【小説】『マルチェロ・フォスカリーニのカーニヴァルの最悪な一週間』 9. 火曜日
カーニヴァル最後の火曜日。サン・マルコ広場は昼前のうちからどんちゃん騒ぎであった。
政庁の前では最後とばかりにたくさんの“見世物”の披露が行われていた。仮設舞台での喜劇、動物たちのいる見世物小屋、人形劇、カメラ・オブスクラ、軽業師たちのパフォーマンス、楽師たちの演奏、それに合わせた踊り子の舞。またあちこちで花火や爆竹まで鳴らされているようだ。仮装した人々はそれらに群がり、祭りの最後の日を楽しんでいた。
その場所から島の反対に位置する岸ーーフォンダメンタ・ヌオヴェでは、喧騒も遠くカモメの鳴く声だけが響いていた。
岸辺には二本マストの立った船が船着場につけられている。大陸行きの船であった。
桟橋の前では仮面をつけていない正装姿のフランス大使が仁王立ちしていた。むっとした表情から威厳は感じられないが、言葉を曲げない意志の強さが瞳に浮かんでいる。
隣には、上等な帽子と衣装を身につけた老人ーー共和国の総督が困ったような様子で立っていた。フランス大使の出立はお忍びであり、本来ならばこうした見送りは行われないのだが、今回は委員会からの要望で、元首である彼も居合わせることになったのだ。
そしてその脇にはダンドロの主人とマルチェロの父、ダニエレ・フォスカリーニが気難しい表情で控えており、数人の役人の姿もあった。
「ほんとうに来るのでしょうか」
大使が眉を寄せて言った。
「昨夜届いたというその手紙は、ほんとうに信用できるのですか? もし騙されているのだとしたら……」
「大使殿」
ダンドロの主人が遮るようにして言った。
「差出人はこちらのフォスカリーニ氏のご子息。彼への冒涜は氏に対して失礼に値するゆえ控えていただきたい」
「ですがあんなシミのついた紙切れに……」
「大使殿」
今度はフォスカリーニが遮って言った。
「もし仮にも私の愚息の謀であるとすれば、私は大使殿に首を差し出す覚悟でございます。どうかご辛抱ください」
迫力のある声と言葉に、大使はぎょっとして「そ、そうですか」と少し身を引かせて、もうそれ以上は何も言わなかった。
六時課ーー正午の鐘が鳴るまであと数刻となったとき、とうとうフォンダメンタ・ヌオヴェに男女四人の仮面姿の若者たちが現れた。全員三角帽子を被り、バウタにタバッロ、仮面をつけている。
先頭を歩く男ーーマルチェロはぴんと背筋を伸ばし堂々と胸を張っていた。彼に導かれるようにして隣で歩みを進める女の帽子には大きな真珠が付いており、役人たちはそれを見て「彼女だ」「違いない」と頷き合っていた。
マルチェロは桟橋近くの総督たちの前まで来ると、前に進み出て片膝をついた。
同時に後ろの二人も同じように膝をつく。
「総督閣下、大使様、並びにお集まりの皆様、お待たせを致しまして大変恐縮に存じます。私はマルチェロ・フォスカリーニと申します。こちらにオランクール伯爵令嬢、アンヌ=ソフィー・フランソワーズ・ドゥ・レヴィエス殿をお連れいたしました」
そう言うとマルチェロは後ろの方に下がった。
名を言われた隣の彼女は、品のある所作で前に進み出て、深々とフランス大使と総督に向かってお辞儀をした。
「この度は私のために皆様に多大なるご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます」
オランクール伯爵令嬢の登場に、総督はほっとしたような表情で、挨拶するように自身の帽子に手をやってから答えた。
「ご無事で何よりです。大使殿が首を長くしてお待ちでしたよ」
総督は優しげな声で言ったが、大使の方は怪しむように彼女を見下ろしていた。
彼は昨夜は完全に失態をおかしてしまった。役人に連れられてこられた彼女を目で追っていたつもりだったが、いつのまにか見失い、別の女と間違えたのだ。
大使は上から下までじろじろと令嬢を見つめた。なるほど、タバッロから見える服装は役人の言っていた白い絹のドレスであることには間違いない。
「失礼ですが、一度仮面をお外しいただくことは可能でしょうか」
大使は用心深くそう言った。また昨夜のようなへまをするわけにはいかないからだ。
オランクール伯爵令嬢は「もちろんですわ」と言ってゆっくりと上から下にそっと仮面をずらし、目を伏せた状態で顔を明かした。
帽子の影になっているが、美しく化粧の施されたその顔は、確かに大使が追いかけていた令嬢のようだった。少なくとも昨夜に見間違えたヴェネツィア人の女とは違う。
大使はそう納得したように頷いた。
「結構です。では改めてオランクール伯爵令嬢、伯爵当主の名代として、フランス本国に帰ることを要請いたします。受諾願えますか」
大使はそう言って手を差し出した。令嬢は仮面を再びつけ直すと「はい、受諾いたします」と返事をして、その手に自分の手を重ねようとしたーーそのときだった。
「待てっ!」
突然大きな声とともに、一人の男がどこからか転がるように岸辺におどり出た。その場にいた者たちは皆驚いたようにそちらに目を向ける。
