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小説「あいつがピンクのGジャンを脱いだ日」


 るなちの横顔が好きだった。俺の青春そのもののような気がしていた。


 るなち、本名、小林瑠奈。俺たちのバンドのボーカル。商学部。2年後期のGPAは2.6。好きなものは音楽と服。肩よりちょっと短いボブカットに、いつも青いインナーカラーを入れていて、歌って身体を揺らすたびにちらちらそれが見える——と言いたいところだけど、実際は照明が眩しくて色なんてよくわからない。美容院に行く金がないときは、色の抜けきったがさがさの金髪を黒いゴムでひとつに結んでいて、そのほうがお客さんには好評だったりする。顔が見えるからだ。るなちは顔がいい。大きい目に濃いアイシャドウとマスカラをのせ、へんな色のリップを塗って、可愛いよって歓声に、あいつは恥ずかしそうに「ありがとう」と笑ってみせた。

「えーと、次の曲は新曲なんですけど、けいちゃんが作曲して、マサトが詞を書いた曲です。聴いてください、『モスキート』」

 るなちの声が狭いライブハウスに響き終わると、ひろたのドラムと、けいちゃんのギターと、俺のベースとが、順々に重なって音を増やしていく。この瞬間が何度味わってもたまらない。薄暗い中で俺たちはひとつになり、その殻を突破するように、るなちが歌い始める。

『聞こえていますか? ラジオから流れる特殊周波数』

『街じゃ誰も気付かない 私たちだけの暗号だ』



 4月は新歓の時期だ。大学中が騒がしくなり、お祭りみたいな高揚感の中で日常が流れていく。ひろたはサークル全体の幹事長になって中々つかまらなくなった。俺はその点気楽なものだ。役職も何もなく、新歓にもあまり関わっていない。部室に行くとけいちゃんは割といて、一緒にスマブラをやる。Switchが誰かに取られているときは、音楽の話をする。

「新歓でさ、新曲やるんだろ」けいちゃんがアイスを食べながら言う。
「やるだろ。多分」
「ちょっと嬉しくない?」
「えーなんで」
「だって自分作った曲みんなにやってもらえんの、嬉しいじゃん」
「何お前、そんなこと思ってたの? じゃあもっと俺たちに感謝しろよ」
「バーカ、てかお前だって嬉しくねーの。るなちに歌ってもらってさあ」
「あー、まあ」俺はアイスの実を噛み砕いた。
「るなち用に書いたんだろ? あれ」
「るなち用ってわけじゃねーけど、そりゃうちのバンドでやるんだもん、意識はするよ」
「そりゃそうだ。でもま、評判よくてよかったよ。るなちもひろたも気に入ってくれたし」

 けいちゃんは俺のアイスの実に手を伸ばして、勝手に自分の口に放りこんだ。そのままソファの背もたれに寄りかかって、ぐーっと伸びをする。

「今日、二人くんの?」
「ひろたはバイトって」
「るなちは?」
「さあ」

 来るんじゃん、と言いかけて、俺は止める。部室の扉が開くと同時に「おはよー」と言った声は、よく通って、割と高くて、少しだけ舌ったらずだった。

「るなち。おはようって時間じゃねえよ」
「あはは、ごめんごめん、ちょっと他に用事があってさ」

 るなちはでかい黒リュックを床に置き、ピンクのGジャンを脱いで俺たちの隣に座った。そんなことより、

「え、るなち、髪染めたの」
「あーうん。気付いた?」
「ほんとだ。心境の変化?」
「まーそんなとこ?」

 るなちは右手で短い毛先をわしゃわしゃしてみせる。その色は黒かった。真っ黒だ。真っ黒のショートカット。俺はそのときはじめて、今までの彼女の髪色がどれだけ明るかったか知った。

「なにマサト、似合わないって言いたいの」
「違うよ、じゃねーけど、なんか真面目じゃんって思って」

 それは事実として、よく似合っていた。るなちは色が白いし、何より顔が可愛い。元が奇抜だったぶん差分としてパーツがはっきりして見え、いかにも気だるそうなバンドマンだった元のるなちに比べて、快活そうな印象があった。なんというか、ちょっと一般受けする美人に近づいた感じ? と俺は思った。でもそんなことは言わない。

「いいじゃん。あ、でさ、新歓公演のセトリの話してたんだけど。新曲ってやる?」
「え、やるんじゃないの? よかったよね、先月の。マサトの詞、友だちが褒めてた」
「俺は?!」
「えー、メロディーについてはなんにも言ってなかったなー」
「嘘だろー?! ちゃんと聞いてよ? 曲がよくなきゃ意味ねーんだからって」

