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瞑想会シェアメールからの抜粋2024/2/19


瞑想会参加者の皆様へ

〈共有メール227〉

今回はヘルメスからの言葉になります。

さて、今週19日から末までは、改めて、常に注意深く、”在る=気づき”に意識を合わせましょう。
「合わせましょう」とは、便宜上、使用しても、実際には、それが「あなた=私」なのです。

「私は何か?」と自分自身に向き合って問うとき、まさに、”在る=気づき”そのものが、そのままに返答しているはずです。言葉、ラベルなど、必要ありません。
この自己認識をしっかりとしましょう。
(H注:もしくは、瞑想会で実施したように、何かに気づく→外側全体に気づく→内面にも同時に気づくという順番で、「気づきに戻る」という方法を用いても構いません)

”在る=気づき”は、外側(出来事や物質など)、内側(思考、イメージなど)・・・実際には外側や内側というものはありませんが・・・をそもそも超えています。
あなたはすでに、そもそもこの世界や世界を作り出す思考を超えている存在なのです。
”在る=気づき”を見出す、とは、「本来の自己」に戻ることでしかありません。
それが「復活」であり、再臨です。
その”在る=気づき”が映写機の光であり、あなた(生命)が存在するがゆえ、世界もあれもこれも存在するのです。

外側、内側に気づく。丸ごと一切に気づいている。
その時、あなた=私は全てを超えています。
なぜ、超えている、と言えるのでしょうか?

その”在る=気づき”は、一切の、どのような影響も受けないからです。
誰も、あなたに触れることはできません。
それを、出来事の中で、日常の中で、しっかりと体験、自覚してください。
夢で何が起こっても、ベッドで眠っているあなたには何も起こっていません。
映画の物語上で爆発が起こっても、映画の背景のスクリーンには傷一つつかないのです。
全てに影響を与えることができるのは、あなただけなのです。
というのは、あなたは世界の中にいるわけではなく(いるならあなたは影響を受けるしかありませんが)、あなたの中に世界の全てがあるからです(それだから、あなたは全てに対して影響力を持っているのです)。
映画の背景のスクリーンが、あるいは映写機の光がそうであるように。

ところが、あなたの目の前の心は、このように信じていますね。
「私には力がありません。なぜなら、ほら、見て、私は犠牲者であり被害者だから」と。
あたかも、出来事すなわち世界に力があり、私は無力だ、と信じ切っているのです。
あたかも、自分が物語の中に存在しているかのように。


なぜか?
そしてまた、どうしてそれを継続させているのでしょうか?

恐れが、それを疑わせないのです。

では、この恐れとは、どのように終焉させるのでしょう?

闇は、どうすれば消えるのでしたか?
それは、実に簡単なことなのです。


2月、今月のテーマは「気づき」と、もう一つのテーマとしては「生きる」でしたね。
つまり、実際に教え(気づき)を生きる、ということです。
これは今後ももちろん、継続されることですが、より「現実的に」実施しなければなりません。
知識を蓄えても、実際に生きなければ、教えに命は宿らないのです。

あなたは、どうすればマスターできる、と考えていますか?
本を読むこと?
話を聞くこと?
少なくとも、これまでの時間のほとんどは、無意識にそう思ってきたのです。
でも、やはりあなたもわかっているはずです。
実際に、それを生きなければ、と。

あなたは長い間、大変に重い荷物を背負い、どうにかしたいと思ってきました。
それで解決するために、たくさんの書物を読んできたかもしれません。
けれども、いくら知識を蓄積させ保管しても、救われることはありませんでした。
無理なのです。
書物や、思考による知識もまた、現れては消える実体のないものでしかないのですから。
真の知識とは、思考のそれではないのです。
真の知識、叡智とは、まさに実体あるものの顕現、そのものなのですから。

さあ、楽しみながら、真剣に、”在る”の偉大さを実感していきましょう。
というのは、それだけで、あなたの世界は変容していくのですから。
けれども、実際に、実践しないとき、やはりあなたはこう思ってしまうのです。
「何も変わらない」と。「在る・・・それでどうなるの?」と。
つまり、このような思考がある時には、あなたは無意識に、自動的にイメージの罠に陥っており、これまでの過去の記憶(イメージの保管庫)を見ているのです。(または、見てしまっているのです)

意味がわかりますか?

あなたは、過去の体験、経験を無意識に思い出し、そのイメージを見て、「ああ、今は刺激がない。快楽がない。喜びがない。楽しさもない。”在る”は無に等しい。何もない」と夢を見た、ということです。
だからこそ、それら(過去)と自動的に比較して、「何も変わらない」「それで、何がどうなるの?」と考える、という流れが自動的に起こった、ということです。
そうして、この思考がまた、あなたを逃避に走らせようとします。刺激、快楽、自分を忘れて没頭する・・・という事柄に。
ところが、そうするとあなたはまた、「私には力がない。犠牲者であり被害者だ」と反応が起こるのです。対象を楽しむ、対象に逃避することによって。

なぜなら、あなたは「この〇〇(対象)によって、私はこうなった、こうなっている」と思うからです。
あなたは「出来事の奴隷」というシナリオから逃れられません。
(もう少し細かく言えば、顕在意識にはなかなか浮かんでこないものの、無意識に、自動的に、あなたは、対象に力があって、その対象のおかげで、私は幸せになったり、楽しくなったり、または不幸になる、という意味付け、信念を繰り返し唱えて、自ら納得する。その轍を深くする、ということになる、ということです)

さて、念の為、私は伝えておきますが、何かを楽しまないで、と言っているわけではありません。
むしろ、自由に楽しんでいいのです。
でも、どちらに権限があるのかを、その認識を失ってはいけません。
あなたが作って遊んでいるのであって、あなたが作ったものに支配されてはいけません。
今の目の前の出来事や、その出来事によってあなたに発生する反応が、今は、あなたを支配しているのです。

わかりますか?