男は赤胴色のタバッロをはためかせてオランクール令嬢に向かって叫んだ。
「あんたが生きて本国に帰ることはこの俺が許さねえ! お前も兄貴のところに送ってやる!」
そうしてタバッロの内側に隠していた右手がまっすぐに令嬢の方に向けられ、左手がそれに添えられた。
間髪入れずにズドンッという音が響く。同時に大使の目の前にいた令嬢の身体がその勢いに合わせてひゅんと飛び上がったかと思うと、背後の海の中にバシャンと落ちた。
あっという間の出来事だった。
「きゃあああっ!」と後ろで膝をついていた女が悲鳴をあげてそちらに駆け寄ろうとしたが、すぐ隣にいた男が「いけません、だめです、堪えてください!」と両腕で引き止める。
しかしマルチェロの方はすぐさま帽子とタバッロ、バウタ、仮面を脱ぎ捨て、まっすぐに岸の方へ駆け出していた。
「お、おいやめろ、マルチェロ! お前、泳げないだろ!」
後ろからかけられた友人の言葉に、マルチェロは「泳げなくとも水の上に押し上げることはできよう!」と言い残して、女の落ちたところへドボンと飛び込んだ。水に入る瞬間、教会の鐘がカランカランと鳴る音と、役人の「その男を捕まえろ!」と言う命令が彼の耳を掠めた。
真冬の水の中は、全身が刺されるように冷たかった。マルチェロはたくさん息を吸ったつもりだったが、あまりの冷たさに身体が押さえつけられているような痛みを感じた。しかし、寒がってはいられない。とにかくクリスティーナを見つけて上に押し上げなければ。
暗い海の底の方に、白い仮面や真珠の光る帽子がゆらゆらと沈んでいくのが見えた気がした。マルチェロはそれを追いかけようともっと底へ向かおうとして、後ろからぐいっと首元の服を引っ張られ「ぐぼっ」と空気を吐いてしまった。
振り返ると、暗い水の中に探していた女の姿がぼんやりと見えた。クリスティーナ?!
しかも撃たれたというのに悠々と泳いでいる。マルチェロは水の中で目を凝らした。
一体どういうことだ、なぜ動ける。それに自力で泳げるのか? 怪我はどうした?
頭の中には疑問が次々と浮かんだが、先ほど空気を漏らしてしまったのでマルチェロはもう限界に近かった。水の冷たさに手足も縮こまってしまっている。
苦しげに目を瞑ろうとしたところをクリスティーナに引っ張られた。マルチェロは泳ぎを知らなかったが、とにかく足をばたつかせれば進むようなのでクリスティーナに手を引かれながらとにかく必死で前に進んだ。
「がはっ!」
クリスティーナに押し上げられてマルチェロはようやく水面に顔を出すことができた。肺に空気を入れようとはあはあと呼吸を繰り返す。
身体が冷たいだとか寒いとか、そんなことがどうでも良くなるくらい、苦しみから解放されたことに嬉しさを感じた。息ができるとはなんとありがたいことだろうか。
肩を上下させながらマルチェロは、自分がどこかの水路の階段にいること、運河にゴンドラが一艘浮かんでいること、そして自分のすぐ足元の石段にクリスティーナが這い上がっていたことに気がついた。
「お、おおお、おいっ!」
マルチェロは息を漏らしながらわめき声を出した。
「な、なぜ動ける、う、うう、撃たれたのだろう!?」
クリスティーナも両膝と両腕をついてはあはあと呼吸を整えていたようだったが、やがて大きく息を吸ってむくりと上半身を上げた。
帽子もなく、びっしょり濡れたバウタが首元まで下がっているし、乱れた金髪が顔に張り付いている。ソフィアに似せて施した化粧もすっかり落ちていたが、にこりと笑みを浮かべた彼女はびっくりするほど美しかった。
「撃たれたわ、でも当たらなかったのよ」
「あ、当たらなかった!? だが、現にお前は弾の勢いで海に……」
「これよ」
クリスティーナはバウタをめくって、胸元から鎖に繋がったものを取り出し、首から外すとマルチェロに渡した。
マルチェロはそれを受け取ってまじまじと見つめた。手の平ほどの大きさの楕円形の盤のようだ。表は細密画と思われる絵がばりばりに割れ、原型を留めていない。盤自体は頑丈な鉄でできているようでずっしりと重く、裏返すと銃弾がめり込んだような痕が残っていた。
「ソフィア様が持たせてくれたお守りなの。嘘みたいだけど、運良く弾がこれに当たってくれたのよ、おかげで助かったわ。まあ弾の勢いで海に落ちちゃったし、胸の下は痣になっちゃうだろうけど」
嘘だろう、そんな奇跡のようなことがほんとうにあるのか。
マルチェロはぽかんとした表情を浮かべたが、「……全く」と大きくを吐いてその場に座り込んだ。
普段であれば水路の船着場の石段に腰を下ろすなど絶対にしないが、今のマルチェロにはそんなことまでは考えられなかった。
クリスティーナが無事だったーー撃たれてもおらず、怪我もしていないようだ。そのことに心から安堵したのである。
「ねえ、マルチェロ」
クリスティーナがちらちらと視線をこちらに向けながら言った。
「あんた……泳げないのに飛び込んだのね。私のために、ありがとう」
礼を言われ、マルチェロは思い切り顔をしかめた。
