりその静かなのが気に入っていた。

 この前不思議な夢を見た。そこにあらわれた、顔だけがぼんやり浮かんだそれは、自分のことを神様だと言った。神様は私になにかを言った。しかし目覚めてみると、その部分だけがはっきり思い出せないのだった。今となってはそれが赦しであったのか、はたまた地獄行きの通告であったのか、それともまったく違うことだったのかはわからない。けれども、私はそれが地獄からの囁きだったように思えてならないのだ。起きて、寝返りを打って、再び目を閉じると、そこに赤くぼうっとあの人が光っていた。その手が私の首にかかるのを私は待っていた。深く、重く、それを受け止めてしまえたならば、私は二度と目を覚ますことなく、眠っていられるような気がした。