日記のメモ書き2022/09/10

 祖父母の家に行ったら、おばあちゃんが自分は満州からの引き上げなのだということ、幸運にも親と一緒に帰れたのだと笑顔で話してくれた
おばあちゃんはすぐに外出する用事があったから、またこんどゆっくり聞くねと送り出したけれど
目をいっぱいにひらいて、明るいみぶりてぶりで話すおばあちゃんにびっくりした、聞いてほしかったのかも

 今日はおじいちゃんの話を聞いた
コーヒーを入れて居間で聞く
フレッシュと砂糖を入れたインスタントコーヒーをおじいちゃんに作るけど、いつもと味違うねって。ふだんはおばあちゃんがつくってるから。
部屋からたくさんのスクラップと、アルバムを持ってきてくれる
昭和15年の地図を広げながらはなす
何が聞きたいん?ときかれたから
原爆のことやそのまえ、その後のことと伝えた
「ずっとこの家に住んどん?」そんなところからはなしは始まり、行ったり来たりしながら
思い出せなくて、何度も、「思い出せんのんじゃあ」といいながら話してくれた
その頃の生活の様子、地域の様子

どんな顔をして聞いたらいいのか、話を受け取って質問するのか、
相槌をただ打つのか、

どこかで、クライマックス的にあの日を聞こうとしている自分がいることに気づく
怖かった、しんどかった、恐ろしいんじゃという話が出てこないかと構えていることに気づく

劇的なことだけじゃなく生活を追うことを大事にしていたのが、ただその劇的さを際立たせるためのものとしての認識だったのかもしれないと思って
これではいけないと思う

生活を生活のまま
しかし真実と真実味は違うので、表現の上ではそのようになることも一つの方法として狙うべき時はあると思う
『この世界の片隅に』がそうかもしれない

私は何のために聴いているのか。自分の得意な立場を利用してじぶんの駒を進めようとしている感じがする
それよりも根本の嘘じゃない、聴きたいがあるはずなんだけど変に構えすぎているような気もする
なんというか、正確に知りたい、どんな様子だったのか、どんな景色を見ていたのか、みたいな欲求はあるかも
あの古い家に何があるのか 

戦争はこんなふうにひとの自由を奪う
同じように、貧困や差別も奪う
今ここの生活にも争いはあることを忘れてはならない


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