「礼を言われる筋合いはない。私は……結局お前に助けられた」
飛び込む必要はなかったのだ。クリスティーナは撃たれていなかったし、泳ぎもできた。かなづちである自分が完全に足手まといになっていたことを思い返して、マルチェロは急に恥ずかしさが湧き上がってきた。
「泳げないのに飛び込むたあ、旦那も無茶をするねえ」
ふいに運河の方からまのびした声がかかり、はっとそちらを見た。
運河に浮かぶ一艘のゴンドラから、船頭が櫂の持ち手に顎を乗せてにやにやとこちらを見ていた。
マルチェロは知っている顔に、驚きの表情を浮かべた。
「お、お前は……!」
「へへ、俺もびっくりでさあ、まさか溺れていたのが旦那とはね」
にっと歯を見せて笑った男は、マルチェロが自宅から出かけるときにいつも利用しているあの“無駄口の多い”漕ぎ手だった。
「だが、どうしてお前がここに……?」
船頭は肩をすくめた。
「さっき旦那の姉君をここの近くにお送りしたんです。それで帰ろうとしたら銃声が聞こえましてね、なんだろうと思って近づいてみたら、誰かが溺れかけてるからびっくりしましたよ。水面に顔を出してたそちらのお嬢さんに急いで櫂を伸ばして、岸辺につけたってわけです」
クリスティーナが船頭の方を向いて「ありがとう、助かったわ」と言うと、彼は「いえいえ、俺はできることをしただけでさあ」と照れたように帽子に手をやった。
「それにしても大丈夫ですかい、何かあったんで?」
船頭の問いに、マルチェロは「悪いが、説明をしている暇はない」と言ってよろよろと立ち上がった。そして辺りを見回した。ここはフォンダメンタ・ヌオヴェからそんなに離れていない、水路の一角のようだ。
「私は今すぐ行かねばならない場所がある……彼女を任せていいか」
船頭は驚いたような表情を浮かべた。
「えっ旦那もお送りしますよ、そんな状態じゃ歩くのも大変ですぜ」
「近くだから問題ない。それより急いで彼女を聖アントニウス教会に……あっ」
マルチェロは懐に手をやって眉を寄せた。どうやら財布を水の中に落としてしまったようだ。くそ、また文なしか。
しかしその様子に船頭は笑った。
「へへ、今回はツケの方が良さそうですねえ。大丈夫です、聖アントニウス教会ならすぐそこですからお任せを」
船頭の言葉に、マルチェロは少し目元を和ませてからすぐに真面目な顔になって「頼んだ……くれぐれも他言無用で」と念押しした。
「わかってますよ。じゃ、お嬢さんどうぞ、お乗りくだせえ」
クリスティーナは船頭に手を差し出されて、よろよろと立ち上がった。だが彼女はゴンドラに乗るのを躊躇い、「マルチェロ」と青年を引き止めた。
呼ばれた彼が振り返ると、クリスティーナは不安そうな声で言った。
「大丈夫かしら。あの人がこのことに動揺して自分の正体を明かしてしまったら……」
「いや、それはエドが阻止しているはずだ。とにかく事態がどうなったか見てくる……お前は死んだことになっているのだから、絶対に教会から出るなよ。できればそのドレスは燃やしてしまえ。私たちも落ち着いたらそちらに向かう」
クリスティーナは不安げな表情をしたままだったが「うん、わかった」と返事をした。マルチェロはそれに頷くと身を翻した。彼はもうよろよろとした足取りではなかった。いつも通り背筋をぴんと立てて船着場の階段を颯爽とのぼると、角の向こうへ行ってしまった。
「……はあーあ、旦那も素直じゃないなあ。無事でよかったの一言もなしなんて」
船頭がそう言ってくれたのに、クリスティーナは笑みを浮かべた。
「いいのよ。助けようとしてくれたんだもの、それだけで十分だわ」
「まあ普通なら泳げねえのに飛び込んだりはしやせんよねえ。お嬢さんも愛されてんなあ」
クリスティーナはふふっと笑うと「さあ、それはどうかしらね」と言いながらゴンドラに乗り込んだ。
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「その男を捕まえろっ!」
長官の張り上げた声に、フォンダメンタ・ヌオヴェに並んでいた役人たちが一斉に駆け出した。その俊敏で無駄のない動きによって、乱入してきた殺人者はたちまちその場で捕らえられた。
彼の手から銃が奪われ、すぐに縄で拘束されると、帽子やバウタ、仮面も外される。役人の長官は彼の顔を確認すると、ダンドロの主人の前に男を連れていった。
ダンドロ氏は男を一瞥した。顔を見ずとも彼には銃を持ったこの男が何者かわかっていた。氏がこの期間、ずっと探していた人物である。
「バレッティだな」
青年は名を呼ばれてこちらを睨みつけた後、ふんと鼻を鳴らして笑みを浮かべた。
「そうだ。へへっ結局あんたは最後の最後であの女を助けられなかったな。ざまあみやがれ」
ダンドロは目を細めた。
「お前のその貴族への嫌悪は、自分で自分の首を絞めているのだ。それがまだわからぬか」
「わからないねえ、生まれたときから全てを手にしてるあんたが、持たぬ者の苦しみをわからないのとおんなじくらいにな……フランス大使殿!」
バレッティはダンドロ氏に返事をした後、彼の後ろでこちらの様子を伺っている男に呼びかけた。