あなたに自動的に発生する反応に、あなたは支配され、まるで人形のように動かされている、ということです。
だって、そうでしょう?
これはセッションでも、瞑想会でも伝えてきました。
あなたは、反応によって動くし、その反応が、どのように発生するかは、もう決まっているのですから。
あなたの信念が変わらない限り、体験することは、その本質は何一つ変わりません。
その場所が、いかなる場所であれ。
変われないのです。

あなたは、人生という運命を変えるために、右に行く?左に行く?どこに行って、何をする?と悩みますが、それでは全くシナリオは変わらないし、変わらないどころか、ずっと同じ出来事の本質を繰り返しているだけなのです。
だから、あなたという歴史は繰り返されているのです。
あなたの目の前の体は、現在、作られている脚本、台本のままに生きるしかありません。
また、あなたの目の前の映画はすでに書かれており、コントロールされたままなのですが、それらの思考(反応)とは、実はあなたの過去の信念、意味付けでしかない、ということです。
あなたが信じていることが、今も起こり続けているのです。
なぜなら、心は自分が信じていることを体験するだけだからです。


あなたが小説家で、物語を書きました。
どういうわけか、あなたはその物語の主人公になり切ってしまい、私は自分を変えることができない、と催眠にかかってしまっているのです。
その物語は、小説家の心の中身ですが、それでも、小説家の存在そのものではありませんよね?
が、わかりやすく言えば感情移入するとそうなるように、あたかも物語の主人公と自分の区別ができなくなっているのです。
物語を変える、あるいは主人公を変える力は、主人公にはありません。なぜなら、主人公は書かれたままのセリフしか話せないし、それ以外に考えることなどできないのですから。
(これは書籍「”それ”は在る」でも表現されています)
でも、それがどのような思考であっても、思考の範囲においては、もちろん、いくらでも変えることができます。
ネガティブだった主人公が、突然、ポジティブな主人公になることは、可能なのです。

だって、今この瞬間、実体がないのですから。

あなたの目の前の人物は、「像(イメージ)」であって、実体ではありません。
「さっきまでとは、まるで別人だわ」というセリフを誰かが言うように、自分のイメージ一つで、人は変わってしまうのです。


少し戻って、繰り返します。
あなたの目の前の映画はすでに書かれており、コントロールされたままなのですが、それらの思考(反応)とは、実はあなたの過去の信念、意味付けでしかない、ということです。
あなたが信じていることが、今も起こり続けているのです。

では、どうしたら、これを終わらせる、あるいは変容させることができるのでしょうか?

言葉にすれば、これはとても簡単なことです。
1:反応に絶対に気づく! そして、この反応が真実ではない、と知ること。
2:無意味な信念、意味付けを手放すこと。
 手放せるかどうかは、それが真実かどうかを確かめることにかかっている。

1、2については、セッションの中の「グラスを置かれた時の反応は・・・」というやり取りの中で、この流れ全体を説明していますね。(H注:かなり以前にセッションを受けられた方で、セッション1しか受けていない方は、これをやっていないと思います)

でも、次の言葉を、私は何度も伝えてきました。
自分の信じていることを、疑うことが、もっとも難しい、と。

だから、また轍に落ちて、同じことを繰り返してしまうのです。

「これは、作り出された幻想である」と、認識しなさい。
もしそうでなければ、「作り変えることが可能だ」とも思えないでしょう。
あなたは、本当に存在する、と思い込んでいるのですから。
「これは、実体がない」と、認識しなさい。
(一月のテーマ「実在と非実在」で、何度も繰り返し説明しましたね、現れて消えるものは、存在していないのです)

実体がある、と思うから、作り変えることはできない、とも信じているのです。

はっきりと言って、これがあなたが抱えている限界であり、束縛なのです。


作り変えなさい、と言っているわけではありません。
それはどうでもいいのです。
だから、遊んでもいいし、遊ばなくてもいいのです。
でも、主導権、権威が誰にあるのかは、はっきりとさせなくてはなりません。

あなたはいつも、「私のせいではない。=私には原因がない。=私には力がない」と宣言してきたのです。

なぜでしょう?
なぜ、そう思いたいし、思ってきたのでしょう?

ここで、この幻想の土台にたどり着くのです。
すなわち、「分離したのは、私のせいではない(実際には、私のせいだ、と思っている)」という罪悪感です。
それが恐れをもたらし、恐れはずっと、この幻想を維持させるのです。

あなたは、「私には力がある」とは言えません。
言いたくありません。
「私は神の子である」とは言えません。
言うのが、怖いのです。
あるいは、「私には力がある」と言う時には、自我の強気の思いというだけのニュアンスであり、実際にはそれは無力で、恐れから自分を守る、という思考体系になっているので、結果的にやはりうまくはいかないのです。
(H注:ここで言う、主導権や権威とは、分離の世界のそれ、ではありません。というのは、分離の世界でのそれは、さらなる戦いや奪い合いをもたらすことになるからです。ですから、そのような主導権や権威、力のことではありません。あなたが仮にベッドの上で眠っている存在なら、その中で見る夢の全ての権限を持っているのは誰なのか? ということです。それがわかって、自ら喜んで戦いや葛藤の夢を見たいと望むでしょうか?)

今回は、これで十分ボリュームがあり過ぎるので、ここで終わりにします。

この期間、集中的に、”在る=気づき”で在ること自体が、これらすべてを終焉させ、また力を復活させるもので在るということを、再認識できますように。

あなたが、「私はいったい、本当に、何なのか?」と、眠りから目覚めることができますように。


H

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