 るなちは笑った。だからこのときは、俺も気にしていなかったのだ。心境の変化なんて誰にでもあるし、髪色くらいなんでもない。そんなところにるなちがあるわけじゃない。「あ、二人とも、アイス食べてるじゃん」るなちが言う。「いいな、私のぶんないの?」「来るってLINE入れてこなかっただろ」

「それに買ってきてても、もうとっくに溶けてるよ」



 その日は夏みたいに暑くて、俺は薄っぺらいロンTが張り付くのをバラバタあおぎながら、だだっぴろいキャンパスを歩いていた。冷房が恋しくてコンビニに入ると、俺と同じような目的なんだろう、いつもより目に見えて店内は混み合っていた。ひとまず深呼吸をして、それから飲み物でも買おうかと奥に進む。コーラとかモンエナとかが並んだ棚の前で、女の子が立っている。「すいませーん」と俺が上から声をかけると、ああ、とその子が一歩下がった。

「って、マサトじゃん。ちょっと久しぶり?」
「……え、るなち?」
「気付いてよお、もう」

 るなちは俺が開けた扉の中に手を伸ばして、サイダーを取った。「ほら、何、コーラ? 早く閉めないと後ろ邪魔だよ」

「ああ、うん……んじゃ、コーラ」
「はい。3限終わり? 今から部室行くの?」
「ん、まあ、そのつもり。5限入ってるから、それまでだけど」
「そっか。ねえ、ひろたに一言言っといてくんない? 予定、前言ってたやつで大丈夫そうって」
「わかった。……あの」
「ん? なに」
「るなち、なんか、イメージ違う? 今日」

 るなちは明らかに気まずそうに、ああ、だよね、と言って、頰をかいた。

「変かな」
「変……ってわけじゃないけど」
「あー、マサトには言っとこうかな。ね、暇なんでしょ、今から。ちょっと時間くれる?」
「ああ、うん」

 それぞれ会計をすませて、俺がコンビニを出ると、一足先に出たるなちが待っていた。るなちは、白のブラウスに、ひらひらした花柄のロングスカートと、クリーム色のパンプスを履いていた。よく蛍光色のプラ板みたいなのがぶらさがってる耳たぶには何もなく、代わりに小さいストーンの、ちょうど男がクリスマスに女の子にプレゼントする類のネックレスをしていて、それは今日のきつい日光を反射して、真夏の海の水面みたいにぎらっと光った。

「行こ、マサト」

 こいつ、俺の彼女でも、クラスで一緒になった女子大生でもなく、本当にるなちか?

 馬鹿みたいだけど、俺は昔『クレヨンしんちゃん』の映画で見たような、知らない誰かがるなちのドッペルゲンガーになって、居場所を取って代わろうとしているのをイメージした。ここからじゃ顔は見えないけど、実は今もほくそ笑んでいて、今頃本物のるなちは部室で、けいちゃんとひろたと今度こそアイスでも食べてるんじゃないか。いや、そんなことが起こるはずないんだけど。でもそう思えるくらい、なんだか本当に、俺にはよく知ったるなちには見えなかった。いやに胸がざわざわした。何を戸惑ってるんだろうと思った。

 比較的空いた学食の端っこの席に座って、俺たちは向かい合う。空いててよかったねって言ったるなちの唇は、淡いコーラルピンクをしている。

「早速本題でいい? これ、しばらくは内緒にして欲しいんだけどさ」

 るなちはペットボトルに顎をのせて、ぐりぐり動かして言った。

「うん」
「私、ミスコン出るんだ」
「……え? ミスコンって、あのミスコン?」
「そう。あのミスコン」
「……」

 ミスコン。そういやうちの大学にもあったらしい、遠い響きを脳内で検索する。結果は当然のように零だ。見事なほど、何も知らなかった。

「柄じゃないって思ってるでしょ」
「……まあ」
「でももう決めたの。ちょっと前にエントリーして、今日、写真撮ってもらった。予選通過確実って感じ、なのかな? 夏になったら本格的に始まるみたい」
「予選、通過」
「なんだ、そんなに意外って?」

 意外じゃない。意外じゃないよ、と俺は答える。

「……あっ、それでそんな服、着てんの」
「そうそう。ひろたに聞いたの。ひろた、この手の服のブランドとか詳しいから」
「まあ……ひろたは結構、そういう感じの服着てることあるな」
「でしょ? 助かったよ、私マジェスティックレゴンなんて入ったのはじめて」

 そのマジェスティックだかマジックだかが何を指しているのか俺は知らなかったけれど、答えは目の前にある。これだ。これをるなちが選んだ。

「ミスコンって、そういう服着てなきゃだめなの」
「んーいや、特に指定されたわけじゃないけどさ。やっぱりみんな、ほら、そういう感じの子が出るわけじゃん」
「そういう」
「うん。女子アナとか目指してるような子、って言えばいいのかな」
「るなちは、違うんだ?」
「私はそこまで考えてないけど……でも、就職有利かなとは思った。それが決め手だったしね。クラスの子に誘われたの。瑠奈ならいけるよーとか言われて乗せられちゃった」