大使は突然呼ばれて肩をびくりとさせた。
「オランクール伯爵令嬢は死んだ。あの家の血筋を引いてるのは俺一人しかいねえ。あんたも手ぶらで帰るわけにはいかねえだろう、俺を連れて帰れ」
大使は眉を寄せたまま、ちらりと令嬢の落ちた水面の方を振り返った。令嬢も、後から飛び込んだあのフォスカリーニの子息も浮き上がってこない。
オランクール伯爵家の兄妹を連れ戻す使命は果たせなかったことを革命政府は何というだろう。二人を殺めた人物を連れて帰れば、丸く収まるかもしれない。
いつのまにか正午の鐘が鳴り終わっていることに、大使は気づいた。もう出発の時刻だ。
大使は総督の方に向き直った。
「……確かに、あの男は我が国の貴族を殺めた罪人です。総督、こちらで引き取らせていただきたい。よろしいですかな?」
結局バレッティの望み通り、大使は拘束された彼を連れて本国行きの船に乗り込んだ。大使とダンドロの主人、そして役人たちはその出発を見送った。
エドアルドはその状況を見守りながら、地面に座り込んで泣きじゃくるソフィアをなだめるように肩を抱いていた。
クリスティーナが撃たれた直後、ソフィアは彼女の後を追おうと手足をばたつかせていたが、もう今では諦めたようにエドアルドの胸でただむせび泣くだけであった。仮面はつけたままだが、念のためにとクリスティーナに似せて施した化粧はすっかり落ちてしまっていることだろう。
エドアルドは震えているソフィアの背中を撫でながら、クリスティーナが落ち、そしてマルチェロが飛び込んだ桟橋の先に目をやった。
そこではダニエレ・フォスカリーニが両手と両膝をついて下の水面を覗き込むように見つめていた。彼のすぐ隣には、一人の役人姿の若者がしゃがみこんで、フォスカリーニ氏の肩に手を置いている。彼がマルチェロの兄ジュリオだった。二人とも苦しげな表情を浮かべていた。
それを見ていたエドアルドは、仮面の下で目を細めて呟いた。
「……ほんとばかだな、マルチェロの奴。お二人にあんな顔をさせるなんて」
「私もそう思うが、お前にだけは言われたくない」
突然後ろから声がして、エドアルドはがばっと振り返った。目の前にはびっしょり濡れた姿の友人が不服そうな表情で立っていた。
「え、おまっ、マ、マルチェロ!? 生きてたのか!」
エドアルドがそう言ったのに、彼の胸の中にいたソフィアも驚いたように振り向いた。
「えっ、マ、マルチェロ様……?」
呼ばれた青年は「この通り生きている」と胸を張って言った後、しゃがみ込んでエドアルドとソフィアにしか聞こえない小声で囁いた。
「それからクリスティーナも無事だ。あいつの方が私よりもぴんぴんしている。先に例の教会に行かせた」
「なんだって!?」
ソフィアとエドアルドは信じられないというように目を見開いた。
「だ、だけど、銃弾は確かに……」
マルチェロは頷いた。
「ああ、当たった。だが弾は運良くペンダントに当たったというわけだ。ソフィア嬢、あなたから預かったものであいつは命拾いした。全く強運のやつだ」
「ペ、ンダント……まさか」
ソフィアは息をのんだのに、マルチェロは力強く頷いた。
「そのまさかだ。ちょっと痣になったなどと文句を言うくらいには元気だったぞ」
ソフィアは仮面の奥の瞳を潤ませ、感極まったように再びエドアルドの胸の中に顔を収めた。そして「ああ神様、よかった……クリスティーナさん……ほんとうによかったわ……!」と安堵の声を漏らした。
エドアルドはマルチェロの言葉にぽかんとした表情を浮かべていたが、やがてくくくとおかしそうに笑い出した。
「そうか、彼女は無事だったか……そうか……そうか」
仮面をつけているのでエドアルドの表情は読めなかったが、笑い声とともに鼻をすする音が聞こえた。涙を流しているらしい。
マルチェロは和やかな気持ちで二人が心から喜ぶ様子を見ていたが、桟橋の方を見てから友人に真剣な表情で「それでエド、状況は?」と尋ねた。
エドアルドは「あ、ああ、そうか」と言って鼻をすすってから咳払いをして答えた。
「お前が飛び込んだ後、バレッティはすぐに拘束されたよ。フランス大使はオランクール伯爵令嬢を連れて帰ることができなくなったから、彼女を殺した罪人としてバレッティを連れていくと言った。総督もそれに頷いて、今さっき船出したところだ。まだすぐそこに船があるだろ……それでマルチェロ、彼女のことはどう説明する?」
桟橋の方を見ると、確かに総督とダンドロ氏と役人たちが船を見送っているようだった。
マルチェロはすくっと立ち上がった。
「私が潜ったときにはもう令嬢はだめだったとお伝えする。彼女は海底に沈んだか、あるいは潮に流されてしまった。私はやっとのことで海から這い出た……それでいいだろう」
そう告げると、マルチェロはしゃがみ込んだままの二人を残して、「総督、ダンドロ様!」と呼びかけながら総督たちの方へ駆け寄っていった。
エドアルドはそのまま友人が岸辺で総督たちと話しているのを遠目に見ていた。
