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3月26日

デリー最終日。
どこか行き残したところを訪れようと思っていたのに、休学手続きをしていたら午前が終わってしまった。
ダメ元で問い合わせたけれど、やはり休学届は原本しか受理されないとのことだった。
まずプリントアウトして自分の分の署名や捺印を済ませなくてはならない。コピー屋が開くのを待って、早速印刷してもらった。インドではあまり見ない黒いペンで必要事項を記入していく。
書き終わったものをスマホのアプリでスキャンして(以前コピー屋でスキャンを頼んだらめちゃくちゃ斜めっていた)ゼミの先生に送り、事情を説明した。
インターン先の契約書も必要とのことで、先方に事情を説明すると今日中にいただけるとお返事いただいた。

普通交換留学中は休学を申請することはできないが、今回は3月内に授業が終わったためできた。
逆に申請しなければ、交換留学の授業料は日本の大学に納めているので、デリー大学の半年分の授業に対して、日本の大学の1年分の授業料を納めなくてはならないということだ。とんだ大赤字である。
春学期全ての授業料を免除してもらうには2月中に申請しなくてはならなかったが、正確な試験日程が発表されたのが3月13日だったからそれは無理ゲーだった。
しかし5月以降の授業料が免除になる〆切が3月31日で、それ以降はいかなる申請も受け付けないとのこと。
結局契約書が手に入ったのが夜だったため、郵送までできないまま寮を出る時間になった。あと1日、いや3日早ければ自体は違っていただろう。旅行と試験ですっかり手続きを忘れていた私の責任である。

休学手続きは半ば諦めて、ダメ元で大学に行ってみた。
デリーを出る日程は伝えていたから今日成績表の類がもらえるといいなと思ったけど、やはりダメだった。
ホーリーもあったからなんとなく想像はしていたけど、1科目だけ成績が出ていないから今日は絶対に無理だと断言された。しまいには「いつデリーを出るんだ?」と聞かれる始末で、がっくり。
今日出発することを伝えると、流石に焦ったのか「メールアドレスを教えろ、そこに送るから安心しな」と適当な裏紙を差し出された。友人と留学生担当事務所のも書いて、退出。
さて、いつになったらもらえるのだろうか。

余裕があると思っていたスーツケースは鍵を閉めるのに難儀するほどパンパンになり、スニーカーやら服やらを大幅に諦めることになった。なぜこうも計画性がないのか。間違った自信ばかり育てがちである。
ずっと工事していた隣のウォッシュ・ルームは、まさに今日完成したらしい。皮肉なものである。
1番偉いお手伝いのおばさんにそう言われて「でも今日寮を出るんだよね」とこぼしたら、部屋にあるガラクタを全部持っていかれた。
退寮手続きの際に寮母に「要らないものは置いていっていいけど、ディーディー(お手伝いさん)にはやるんじゃないよ。あの人たちは貧乏で欲張りだから」と言われていた。

その時はなんて意地の悪いことを、と思ったけど、そのディーディーにも同じことを言われた。「他の奴らには内緒ね、取り合いになるから。私の名前とあげたことを証明のために手紙に書いて」と指示された。別に必要な人の元に渡ればいいと思ったのだが、そういうわけにもいかないらしい。
すれ違う時にナマステと言うだけの関係だったのに、大量にモノを渡した途端に繰り返し礼を言われ熱くお見送りしてもらったから、現金なものだ。それがここで生きていく術なのかもしれないけど、なんだか悲しくなった。

牢獄に逆戻り

日本人の友人に見送られて寮を出て、リクシャーで駅に向かった。
ホームで久しぶりに東アジア学部の彼と合流。昨日までジャイプールに行っていたと言う。
私も先日行ったので写真を見せながら話すと、「〇〇は?〇〇も行ってないの?なんで行く前に聞かないんだよ」と怒られた。
荷物が多くなるから要らないと言ったのに、緑色のビーズが嵌った可愛らしいチューリー(腕輪)と、銀色のネックレスをくれた。それにミニチュアの本みたいなキーホルダーもくれた。激励の手紙も兼ねているらしく、書くのに8時間かかったと文句を言われた。頼んでないけど、そこまでしてくれたことが嬉しかった。

私はお返しに日本のお守りを渡した。以前欲しいものを聞いたらお守りを所望されたので、彼に旅行前に適当に買ってもらった。インドの神様と喧嘩しないといいけど。
流石にバックパックを背負って20キロ以上のスーツケースを持って階段を上り下りするのは辛かったから、彼に来てもらえてだいぶ助かった。
彼が来る前にも知らない女性が助けてくれたし、なんだかんだインドは赤の他人にも優しい人が多いと思う。

