日記のメモ書き2023/08/06

6時すぎに起きる
朝食を食べて支度をする
8時ごろからテレビでは式典の様子。
8時13分ごろにやっと支度を終えてテレビの前に座る
黙祷。

そのまま、湯崎知事のスピーチまでを聞いて出掛ける。
こども代表のスピーチ、華やかさ、希望にみちた感じがあり、大人たちが言えないシンプルさを持っていると同時にあまりに道徳的で怖くなる
毎年、毎年、フレーズのトーンも言葉まわしも同じ感じがしてくるからかもしれない

今朝も暑い
自宅を出て空を見上げた写真を撮ってSNSに投稿する
わたしなりの祈りの表現

平和記念公園に向かう。式典が終わって、多くの人々が平和大橋を渡って流れてくる。白いシャツ、黒いボトムス、黒いワンピース。

【原爆の絵】
わたしたちのお目当ては資料館の横にある国際会議場で行われる「原爆の絵」のギャラリートーク。
原爆の絵は、基町高校の生徒が約1年をかけて、証言者さんのお話しの場面を絵にしていく活動によって描かれた油絵作品だ。
証言者さんとやりとりしながら、証言者さんの経験を描く。被爆当時の写真を見ながら、自分の身で再現しながら描く。
面白いなと思うのは、絵として魅力的であること、つまりメッセージが伝わることや物語が感じられることと同時に、体験していない想像できない経験を、虚偽ではなく描くことが目指されていること。そのために、証言者さんと何度もやりとりして、想像し直して、確認し直して修正して描いていくこし、怖くて見たくないような死体の写真をまじまじと見て描くことを高校生たちはやっていて、その過程で被ばくとの関わり合いが変容していく。そこが面白い。
つくることによって想像できる場所がある、そうでなければそこまで徹底的にやらない。特に描くためには、鮮明に映像を思い浮かべる必要があるからこそ、朗読や詩作や演劇以上に厳しく細かく映像的なリサーチが必要になる。それによって届いた場所は、主体的な被ばくとの関わり合いであり、〇〇さんとの関わり合いで、それは学校に組み込まれた一般的な平和教育の受動的な経験とは全く異なるものであり、そこに非体験者が過去の他者の壮絶な痛みの記憶と関わり合う可能性が開かれていると思う。

【ひろしまの子どもたちのトラウマ】
絵を描いた子たちは、かつては原爆のことがひどく怖かったけれど、描くうちに怖いとか言ってる場合じゃなく見て描いて完成させなきゃとか、そういう思いで描いてきていると話していた。飛行機の音がしたら怖くて机の下に隠れてたとか、そんな話もしていた。
思い出したのは、私もそうだったこと。

小学生、なんなら中学、高校の時もうっすら思っていた。
飛行機の音がすると、もしかして爆撃されるんじゃないかって怖くなって、いやいや大丈夫だって自分に言っていた。
サイレンの音がすると、もしかしてこれは空襲警報で今から戦闘機がやってきて爆弾を落とすんじゃないかって怖くなった。
戦火の中を走って逃げる夢もよくみていた。
突然に、爆弾がやってきて私は死んでしまうこと、生活は消えてしまうこと
よく恐れていた
これは、トラウマなのかもしれない

よく似たこと経験として怖くない想起もある。
夏の暑い日、青空、白い雲、木々の緑、ジーッジーッと蝉の声がおおきく聞こえるとき
ふと原爆のことを想う、思い出す。
これは、夏の平和公園の印象なのかもしれない。それと、あの日の朝と原爆が繋がって私のからだの中に滞在している。

【聞く】
午後からは、お手伝いをしている展示「戦争と原爆展」に行く。
今日は、一昨日聞いたおじいさんの話の続きを聞く約束をしている。

証言会の予定があって数十人がいっぺんに来ていたこともあって盛況だった。今日はふたりのおじいさんとお喋りしながら聞く。

自分の人生を聞いてほしい気持ちとか、懐かしい思い出したことを話したりしたい気持ちとか、そういう受け皿的に聞いている

展示には写真がいっぱいある。慰問袋、配給券、教育勅語、当時の教科書、服も置いてある。あの頃を思い出すらしい。そうしてふっとしゃべり始めたりする。

そのひとが経験してきた人生の積み重ねを触発するものがあるから聞ける、ということがある。物が間にあると語りやすかったりもする。

折り鶴を折りながらというのも良いみたい。

みなさん、結構嬉しそうに話してくれる。みそは、戦争体験と関係ない話がたくさん聞けること。前の暮らし、後の暮らし。暮らしには、笑いや悪さがあって、懐かしい思い出になっている、それが聞けると立体的になるし温かみが出てくる。

今日は、痛みへの気づきもあった。いきいきと話してくれるおじいさん。
今朝は行方不明になった弟がいるから墓参りに行ってきたんだと言っていた。けれど、彼の証言を2度ほど聞いて、原稿も読んでいるけれど、その弟さんの話は出てこない。語っていない。「見つけてやれんかった」と言っていたらしいが、捜したという話もなかった。彼の中で語れない経験としてあるのかもしれないと想像する。ちがうかもしれないけれど。いつか聞けるだろうか。聞かない方がいいのだろうか。

【政治】
展示会の仲間やその時居合わせたひとたちで交流会をした。その時に政治・政党についての話になった。ここでその話しないでよ、空気よんでよと思った自分がいて、でも空気を読めということは同調圧力などが働く「空気」と同じもので、おそろしいことだと思った。不意に排除をしようとしてしまう。また、政治について話し合う場が閉ざされることは現状の社会へのアクションを取りにくくする部分もある。反省。

【一日】
朝の黙祷
碑の前で手を合わせる
展示交流会での黙祷

どう祈っていいのか迷っている私がいることに気づく

生活によって(心が)忙しない
穏やかに祈ることも考えることも悼むこともできてない

自分の内側の平和をつくっていかなければ





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