すぐ近くにいたフォスカリーニ親子が、マルチェロの存在を見て、驚いたように近寄っていくのも目に映る。
マルチェロも後ろに自分の父と兄がいることに気づいていたようだが、総督に二言三言話したようで、その後は総督の前で片膝をつき、礼節の体勢を取った。
その貴族然とした友人に、エドアルドはふっと笑みを浮かべた。
真冬の水の中に飛び込んだ後だというのによろめきもせず、父と兄と話す前にまず元首への報告を優先するなんて、マルチェロの貴族たりえようとする姿には全く恐れ入るな。
その後、総督はマルチェロに何か言葉をかけてから、岸辺に待たせていた自家用のゴンドラに乗って行ってしまった。役人たちもそれに合わせて散っていき、フォンダメンタ・ヌオヴェにはダンドロの主人とフォスカリーニ親子だけが残ったようだった。
ようやくマルチェロが父と兄の方を振り向いた直後に、「マルチェロッ! お前というやつは!」と、フォスカリーニ伯爵の雷が落ち、エドアルドは肩をびくりとさせた。
それから彼の息子への説教が始まった。マルチェロは先ほどとは打って変わり、小さな子猫のようにしゅんとして下を向いている。そのうち小さくくしゃみをした。
すると兄が自分の上着を脱いで弟に着せ「父上、もう良いでしょう」と間に入っているではないか。
あれ、弟思いの兄上なのか? 確か……彼はマルチェロをピオンボに入れた張本人だぞ。
エドアルドは不思議に思いながらその光景を眺めていた。
そのうちダンドロの主人がフォスカリーニ親子に近づいてきて、マルチェロに何か言いながら、ちらりとこちらに視線を向けた。
マルチェロは驚いた表情を浮かべていたが、こくこくと頷いた。そしてこちらへ近づいてくる。どうしたのだろう。
マルチェロはエドアルドとソフィアの方へ戻ってくるとなんとも言えない表情をしていた。
「エド、ダンドロ様がお呼びだ……それに一緒にいるご婦人もとおっしゃっている」
エドアルドとソフィアは顔を見合わせたが、ダンドロの主人の言葉にそむくわけにもいかないので、立ち上がってマルチェロとともに彼らの方に向かった。
ダンドロ氏たちの立つ岸の方まで行くと、大使の乗った船がもうすっかり小さくなって見えた。その光景にエドアルドの隣にいたソフィアはほうっと息を吐いたようだった。
ダンドロ氏は一瞬だけ彼女の方を見たが、すぐにエドアルドの方を向いて言った。
「ギーシ家の息子、エドアルドと言ったか。今回の件はすべてお前が言い出したことで間違いあるまい。このフォスカリーニの息子には散々警告したにも関わらず結局聞き入れようとしなかった。お前の差し金か」
エドアルドは仮面をつけているのに自分の正体が見破られていることに驚いたが、マルチェロが割り込むように「いいえ違います、ダンドロ様!」と身を乗り出した。
「私は自らこの件に関わったのです、この男は何も……」
「マルチェロ、いいんだ」
エドアルドは友人の腕を掴むと首を振った。そして仮面を外して素顔を明かすと、ダンドロ氏の方をまっすぐに見た。
「おっしゃる通り、最初にマルチェロに話をもちかけたのは俺です。彼が危険な目に合ったのも、ピオンボ行きになったのも、すべて俺の責任です。俺はこの件に命をかけるつもりでした。たとえこの地を離れるようなことになったとしてもかまわないとさえ思っていました。マルチェロは、俺がそんな状態にならないために考えて行動し、俺の味方になってくれただけなん……」
「エド!」
マルチェロが眉を寄せて友人の肩を掴んだ。
「わざわざそんなことを言う必要はないだろう、いいからここは私に任せておけ」
「ほんとうのことを言ってるだけだろ。ダンドロ様に隠し事するのは得策じゃないって言ってたのはお前だぞ」
「お、前……この場でそれを言うか?!」
「おいこら、お前たち! ダンドロ様の前で言い争いをするとは何事かっ!」
フォスカリーニ伯爵が後ろから二人の青年に向かって怒声を出すと、二人ともびくりとさせて下を向いた。
その様子に、ダンドロの主人は珍しくふっと笑みを浮かべた。
「フォスカリーニの雷はよく響くな」
「……無礼を働き、申し訳ありませぬ、ダンドロ様」
フォスカリーニ氏は申し訳なさそうに頭を下げた。
マルチェロはちらりと顔を上げてダンドロの主人の貴重な笑顔を見ていたが、彼がこちらを見下ろし目が合ってしまったので慌てて再び下を向いた。
ダンドロ氏は言った。
「良い。二人とも、私はお前たちを責めるつもりはない。互いに種明かしをしよう。大使も総督も、役人も去ったーーそこに委員会の者がいるが、彼ならかまわん。そうであろう、ジュリオ・フォスカリーニ」
そう言われて、マルチェロの兄ジュリオは右手を胸に置いて誓うように言った。
「今ここで見聞きすることは墓場まで持っていきますゆえ、ご安心を」
ダンドロ氏はそれを聞いて満足すると、「さて」と二人の若者を見下ろした。
「まず、お前たちは私に何を聞きたい? できる範囲で答えてやろう」
マルチェロはエドアルドと顔を見合わせたが、咳払いをして答えた。