初めて来たターミナル1

さてお別れか、と思っていたら、彼も今夜のフライトでバンガロールに行くらしい。
やたらと大きい荷物を持っているから何かと思ったら。先に言ってくれればいいものの、空港に着くまで秘密にされていたから相当びっくりした。私が驚いているのを見て満足げだった。
おかげでチェックインとかは彼の先導するのについて行くだけで終わった。1人で来ていたらカウンターの人と話が通じなくて焦っただろうし、飛行機の乗り方なんてまるで知らないからトンチンカンなことをしてフライトを逃していたかもしれない。ありがたい話である。
全て済ませて搭乗開始を待っている時に、週末バンガロールに来ないか、ついでにポンディチェリーに来ないか、と誘われた。
全部が全部唐突すぎる。彼の旅行自体おととい決まったことらしいから仕方がないが、もっと早く言ってもらわないと困る。

ケーララは個人的にずっと行きたかったところだし、自分のペースでじっくり一人旅を味わいたいと思っていた。バックウォーターの旅をするなら半日以上は見ておかなくてはならない。コチからバンガロールまで行くには10時間かかるし、言った先では彼のご家族のペースに合わせなくてはならない。インターン先には予約したアレッピー発の電車を予約したと伝えてあるし、随時居場所を報告するよう命じられている。バックパックとスーツケースを持って移動するのもしんどい。
しかし彼の提案はある意味では魅力的だった。訳のわからないまま1人で観光するより安心だ。インターン開始前にカンニャークマリに行く話も持ち上がっているので、南インドの沿岸部はまた来られるかもしれない。バンガロールを経由してポンディチェリーに行けば、内陸部の様子を見られるし、チェンナイへの列車も乗車時間が短くて済む。

結局どうするか決められないまま搭乗開始時刻になり、今飛行機の中でこれを書いていた。
結局どうするべきなのかわからない。彼はもう一緒に行く気満々だった。断ったら傷つけてしまうだろうか。これを逃したらもう会えないかもしれない。
明日は緊急で休学届を郵送しなくてはならないから、観光は半日できたらいい方だろう。そうなるとケーララをほとんど観光できずにバンガロールに行くことになる。それは個人的に避けたい。

さようなら、デリー

ずっとぐるぐると同じことを考えていたら、コチの空港に着いてしまった。
暑い。日本の夏を思わせるじっとりとした暑さ。これからこの気候の中で生活するのか、と軽く絶望。
そして見慣れない文字、聞き慣れない音。ダラムシャーラーやアムリトサルでも知らない文字をたくさん見たけど、聞こえてくるのはヒンディー語が多かった。でもコチに着いてからほとんど聞こえてこない。
何より驚いたのが、物価の高さ。空港から30分もしないところにあるホテルまで、Uber のタクシーだと500ルピー以上かかった。なぜ。
同じインドでもここまで違うか。
初上陸の南インドは、想像以上にデリーと違っていた。

見慣れない文字

車窓から眺めた空港からホテルまでの道はきれいに舗装されていて、クラクションの音は控えめ、牛はおらず、椰子の木が揺れていた。
しかし到着した場所は入り組んだ路地裏にあり、木が鬱蒼と茂る門には人気がなかった。タクシーの運ちゃんに何度も心配されながらホテルの支配人に電話をかけると、「門開いてるから入ってきていいよ」と言われた。
内心ビクビクしながら中に入ると、恰幅の良い半裸のおじさんが出てきて悲鳴をあげそうになった。この人が支配人だった。たぷたぷのお腹を揺らしながら、「暑いから上は着ない主義なんだ」と笑った。
このおじさんがとてもいい人だった。私の拙い英語を根気強く聞いてくれ、6人用のドミトリーを貸切で使わせてくれた。私がヒンディー語学徒だと知ると、あまり知らないor好きじゃないはずなのにヒンディー語でも話してくれた。何より、なんかかわいかった。愛嬌がある。

ようやくひと息ついて、友人にもらった手帳型のキーホルダーの中身を読んだ。
泣いた。日本語、ヒンディー語、英語それぞれで書かれた文章は、素朴だけど真っ直ぐに胸に刺さった。
あまりに感動したものだから、迷っていたバンガロール行きもついに行くことにした。行かなければ彼とはこのまま会えないかもしれないと思ったら、絶対今会いに行かなくてはという気になった。
思っていたのとは違う旅路になったが、時間はある。
28日夜のフライトを取ることになったので、明日と明後日で必ずやりたいことをリストアップしてから眠りについた。

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