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2024/06講話

雨の日には、雨の歌があって、その歌を心地よいと感じる人もいれば、嫌気がさしてくる人もいるでしょう。
山や川が美しいと思う人もいれば、特別興味なんてなくて、ただのありふれた景色に過ぎないと思う人もいます。
人に興味がある人もいれば、人に興味がない人もいるかもしれないし、動物が好きな人もいれば、動物が苦手な人だっていると思います。
人それぞれですね。

誰かは、自分がとっても傷つきやすいと思っているかもしれません。
他の誰かは、自分は強くて、傷つくことを恐れてもいないし、傷ついたって平気だと思っているかもしれません。
誰かは、私は傷ついたと言うし、誰かは、同じ出来事であっても、私は傷ついてなんかいないと言うでしょう。
人、それぞれですね。

誰かは、自分が優しいと思っているし、誰かは、自分は優しくないと思っているし、そのまた誰かは、自分が優しいだなんて微塵も思ってもいないのに、実際にはいつも優しい人がいます。
自分は優しいと思っているけれど、側から見れば優しくなんてなくて、他の誰かは、自分は優しくないと思っているけれど、それは優しさには関係していないくて、ただ臆病なだけかもしれません。

勇気が必要だ、と思っているうちは、恐れが消えないのに、いつも「勇気」や「自信」という言葉の背中を追いかけ続けている人がいます。彼、彼女の背中を追ってきているのが、恐れだということもはっきりとわからないまま。
はっきりとさせること自体が、怖いと思ったまま。
追われて、逃げるように「勇気」や「自信」を求めても、自分の背中からいつも差し迫っている恐れが消えることはありませんが、どういうわけか、追われて、逃げるようにして、その先のどこかに手が掛かれば、自分は誰の手にも届かないような天の庭のやわらかな芝生の上を歩くことができ、きっともう後ろを振り向かなくてもいいようになると思い込んでいる。そんな架空の物語の中で、夢心地の毎日の中で、ただ時間だけが進んでいる、ということもあるかもしれません。

虚しさというものは、対象の存在があって初めて生まれる、架空の状態です。
事実無根の、夢心地。
けれども、事実を確かめない限りは、その夢は終わらないでしょう。
あるいは、夢の終わりが、事実の始まりとなるのです。

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