「ダンドロ様のほんとうの目的は何だったのかお聞かせ願えますでしょうか。私はダンドロ様がソフィア嬢を屋敷に匿うことで、彼女をフランスに送り返そうとしている当局の目から遠ざけているものだと思っていました……しかし実際には違ったようですね」
マルチェロの非難するような言い方に、父親が「おいっ!」と言ったが、ダンドロ氏は片手を上げて「良い」と言った。
「もっともな問いだ。私は己の保身と、十人委員会よりも有利であろうとする野心のためにオランクール伯爵家の兄妹を屋敷に匿っていた。私が二人を保護していれば、当局も私に従うしかないだろうからな。実際のところ二人のことなどどうでも良い、影でこの国を操ることこそ私の最大の目的だ。どうだ、この答えで満足か」
地から湧き上がるような低い声の彼は恐ろしく、マルチェロは目の前の男からの威圧感にごくりと唾を飲みこんだ。
しかし「ダンドロ様」と後ろからフォスカリーニ氏が咳払いをして言った。
「あまり愚息をからかわないでください、まだ若輩ですから」
からかう? マルチェロは青ざめた顔をしていたが目を瞬かせた。
ダンドロ氏は「からかったつもりはないのだがな」と答えてから言った。
「まあ、私の野望などどうでも良い。それに当局を敵に回してもいいことはあるまい……さて、私の今回の目的だったな。私はあくまで政府と同意見。マルチェロ殿、お前が友のために考え行動したのと同じように、私はこの国のために考えて行動する。たとえそれが一人の外国人の命と引き換えでも、打開策がなければ国のためを優先するのが貴族の務めだと思っている」
マルチェロは悔しそうに口をぎゅっと結んで俯いた。
そうだ、マルチェロも貴族としてそうあるべきだと思っていた。だができなかったのだ。それはソフィアに恋慕を抱いていたわけでも、エドアルドのためでもなかったーーマルチェロ自身がそうするべきだと思ったのだ。
ダンドロの主人は青年の表情を見ていたが、「もちろん私とて何も考えていなかったわけではない」と続けた。
「最初は彼らをそのまま国に置いてもいいと思っていた。だがカーニヴァルの間にあのフランス大使がやってきて、彼らを連れ戻すと言い出した。私は自邸に招き盛大に歓迎しもてなすことで、手ぶらで帰ってくれることを願っていたが、そううまくはいかなかった。加えてあの日に限って乱闘騒ぎが起きたーー結果的に大使とバレッティとの鉢合わせは避けられたが、奴に大使が来ているという情報を与えてしまった」
マルチェロははっと顔を上げ、思わず左頬に手をやった。
あの水曜日の夜のことか! 八の間にいたのはオランクール伯爵令嬢だけではなかった、大使もいたのだ。ではやはりあの八の間を覗いていたのはリュシアン殿ではなく、バレッティだったのだ。
話を聞いていたエドアルドが「ダンドロ様」と言った。
「あの男は何者ですか。オランクール伯爵令嬢は昨夜、双子の兄君の一人だと言っていましたが、それはほんとうですか?」
「実際のところは私にもわからぬ。だが昔フランス貴族の末端が居を構えていた場所はあの男の住処だった場所で間違いない……調べではっきりしている洗礼日を辿っても可能性は高い」
ダンドロ氏は続けた。
「私はもう長い間ずっとあの男ーーバレッティを探していた。バレッティはずいぶん前から十人委員会に仕えている秘密警察だった。しかしかの国で革命が起きてから、彼は上に報告しなくなり、密偵同士の情報網を自分の利益のために利用するようになった。委員会は彼を危険人物と判断し、私も密かに彼が問題を起こしはしないかと警戒していた」
マルチェロは納得したように頷いた。自分の生まれから貴族に反感を持っていた彼は、おそらく革命に触発されたのだろう。
「そこへオランクールの兄妹が亡命してきたということですね」
マルチェロの言葉に、ダンドロ氏は頷いた。
「令息のリュシアン殿は礼儀正しく、バレッティの思惑を薄々感じ取ったのか、奴の指示には従わずに私にわざわざ挨拶に来られた。だから私は彼らを保護することができたのだ……フランス貴族がヴェネツィアの人間によって殺されるということは何としてでも避けたかった。かの国と問題を起こせば、外交問題に差し障る。今の時期は特に慎重を期さなければならぬ。とにかく無傷でお帰りいただくことこそが、第一だと思っていた」
ダンドロ氏の声はそれができなかったことを後悔しているようだった。
マルチェロは言った。
「令息の死には……私が関係しているのでしょうか」
ダンドロ氏は目を瞬かせてから答えた。
「関係ないとは言えぬが、きっかけに過ぎぬ。お前の存在は、伯爵位を狙うバレッティに利用されたのだ。バレッティはリュシアン殿をそそのかし、彼のお前への憎しみを抱かせて増長させた、それだけだ」
昨夜のソフィアの話では、リュシアンはマルチェロのことをエドアルドだと勘違いし、ひどく憎んでいたらしかった。
マルチェロはなんとなくリュシアンが妹に対して強い感情を抱いていたのではと今になって思った。
妹に恋慕を寄せるエドアルドを、兄として遠ざけたかったのだろうが、それにしても殺そうとするほどの憎しみなど異常だ。それこそ貴族として冷静な判断とは思えない。
