ひとつの庭をじっくり見ること。無鄰菴についてのテキスト for Kyoto Journal
お庭でも、建築でも、絵画でも、「ひとつのものをじっくり深く味わいましょう」とよく聞きますが、それってどういうこと?
やっぱり旅行に行ったら、見たことないものを見たいし、週末のお出かけは新しい体験でリフレッシュしたい。と私も思います。
そんな中、そのものの価値がずっと変わらない文化財の活用では、このじっくり感の魅力をお伝えすることはとても難しい、でも必須だ、と感じています。
つまり、我々文化財施設の運営者は、どうやったら皆さまの限られた余暇の時間の中に、ひとつの文化財目当てに繰り返し訪れていただく選択肢を入れ込めるのか!!?? という難題に日々直面しているわけです。
今回、チャンスをいただいて普段仕事をしている京都岡崎の無鄰菴という庭の魅力についてKyoto Journalというウェブマガジンに寄稿しました。許可いただいて、その日本語原文を以下に公開します。
こんな感じで、庭や文化財を見ている人がいるんだな、と視点をお伝えすることで、じっくり感の魅力を発見していただければ嬉しいです。
京都の日本庭園 「無鄰菴」で考える“間”
植彌加藤造園 知財企画部長 山田咲 2020年7月6日
「間」という、日本文化について語る際には使い古されもし、私のような現代の日本を生きる日本人にとっては、オリエンタリズム的なコンテクストを即座に想像させ、それゆえ警戒心も抱かせる概念について、改めて、日本庭園である無鄰菴を題材に考えてみたい。なぜなら無鄰菴の空間は、日本が急速に近代化していく最中に想像され現実化された空間を今も保ち続けており、日本国内外問わず「間」という概念に対して現在持たれている興味は、日本の近代化のプロセスと密接であるように、私には見えるからだ。(ここで言う近代化とは、端的に、時間や空間を均一の尺度で誰もが把握することができ、天然資源を人間にとって最適化すべき対象として捉える考え方、およびその考えが実現した社会のあり方のことを指す。)
無鄰菴は南禅寺のほど近く、京都岡崎にある別荘とそれに付随する庭園だ。といっても面積は庭園部分がその8割ほどを占め、敷地の西側に母屋があり、そこから東側に広がる庭園を眺める空間構成が基本になっている。無鄰菴は、政治的な面で日本の近代化を進めた山縣有朋が造営し、1896年に、おおむね全体の形が成り立った。この庭の主たる景色の特徴は、庭園の外にある東山を庭園の一部として取り込み、その中心においている点だ。そして、東山のさらに東側の大津市から東山を貫通するトンネルで京都市内に引かれてくる琵琶湖疏水の水を庭園内に引き入れ、音をたてたり浅かったり深かったりする水の流れの表現に富んだ点でも特徴的である。
ところで、建築家であり思想家の磯崎新が1978年に、パリのフェスティヴァル・ドートンヌで「間-日本の時空間」展を構成したが、それについての2003年発表の文章(註1)で、磯崎は「間」の概念を「時間と空間の未分化状態」であり、「事物に内在している根源的な差異」のようなものであり、「実は日本語によっても説明できていない」と書いている。時間的に「間」という概念に接すると、一時停止や休止の意味になり、空間的に接すると、間隔や空隙の意味になる。ただし、これはあらかじめ時間と空間が分化した状態ありきで「間」にその概念を当てはめているに過ぎない、という意味のことも書いている。彼の言う「未分化状態」に「間」の解釈への軸足を置いて、無鄰菴を眺めてみよう。
母屋の前に立ってこの庭を見ると、まず最も目を引くのは、執拗なまでの「連続性」だ。例えば、庭園内の築山や石は、母屋側から見た東山の稜線とぴったり呼応するように配置され、東山にそのまま庭園がつながっていくかのように見せている。まるで「この庭園が存在する限り、あの東山は私のものだ」と言わんばかりの配置である。あるいは、もっとわかりやすいのは母屋の全面硝子張りの窓だ。これは明らかに屋内と屋外を連続的な空間としておきたい、という施主の強い意図が見て取れる。なぜなら当時、硝子は今と比べてとても高価だったからだ。さらに、流れの水がたてる音は、見えている流れと立っている場所との距離を常に具体的に感じさせ、かつ均質な空間が媒介していると感じさせる。ここには、時間と空間が未分化で混然一体となった「間」らしきものは全く見当たらない。むしろ徹底的にそれが排除されて、今立っているここと、見えているあそこには均質な時間と空間が連続してあるということを強烈に主張している。とても近代的な空間だ。
ところが、無鄰菴にはもう一つの景色が隠されている。母屋を東側に出てすぐに園路が二手に分かれる。左側の道を3mほど進んだ現在行き止まりの結界がある場所から滝を中心とした景色が見える。この景色に、言いしれない胸騒ぎと、国の近代化によって白日の下に言語化されるチャンスをついに今日まで失ってきた「間」を感じ取るのは私だけだろうか。ここから見る滝の景色はいくつかの意図的に配置された障害物(モミジの枝、手前に広がる池の水面の動き、揺れ動く影、など)が影響しあって成り立っている。そして伝統的な日本庭園の構成物(滝、州浜、松、など)が、オーソドックスに配置されている。水の流れの躍動感もむしろ抑えられて、池の水面は静かだ。ここからは、立っている場所と見えている滝のあたりに流れる時間が、均質ではなく、別々のように感じられないだろうか。逆に、滝のあたりをさっき一緒に入場した観光客が横切たりすると、非常に違和感を覚える。あそこはたった今私の目に見えているが、現在であってはならないはずだ、と感じる。つまり、「未分化状態」にある「間」が目の前に現れていると感じる。ここから東山は見えない。
冒頭で、「間」に対する現代人の尽きせぬ興味は、近代化と関係があるのではないかと書いたが、おそらくその過程で抑圧してきた、非効率だったり、市場資本の流れを阻んだりするものが「間」の中には潜んでいて、それゆえに、現代の私たちは目を背けることができないのではないかと考える。明白に分節化されコントロールすることができる近代的な時空と、それとは異なる未分化な「間」をはらんだ景色の両方を内包する無鄰菴に、ぜひ訪れて、翻弄されてほしい。
(註1)磯崎新:『建築における「日本的なもの」』新潮社2003 第1章p94-105
無鄰菴 母屋の前から眺めた東山を中心とした景色
無鄰菴 滝を中心とした景色