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神との関係性

神は病気を創ってはいません。
もしも神が病気を創り出すのなら、もはやその存在を神とは呼べません。
神が不完全さや苦しみを創造するでしょうか?
もしも創造するなら、もはやそれを神とは呼べないのです。

神は差別を創ってはいません。
もしも神が差別を創り出すのなら、もはやその存在を神とは呼べません。
それは神ではないものに違いありません。

神は特殊能力を創ってはいません。
分離がないのに、特殊能力の意味があるでしょうか?
時間と空間が幻想であるのに、特殊能力が必要でしょうか?
ある人にはあり、ある人にはない。
ある人は体験し、ある人は体験していない。
そのような状況をもたらす環境を、神が創造するでしょうか?
もしも神が創造したのなら、もはやその存在を神とは呼べないのです。

神の心の中に、完全さ以外のものがあるでしょうか?
もしもあるのなら、もはやそれはもう神ではありませんし、神ではいられません。
あるいは、それはもう「神」とは呼ばれないのです。

神が戦いや争いを創造するでしょうか?
創造するなら、それは神ではありません。何か違う存在に違いありません。
あるいは、戦いを創り出し、人間を地獄に落とすような存在を、神と呼べるでしょうか?
ですから、仮に戦いや争いがあるのなら、それは神の創造物ではないでしょう。

神は完全であり、永遠であるはずです。
それなら、不完全さは神のものではありません。
何か違う存在の創造物でしかないのです。

神の世界に、神以外が存在できるでしょうか?
もしも存在できるのなら、それはもう神の世界ではないに違いありません。
神の心の中には、不完全さや、永遠ではないものは存在できないのです。
それゆえ、それは神の心であり、神ご自身なのです。

完全さ以外のものは、神とは無関係に違いありません。
病気は、神に関係していないに違いありません。
差別、貧困、戦い、苦しみや恐れなど、あらゆる苦しみは、神とは無関係に違いありません。
完全である神が、それらを創造し与えるでしょうか?
もしも創造し、与えるのなら、それはもう神とは呼べません。むしろ悪魔と呼ぶべきでしょう。

病気、生死、老いと若さ、差別、区別、善悪、これらは神と無関係です。
では、神以外の何かが存在するのでしょうか?
存在できるのでしょうか?
神は完全であるはずです。
それゆえ、”存在する”と言えるのです。
もしも神以外が存在するのなら、それは「不完全さ」が存在するということになりますが、「不完全なもの」を、果たしてそれを「存在する」と言えるのでしょうか?

不完全さが存在する・・・ とは、実際にはおかしいことではないでしょうか?
不完全なら、それはむしろ、存在できないはずです。
”存在”あるいは”実在”として成立しません。
不完全なのですから。
ところが、この世界では、このようには思えません。
むしろ、世界は不完全さで満たされているようです。
この世界に永遠なるものはなく、完璧、完全なるものは存在しないかのように思われます。
それでも、それらは本当に存在しているのでしょうか?

神が病気を創り出していないのなら、いったい何が、誰が創造したのでしょうか?
少なくとも、存在するように見ているのです。
何が、誰が、病気を創造したのでしょうか?
神は病気を創造できません。
なぜなら、それが神であり、神たらしめている要因、原因だからです。
原因が「完全」なので、結果はいつも「完全」です。
「不完全さ」によって「完全さ」は生まれませんし、「完全さ」が原因で「不完全さ」という結果が発生することもあり得ません。

完全ではないものを、神とは呼べないのです。
永遠ではないもの、普遍かつ不変なるものだけが神であり、それ以外は神とは無関係なのです。

では、神に対して、「神よ、唯一無二の主よ、どうか、私の病気を癒してください」と祈ることは、正しいことでしょうか?

神は、病気というものを知らないのです。
神は、病気というものと関係がありません。
仮にあなたが神と関係を持っていて、神にそのように祈っても、神はきっとこのように応えることでしょう。

「・・・え、病気って、何?」と。

ですが、そもそもあなたは神と関係しているのでしょうか?
関係するには、同じ「場」が必要です。
同じ周波数でなければ会話、コミュニケーションは成立しません。
(余談ですが、つまり異なる意見を言い合う、話し合うというのは、実際にはコミュニケーションではないのです。話し合いとは、異なる様々な周波数が混同し、むしろ雑音しか発生させないでしょう。コミュニケーションとは、いわば同じ歌をみんなで一緒に歌う合唱のようなものなのであり、そこには一切、異なる周波数はないということなのです)
完全さと不完全さに、共通点があるでしょうか?
それらは同じ周波数でしょうか?
交わる点が、あり得るでしょうか?
合唱できるでしょうか?
天と地が、一つに重なる点が、あり得ますか?