バレッティはその嫉妬の憎しみに火をつけ、そしてリュシアンに剣を握らせようとしたのである。
エドアルドが「あの」と言った。
「マルチェロはどうしてピオンボに入れられたんでしょうか。アンナ=ソフィア嬢の証言を聞けば、マルチェロはすぐに牢から出られたはずなのに」
すると、ダンドロ氏は答えずにマルチェロの兄ジュリオの方を見た。それに合わせてマルチェロもエドアルドも彼を見た。
ジュリオ・フォスカリーニは、マルチェロにやや似ているが、目鼻立ちがさらにすっきりしており、弟の無愛想な顔よりも数倍甘い顔をしているとエドアルドはこっそり思った。
ジュリオはダンドロ氏に向かって頷くと言った。
「当局は、リュシアン殿が愚弟に危害を加えようとしていることを察知していました。ですから外に野放しにしているよりはピオンボに捕らえておけば安全ですし、リュシアン殿とバレッティが愚弟に何かしようとすれば、そこを我々で捕らえることができると考えていました」
「なっ……そ、それでは、兄上は私を守るためにあんなところに入れたというのですか!? 兄上の意向で!?」
マルチェロが思わず声を上げたのに、兄は眉をしかめた。
「そうだ。お前はダンドロ様からも父上からも令嬢に関わるなと警告されたのに結局あの夜は一緒にいただろう。その情報をよこしたのはあのバレッティだったのだぞ。仕方ないから守ってやるために牢に入れた。屋敷で大人しく謹慎していることもできないのだからな、お前にはピオンボがちょうどよかったのだ」
「そ、そんな、ひ、ひどい! 兄上はピオンボがどんなところかご存知ですか? 真っ暗で窓もないし、外の景色もわからない、床石は冷たく、食事は最悪、水もワインもひどい味で……」
マルチェロの抗議にジュリオは呆れたような声を出した。
「牢なのだから当たり前だろう。それにフォスカリーニ家のお前がピオンボに入ったなどと世間に知れ渡っては困る。だから窓もない、極力看守たちの目を遠ざけた状態で、父上にも広まらないように後から手紙を送った。それなのに脱走とは。少しは私の身になって考えろ」
「わ、わかるはずがありませんよ! せめて一報いただけたら……それに兄上が見ていないところで私はピオンボで殺されていた可能性だって……!」
「バレッティとリュシアン殿にはちゃんと目をつけていた。我々十人委員会を甘く見るな……それだけではない、屋敷に届いた私宛ての手紙も勝手に読んだんだろう」
「あ、あれは私ではなく、姉上が勝手に……」
「いい加減にせんかっ! ダンドロ様の前で争うでない!」
後ろからフォスカリーニ氏が息子たちの口論をがなり声で遮った。兄弟たちは肩をびくりとさせて口を閉ざすと身を小さくして下を向いた。
その様子にダンドロ氏は目を細めてから言った。
「兄弟喧嘩の続きは屋敷に帰ってからするが良い……ジュリオ・フォスカリーニ、今回はバレッティ拘束のためであったから見逃すが、ピオンボの牢を私的な目的で使うことは今後一切禁ずるぞ」
ダンドロ氏の言葉に、ジュリオは「は、申し訳ありません」と頭を下げた。
謝る相手が違うのではと、マルチェロは不服そうに兄を見上げた。しかし、内心では兄が捕らえたのは自分のことを守るためだったということにほっとしていた。やはりどこかで兄が味方であることを祈っていたのだ。
「ところで」
突然ダンドロの主人が言った。
「後ろのご婦人に挨拶してもかまわないだろうか。用心深い役人どものせいで久しぶりにお目にかかるのでな」
マルチェロとエドアルド、そして二人の影に隠れるようにして立っていたソフィアは、驚いたように氏の方を見た。
「え……ダ、ダンドロ様?」
「ま、まさか」
ダンドロ氏はわずかに眉間に皺を寄せた。
「この私が気づかないとでも思ったか。彼女とは、秋からずっと同じ屋敷でともに暮らしていたのだぞ」
その言葉に、ソフィアは観念したようにすすっとダンドロ氏の前に進み出た。そして仮面を外し、崩れてしまった化粧をハンカチで拭い去るとドレスの裾を持ち上げて優雅にお辞儀をした。
「……いつお気づきになられましたか」
「最初は昨夜遅くにマルチェロ殿から私宛の手紙を受け取ったときだ。あのときから何か仕掛けてくるだろうとは思っていた。だが、確信したのは伯爵令嬢を演じていた娘が撃たれたときだ」
おや、クリスティーナの所作と発言でわかったのではないのか。だとしたらあの女もなかなかに女優だなと、マルチェロは思った。
「海に落ちた彼女を助けようとしたのはエドアルド殿ではなく、マルチェロ殿だったーーということは落ちた方がマルチェロの愛人で、こちらにいるのがオランクール伯爵令嬢であるということだ」
「あ、愛人なんかじゃありませんったら!」
マルチェロは慌てて否定したが、ソフィアは目を伏せて「そうですか」と納得したように頷いた。
いや、納得されても困る……ちょっとまて、それではなにか。ソフィア嬢とクリスティーナが入れ替わっているとダンドロ様に気づかれてしまったのは、私の浅はかな行動のせいだということか!?
