画面の向こうのあなた:【夜はなにいろ】 浅倉透
いつも、どこにいればいいんだろう、と思う。
透の目はプロデューサーを見ていて、プロデューサーは私ではない。
シャニマス特有の矛盾だ。プロデューサーは確固としたその世界に生きる人物として設定されていて、しかし私たちはプロデューサーの立場からアイドルをとらえている。透は特に顕著だ。私は幼少期の浅倉透と会ったことはない。あの場で声をかけたのが彼だから透はアイドルになったのであって、それが私だったら、透はアイドルにはなっていない。
そういう歯痒さのような、悔しさのような、あるいは羨望のような感情が、常に透のプロデュースコミュにはつきまとう。そこには知らない人がいて、知らないけれど尊敬すべきその人の目で、私は浅倉透を見る。
透のコミュは押し並べて難しい。【夜はなにいろ】は、その中でも難しいほうに入るだろう。
物語は透がイベントに登壇しているシーンから始まる。プロデューサーはその様子を見守りながら、倉庫で映画を見ていた透との会話を思い出す。透はモノクロの映画の、形と線と、色を見ていると言った。プロデューサーは思う。
この時点でじゅうぶん抽象的だけれど、その後物語はより曖昧な言葉で、より不思議なエピソードを語る。2つ目の「あじする」では二人でカップ麺を食べた後に、外に出て雪を味わう。3つ目の「夜の器官としてぼくら」は夜空の下を歩きながら会話をするコミュだが、透の言動の意図も、そもそもタイトルの意味すらよくわからない。4つ目のコミュ「いろする」は透とプロデューサーが待ち合わせをしている場面で、それぞれのモノローグが大半を占めている。透のモノローグは難解だ。モノローグなのに脈絡がなく、透の心情を知れるかと言えば、あまりそうとは言えない。不自然なほど具体性を欠いていて、それは遠く離れたプロデューサーのモノローグと奇妙に共鳴する。
それを私たちは、どう見ればいいのだろう。
透のコミュを解釈しようとすることは、いったい何をすることなんだろう、とたびたび思う。私たちはこうしてコミュを見て考えを巡らせるけれど、そのとき考えているのは物語についてなのだろうか、それとも浅倉透についてなのだろうか。私が理解できないと思うのはコミュなのか、それとも透なのか。
彼女の場合、両者の境界線はかなり曖昧だ。透の言葉はときに、まるで物語を媒介しているみたいに見える。透の言葉の真意を探りながら、同時にその言葉がこの物語に対してどのような意味を持っているのだろうと考えてしまう。彼女のモノローグは、本来繋がる必要のないプロデューサーの回顧に影響するはずだ、と。
浅倉透のコミュは難しいとよく言われる。けれどどれにも美しいストーリーラインがある。【夜はなにいろ】なら色や味をめぐって、二人の丁寧な関係性が描かれる。私は鑑賞者としてそのコミュを見つめる。そこに彼女はアイドルとして登場する。浅倉透は、魅力的だ。そう判断できる理由がそこにはある。彼女はこちらに向かって「プロデューサー」と呼ぶ。
これは映画ではない。ショットだけを見つめるのに、シャニマスのコミュの形式はそれほど適してはいない。だからわからなくなるのだ。私たちは物語を抜きに、浅倉透だけを知ることはできない。私がそのまま上を向いたって、眼鏡やコンタクトレンズが空を縁取っているように。
常にそこにはレンズがあり、フレームがある。
夜に佇む透は、モノクロに見える。プロデューサーの目が突然おかしくなったわけではないだろうし、私たちの目がその赤だけに色をつけたわけでもない。おそらくは比喩的な表現だ。プロデューサーの中で何かの色だけがはっきり見えて、何かが意識から外れる。私たちはプロデューサーの意識の結果だけを知らされている。それはその世界の事実ではない。
私にはプロデューサーがわからない。
透の言葉で同じように何かを言うことがプロデューサーとして誠実かどうかは、正直疑わしいと思っている。もっとわけわかんないって言ったほうがいいんじゃないか。何言ってんだって、高校生とは思えないほど子供っぽい一面を、咎めたっていいんじゃないのか。このコミュで彼はもどかしくなるくらい透に沿って、透みたいな言葉で世界を切り取る。もしかして、あなたがそういう人なのか。自然と曖昧な言葉を喋って、まるで夢の生き物みたいにそこに生きているのか。
私は透を、もっと単純だと思う。色や線や輪郭や、味や重さや音や温度があるなんて、わざわざ言葉にされなくたってわかる。ただそこにいる透を眺めているとき、むしろ彼女は、それだけに見える。人間の色と形と輪郭を持った、一人の女の子の画像。
私には虹色は見えない。
だから私は、プロデューサーにはなれない。私はプロデューサーではない。
雪を食べるな、透。それは空気中の、不純物の味だよ。