ですから、神に対して、それが真の神に対してなら尚更のこと、「神よ、主よ、どうか私の病気を癒してください」と祈るのは、無知というものなのです。
なぜなら、神は病気を創造してはおらず、それゆえ病気と無関係であり、病気を知りません。
神は、唯一無二の主は、ただ完全さのみを創造しているのです。
もしもあなたが神と関係しているのなら、あなたは神から、ただ完璧なる完全さのみを与えられているはずです。
が、あなたはその部分を見ているでしょうか?

あなたは、”それ”を実感しているでしょうか?

その与えられているもの、神ご自身を見ていないので、幻想を見ているのではないでしょうか?

実感しているのなら、あなたが決して苦しむことはありません。
それは、あり得ないのです。
なぜなら、あなたが与えられている”それ”は、完全さなのだから。
あなたはむしろ、「私はこれまで一度も苦しんだことはなかった」と知るに至るでしょう。
あなたは、「私は一度も、傷ついたことはなかった」と目覚めるのです。

目覚め(悟り)とは、存在もしない幻想の中で、よりよく楽しく生きられるようになる、ということを意味していません。
苦しみが減る、ということでもありません。
夢の終わりが目覚めです。
幻想(無知)の終わりが、目覚めなのです。

もしもあなたが神と関係しているのなら、あなたは不完全さを見て、その不完全さを修正してくれるよう神に依頼はしないでしょう。
なぜなら、すでに、最初から、始まりのない永遠の最初から、神はあなたへ完全さのみをずっと与え続けているからです。

「神よ、主よ、どうか私の病気を癒してください」と神に祈ることは、実は、神以外のものへ祈っていることになります。
つまり、それは、神以外のものへの信仰を持っているということになるのです。
「不完全さへの信仰」のことです。

完全である神が病気を創造することができないのなら、病気を創造していないのなら、いったい誰が、何のために病気を創っているのでしょうか?
少なくとも、その病気は存在するかのように思われるのです。
不完全さが、存在するかのように。

「存在するもの」が不完全なら、”不完全なものが存在する”ということになるわけですが、存在するものが不完全なら、そもそもその存在を、存在すると言えるのでしょうか?
これは言葉遊びではありません。
事実、「存在そのものが、不完全である」ということにならないでしょうか?
つまり、「完全には存在していない」という意味になるはずです。
そして、文字通り、それは完全な存在ではないし、存在自体が、不完全なのです。

不完全であるなら、それはもはや存在とは呼べません。
存在する、なら、それは完成されているはずです。
完成とは、終わりです。
あるいは、決して破壊することのできないものを存在と呼ぶべきです。
なぜなら、破壊され、崩壊し、跡形もなく消え去るものを、「存在する」とは最初から呼べないでしょう。

私たちは、このように正しい認識を持つことが非常に重要です。
でなければ、決して神とは何かを見出すことはできないでしょう。
あるいは、一切のあらゆる苦悩や恐れを終わらせることはできないのです。


神が病気を創造していないのなら、神は病気を知りません。
それゆえ、対処とか、癒しとか赦しとかも、神は知らないのです。
神が差別を創造していないのなら、神は差別、区別を知りません。
神にとっては、全て同じものがあるだけです。
神が戦いを創造していないのなら、神は戦いを知りません。
解決を神に祈るのは、間違っていることになります。

病気を創造したものだけが、病気に対する責任があります。
差別、区別を創造したものだけが、それらに対する責任があります。
戦いを創造し、恐れを創造し、苦悩を創造したものだけが、それらに対する責任があるのです。

神の世界には、罪がありません。
あなたにはあるでしょうか?
もしも「ある」というのなら、本当にそれがあるのか確かめてみなければなりません。
なぜなら、それは「不完全さ」ゆえに、存在していないかもしれないからです。


一枚の絵画を見て、没入し、素晴らしいと感じても、それはただの”紙”に過ぎないかもしれません。
ただの絵だ、と思っても、その奥に永遠なる”神”が潜んでいるかもしれません。
どう見るか、何を見るかは、自分の仕事なのです。


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