 へへ、と笑うその笑い方を、俺は知らなかった。それは俺の知ってる彼女の『恥ずかしい』ではないし、ましてや嬉しいでも楽しいでもなかった。女の子の笑い方だ。髪切ったんだ似合うねって、思ってもねえのに言い合って笑うやつの顔だ。

 どうしよう。と、俺はぼんやり考えた。全然、目の前のこの人との接し方がわからない。
 俺は席を立って、話それだけなら帰る、と言った。るなちは「え、用事あったの? 言ってよ」とかそんなことを言って顔を上げた。

「いやそういうんじゃないんだけど」
「練習したいとか? けいちゃんと打ち合わせ? でもけいちゃん、4限入ってるって言ってたよ。今部室行ってもいないと思うけど」
「いいだろ、別に、なんでも」
「えっちょっと、マサトもしかして怒ってる?」

 俺は怒っているのだろうか。

「何急に不機嫌になってんの? 意味わかんないんだけど」
「お前、そんな服で、歌うつもりかよ」

 咄嗟に飛び出した言葉は、そんなこと今まで何にも思いつかなかったような言葉だった。

「そんな髪で、そんなスカート履いて、ライブする気なのかって言ってんだけど」

 喉がきゅうっと張り付いたみたいな感じがして、目の下んとこが泣く前みたいに震えるのがわかった。俺は顔を背けた。頭がついていかなかった。俺は何を言ってるんだろう?

「……公演のときは普通にTシャツとか着るよ。こんなパンプスでライブハウスなんて行くわけないじゃん」

 るなちの声が喧騒に紛れて耳に届く。こいつの声はよく通るんだ。

「なんなんだよ」
「ねえ、マサトは何に怒ってるの? 本当に、わかんないんだけど」
「ふざけんなって、まじで」
「マサト」
「ふざけんなよ、そんなんで、そんなんで、るなちを上書きすんなよ!」

 多分俺はるなちを睨んで、るなちは怯えたような目をしていた。わからない、とその顔に書いてあった。

「上書きじゃないよ」とるなちは言った。「変わっただけなの」
「それ、何が違うの」
「……わかんない」

 俺はトートバッグを乱暴に取って、足早に学食を後にした。今日はもう帰ろうと思った。5限は切ろう。どうせ出たって聞く気にもなれないし、これから1時間近く時間を潰すアテもない。俺はそんなに真面目じゃないのだ。必要最低限以外なんにも持ってないし、こういうとき部室に行ったり友達に誘われて飯食ったりする以外、どうすればいいのか全くわからなかった。

 振り向かなかった。もう顔なんて見れなかったから。外は暑くて、じめじめしていた。どこかから音楽が聞こえた。吹奏楽っぽいのと、ギターの音。隣を通り過ぎる誰かの会話より、目の前を走る車のクラクションより、俺は無意識のうちにそういうのを聴いて離さなくて、それが今はどうしようもなく嫌だった。駅を目指して歩いていると、次第に音は変わっていく。にもかかわらず俺の耳の奥では、けいちゃんと書いたあの曲のメロディが鳴っている。


『立ち止まってたいの 20時は煙草の匂いがするから』

『ああ、でも夜が来たら この涙もなかったことになるのかな』



 それから俺は部室に顔を出さなくなった。

 怒っているわけじゃない。ただ次会ったときにどう謝ればいいのか考えてもどうにもはっきりしなくて、ずるずるとその機会を先延ばしにしながら、新学期の慌ただしさの中に身体を沈めていた。みんなからぽつぽつとLINEが来た。けいちゃんからは、結構心配してくれてそうなメッセージが何通も届いた。——あのるなちに会って、けいちゃんはどう思ったのだろう。

 案外何も思わなかったのかもしれない。俺だって別に、そんな、自分でも何だかよくわからないのだ。俺が怒る理由なんて全くない。るなちは俺らのもんだなんて間違っても思ってないし、友達ならむしろ挑戦を応援すべきだと、俺は心からそう信じている。

 それでも、謝って、頑張れよなんて、今の俺にはどうしても言えなかった。

 部屋で一人寝転んでいると、通知音が鳴った。スマホに手を伸ばすと、けいちゃんからだった。「今家にいる?」『いる』「行ってもいい?」

 まわりを見る。時刻は21時を回ったところだった。部屋は片付いてはいないが、けいちゃんならそう気にすることもないだろう。いいよ、と返信して、さっき食べたまま流しにほったらかしだったカップ麺の空容器だけ、洗ってゴミ袋に放り込む。

 けいちゃんはちょうど15分後に来た。ちょっと酒も入っているようだったけれど、そもそも酔ってるところなんてほとんど見ないこいつは、平然と「久しぶり」と上がり込んできた。