マルチェロが頭を抱えている一方で、ソフィアは懇願するように両手を組んで言った。
「ダンドロ様、この度の騒動、全てこの私に責任がございます。こちらのお二人を巻き込んだのも私、全てオランクール伯爵家の人間が発端でございます。どうか私を本国へお返しください」
「だ、だめです、そんな!」
エドアルドが焦ったように身を乗り出すようにして声を上げた。
「ダンドロ様、どうか、どうかお見逃しください。大使も総督も、彼女を死んだと思っております。それで良いではありませんか。どうか寛大なご処置を……」
「待ちなさい」
ダンドロ氏は顔は厳しいままであったが、口調を和らげてソフィアに言った。
「今更あなたのことを糾弾するつもりはない。私はあなたが望む限りこの国に居てもらいたいと思っている。リュシアン殿もそれを望んでいるはずだ。それからーー彼の亡骸は私が預かっている。明日サン・ミケーレに埋葬する予定だが、あなたにもぜひ付き添っていただきたい。どうかね」
ソフィアは瞳を揺らした。唇を震わせていたが、ふっと声を漏らしながら俯く。そして「感謝、いたしま、す、ダンドロ、様」とやっとのことで答えた。
その様子を隣で眺めていたマルチェロは目を細めた。
ああ、そうか。
マルチェロは、彼女がなぜエドアルドの“一緒に逃げよう”という申し出を断ったのかずっと疑問であった。しかし彼女も少なからず兄に何かしらの感情を抱いていたのかもしれない。そうだとしたら、彼女はやはり兄君のそばから離れようとはしないだろう。この国の墓に埋めてしまえば、本国に帰るとは言い出さないはずだ……さすがはダンドロ様だ。
しかしダンドロ氏は「だが一つ、腑に落ちぬことがある」とマルチェロの方を向いて言った。
「お前が追いかけた娘はどうなったのだ。先ほど総督には死んだと報告していたが、そのわりには悲しんではいないように見える。どういうことだ」
マルチェロはう、と返答に窮したが、言葉を選んで真実を述べた。
「……その……じ、実は生きています、奇跡的に弾を逃れたようで大きな怪我もなく……今はある場所に隠れさせています」
「ほう」
ダンドロ氏は少しだけ眉を上げた。
「弾を逃れるなど、よほどの強運の持ち主だな……八の間を覗いていたあのしたたかな娘であろう。その後バレッティのタバッロに関する報告に来たときにもお前とともに来たのだったな」
マルチェロはまたしても一瞬言葉に詰まったが、「そうです」と言うしかなかった。ダンドロの主人に言われてから気づいたが、ここ一週間はほとんど彼女と一緒にいることになっている。この私が貴族の娘ではなく駆け出し娼婦とずっと行動を共にしているだと? これはいけない!
「ダ、ダンドロ様。どうか誤解しないでいただけますか。あの女とは今回の件で偶然関わっただけで、私の愛人でもなんでもありません! 私は先週からずっとめぼしい貴族の娘を探しているんです!」
マルチェロが慌てて言い繕ったが、ダンドロ氏は面倒そうに「お前の私的な事情などどうでも良い」とあしらった。
「それよりもアンナ=ソフィア嬢のために尽力してくれたその娘に、私ももう一度会わねばならぬな……話を聞く限り、今はきっとお前のように濡れねずみになっているのだろう。早く服を持っていってやるが良い。私からの話は以上だ」
「あ……はい」
ダンドロ氏の意外な言葉に、マルチェロはぽかんとしていたが、エドアルドが腕を引っ張ったので、我に返って丁寧に頭を下げた。
「寛大なご配慮感謝いたします、御前を失礼いたします」
マルチェロがそう言ったのに合わせてエドアルドとソフィアも頭を下げた。
「エドアルド殿」
ダンドロ氏が言った。
「用事が済んだら、アンナ=ソフィア嬢を私の屋敷まで送ってもらえないだろうか。彼女の了承を得られればの話だが」
エドアルドはすぐ隣のソフィアを見た。彼女はダンドロ氏に心からの礼を述べた。
「ありがとうございます、ダンドロ様……お言葉に甘えてそうさせていただきます」
それを聞いたエドアルドは、ダンドロ氏に向かって忠実な家臣がするように頭を下げた。
「必ずや無事にお届けいたします」
若者たちはダンドロ氏と後ろにいたフォスカリーニ親子に頭を下げて、岸辺を去っていった。マルチェロが去り際に「兄上、上着は後でお返しいたします」と言ったのに、ジュリオはわかったというように手を挙げた。
「ほんとうによろしかったのですか、ダンドロ様」
三人の後ろ姿を見送りながら、フォスカリーニ氏が言った。
「今の時期にフランス貴族の令嬢を抱えるのはやっかいです。何かあってからでは……」
「フォスカリーニ、何を言っている」
ダンドロの主人はわずかに驚いた表情をしてみせた。
「フランス貴族の令嬢は死んだ。お前も海に沈むのを見ていたであろう。私が今言葉を交わしていた娘はこれからヴェネツィア人として生きていく……それで問題なかろう、ジュリオ殿?」
父親の後ろに佇んでいたマルチェロの兄は、肩をすくめた。
「ダンドロ様のお言葉こそが正義ですからね。もちろん委員会にもそのようにお伝えしますよ、私もこれ以上の揉め事はお断りです」
「話がわかるようで助かる」
ダンドロ氏は満足したようにそう言い、父親の方を見た。フォスカリーニ氏は何か言いたげな表情をしていたが「承知いたしました」と返した。
「次男のことも大目に見てやれ。今回のことは結局のところあの三人のおかげで収まりがついたのだ。ソフィアも自分の立場がわからぬ人間ではない……問題はむしろ外だ」
ダンドロ氏はすっと水平線の向こうに視線をやった。船はすっかり見えなくなっていた。
「……バレッティは密偵としてこの国の情報を知りすぎている。私が始末するつもりだったものを、結局フランスに持っていかれてしまった」
フォスカリーニ氏も「そうですね」とダンドロの主人と同じ方向を向いた。
「フランス人たちが彼を貴族として扱うか、同胞として迎え入れるか、どうにも読めません。今の情勢も何年続くやら」
「火種は消したつもりだったが、向こうから燃え広がることもある……何も起きなければ良いが」
ダンドロの主人は険しい表情を浮かべ、国家の行く末を案じた。
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