「何か用事?」
「んー、別にそんなんじゃないけど、ま、話したいかなーと思って」

 嫌なことを言ったな、と思った。用事はあるだろう。次のライブは1週間後に迫っていた。けいちゃんは慣れた様子で俺の部屋を抜け、ベランダの扉を開けた。「吸っていい?」

「いいよ」
「あ、いる?」けいちゃんは煙草の箱を向けた。
「……そういうのってさ、どうやって吸うの」
「どうやっても何も、こう」
「……やっぱいいわ」
「あ、そ」

 外は暗かった。風がほんのり冷たくて気持ちよかった。目を瞑ったら意識がどこかへ飛んで行ってしまいそうだと思った。まるで異空間にいるみたいに、街は静かだった。隣の煙草と、どこかの店のご飯の匂いが鼻腔をくすぐる。

「お前、るなちのこと好きだったの?」

 数分経って、けいちゃんが尋ねた。彼のいいところだ。全部なんでもないことみたいに、どんな馬鹿も感情も、ありふれた言葉の中に溶かしてしまえる。

「いや、別に」
「ヤッたことあんの?」
「馬鹿。んなことしねーよ、同じバンドのメンバーに」
「……」
「待って、お前寝たの?」
「……ひろたとちょっと、そういう感じになったことは、ある」
「マジかよ、聞いてねえんだけど」
「言ってねえもん。言ったら気まずいじゃん、なんか」
「……いつの話?」
「……去年の、秋? 学祭の後」
「あー…」

 意外とそれ自体にはなんとも思わなくて、ただそうだったんだなあと俺は受け止めた。

「まあそれは、ごめん」
「うん」
「……」
「……るなち、変わってた?」
「変わってたって、うん、まあ、そりゃあ」
「お前から見て、るなちは変わってた?」
「……どーだろ。でも、今までのあいつがさ、決めたわけじゃん。いろんなこと」
「うん」
「今までのるなちが決めたのが今のるなちなら、それ変わったって言うんかな、っていうか。今までも俺たち気付いてなかっただけで、変わってたのかなーみたいな」
「うん」
「待って、今俺恥ずかしいこと言ってる?」
「言ってる。気にすんな、もう夜だし」
「……じゃ、いいか」

 あー酒のせい酒のせい、と言って、けいちゃんは煙草を消してそのまま寝転んだ。俺も隣で同じようにした。小学生の夏休みみたいなのに、俺たちはもう大人だった。……大人、か。

「なー、恥ずかしついでに聞かして欲しいんだけど」
「何?」

 俺は見上げた天井に向かって言葉を投げた。

「るなち見てさぁ、寂しかった?」

 けいちゃんは、ちょっと俺の方を見たみたいだ。畳に髪のこすれるのが聞こえた。

「かもな」

 俺は黙っていた。けいちゃんも何も言わなかった。しばらくそうしていた。きゃはは、と、いかにも若者の笑い声が通りを通過していく。目を瞑ったらそこへ飛んでいけるような気がする。そこを歩いているのは俺たちだと思った。俺は反芻する。メロディと、歌詞と、酒と煙草の匂い。暑いけど、まだまだ蝉の鳴かない現在。



 許せなかったんだ。るなちが、今までのるなちを捨ててしまったような気がして。

 るなちのことが好きだった。それは恋愛とは、きっと違うと思う。るなちの髪に、メイクに、古着のワイドパンツや、黒のだぼだぼのスウェットの上から差し色に羽織ったピンクのGジャンに、俺はずっと仲間意識みたいなものを感じていた。薄暗いライブハウスの中では、楽器とみんながすべてになる。その中で一番輝いているのは、るなちだった。俺たちの景色を一身に背負った女の子。

 知らないうちに、俺はそれに随分救われていたみたいだ。

 身勝手だなと思う。勝手に私に救われんなって、本人に言ったらきっとそう叱られるだろう。その通りだ。俺はずるいから、そういうのを一切しまい込んで、ただ一言、ごめん、と言った。応援しているとも付け加えた。季節がまた少し夏へ近寄って、るなちは白のTシャツを着ていた。「いいよ」

「だから、もうちょっと一緒にやろ」

 るなちは笑った。どこか恥ずかしそうで、楽しそうな笑顔。みんな、この顔が見たいんだ。その輪郭が歪んだのは、汗と眩しいライトのせい。
照明が落ちる。けいちゃんのギターが一瞬の静寂を切りさく。ドラムと、ベースと、ボーカルが、また重なってひとつになる。


『何も言葉にしなくても 私たちわかりあえるのかな?』

『そうだといいな、だって大好きなもののこともっと語り合える』

『残された時間は短いから 最後の一秒まで飲み干したい』

『この音が聞こえなくなる前に』



『モスキート』