【小説】『マルチェロ・フォスカリーニのカーニヴァルの最悪な一週間』 6. 日曜の夜更け
ギーシ家の屋敷からほど近い広場は、相変わらず祭りを祝う人々で賑わっていた。あちこちにランタンが灯されており、大勢の人間が仮面をつけて、仮装をした姿で楽しそうに踊ったり歌ったりしている。広場の真ん中では誰かが演奏しているようだ。
マルチェロはそんな人々の間を縫って、運河沿いに出た。あまり歩かないうちにすぐに空のゴンドラを拾って乗り込んだ。
「フォスカリーニ邸へ」
マルチェロの言葉に、船頭が「へーい」と軽く返事をして櫂を漕ぎ出した。
ゴンドラはゆっくりと暗い運河の上を進んだ。
運河沿いにはところどころにランタン持ちが立っている。その灯りが真っ暗な運河に映り込み、遠目に見るとそれは見事な眺めであったが、マルチェロはそわそわと落ち着かなげにしていた。
屋敷に戻ったところで私は無事でいられるのだろうか。父なら叱られるだけで良いが、もしも兄上がいたらどうなるのか。
こっそりと使用人用の出入り口から入るべきか散々迷ったが、マルチェロの心の中の貴族としての誇りが勝ち、結局正面から屋敷へ入ることにした。と言っても、いつものように水門から入った場合は逃げ道がないので、前の広場でゴンドラを降りた。姉の緑の財布から金を出して船頭に渡すと、緊張しながら橋を渡り屋敷の玄関扉を開ける。
一階のロビーはいつものようにぴかぴかに掃除され、あちこちに置いてある燭台には火が灯されていた。マルチェロにはそれが外のランタンよりも随分と明るく感じた。
ひとまずここで兄上に出くわすことはなかったか。マルチェロは胸を撫で下ろして、帽子とバウタ、仮面、タバッロを脱いだ。
「マ、ママ、マルチェロ様……ッ!」
ふいに横から驚いた声がして、そちらの方を振り向いた。いつも何かと世話をしてくれている召使いの男だ。
マルチェロはその見慣れた存在に少しほっとした気持ちになるのを感じてから、少し声を潜めて尋ねた。
「兄上は?」
召使いは青ざめた顔で「い、今はいらっしゃいません……お昼を過ぎた頃からもうずっとお出かけしたきりです」と答えた。
昼過ぎから出かけたまま? では今夜はもうここへは戻らないのだろうか。
マルチェロが「そうか」と言ってから、バウタの一式を渡そうとすると、召使いの男は下を向いて「マ、マルチェロ様」と震える声で言った。
「せ、先日は申し訳ありませんでした……! マルチェロ様がお役人に連れていかれたというのに、そ、その事実を……か、隠すような真似をしました。私どもから旦那様には何もお伝えしていませんでした。そのせいでマルチェロ様はその分長い間お役人に捕らえられていたと伺いました……後悔してもしきれません。今日旦那様はルイーザお嬢様から事実をお聞きしたようで、たいそうお怒りになりました……ほ、ほんとうにお詫びのしようもありません」
男は頭を下げたまま弱々しく謝った。
マルチェロは目を瞬かせていたが、ふと召使いの前に組まれた手に視線をやった。バウタの一式を抱えていない方の手で彼の腕を掴み、手の甲を灯りで良く見えるようにする。
ひどい傷だった。まだ新しいものらしく、血が固まり始めたばかりのように見える。
召使いは最初はぽかんとしていたが、主人の視線にはっとして慌てて手を引っ込めた。そしてすぐにマルチェロの手からバウタの一式をもぎ取ると、手を隠すようにしてすぐにまた頭を下げた。
「……父上にやられたのか」
マルチェロの問いに、召使いは「ええと」と口ごもった。
「そ、その……これは、私も当然の罰と思っております、無実のマルチェロ様が受けた苦しみに比べれば取るに足らないものでございます」
「お前が兄上に固く口止めされていたのはわかっている。命令に従っただけであろう。お前は何も悪くない」
マルチェロはそう言ってから階段へと歩き出す。召使いの男が「で、ですが私は……」と申し訳なさそうに言ったのに、マルチェロは少しだけ振り返った。
「気にするな、兄上には誰も逆らえん……薬箱に軟膏があったはずだ。ちゃんと塗っておけ。仕事に支障が出ては困る」
そう言い残すと、マルチェロは階段を上がっていった。後ろから鼻の詰まった泣き声で「ありがとうございます」と言う声が聞こえたが、もう振り返りはしなかった。
とにかくマルチェロは早く着替えたかった。金曜からずっと同じ服を着ているのだ。しかも牢の匂いが染みついている気がする。
足早に階段を駆け上がると、シャンデリアの光るポルテゴに出たーーと、すぐ目の前に腕組みをして仁王立ちをして立っている人物がいて、マルチェロは驚いて階段から落ちそうになるのをなんとか堪えた。
「あああ姉上っ! 驚かせないでください!」
マルチェロがわめくのを見てにやにやと笑みを浮かべていたのは姉のルイーザだった。
彼女はおもしろそうに弟を見ながら言った。
「マルチェロ、よく帰ってきたわね。ギーシ邸じゃなかったの? お父様に怒られるわよ」
マルチェロは咳払いをしながら答えた。
「私は父上の言いなりになる気はありません。家に帰りたいから帰ってきたのです」
ルイーザは「どうだかね」と笑って言った。
「意見が割れたか、ギーシ邸の坊やに世話になりっぱなしなのが嫌になったんでしょ。それと着替えね。きれい好きのあんたが三日も同じ服なんて耐え切れるはずがないもの。要するにただのわがままね」
「姉上」
マルチェロはこめかみを抑えながら言った。
「私は疲れているんです。姉上の相手をしている暇は……」
「でもさっきの使用人との会話はちょっと意外。傷の心配をするなんて。なあに、あんたピオンボで人への優しさでも教わってきたの?」
「わ、私は元々こういう性格で……というか姉上、また盗み聞きですか!」
「うるさいわねえ、同じ家にいるんだから聞こえたって仕方ないでしょ」
「どの口が言うんだか……それを言うなら姉上は父上の暴力を止められなかったのですか? 兄上の命令に従っただけなのに、あんな風に痛めつけるなど……」
「お父様がお怒りのときは手がつけられないことくらい知ってるでしょう。それに彼だけじゃなく屋敷にいた使用人はみんな罰を受けたわ、執事も私の侍女もよ……仕方ないわ、それに私だってお父様と同じくらい腹が立ったわ。今日まであんたが牢にいるなんて思いもしなかったもの。私もだけど、お父様はほんとうに心配されていたのよ。だからすぐにギーシ邸に向かわれたの」
姉の予想外の言葉に、マルチェロは驚いたように言葉を詰まらせた。
「そう……でしたか」
彼女の言い方に心からの気遣いが含まれていることに、マルチェロは少々戸惑いを覚えた。それからはっと思い出したように上着から緑の財布を取り出して、姉に差し出した。
「姉上、その……ありがとうございました。突然押しかけたクリスティーナの話を聞いてくださったようで」
素直になった弟に、ルイーザはにんまりと笑みを浮かべて財布を受け取った。
「まあね、私ができることをしただけよ。あの子、とってもいい子じゃない。連れて帰ってくればよかったのに」
「は、はあ? そんなつもりはありませんよ。彼女はまだギーシ邸にいます……あっ、そんなことよりも姉上」
マルチェロは真面目な顔になって言った。
「兄上の今日の動向を教えてくれませんか。兄上と父上はお会いになったのですか?」
「そうね、話してあげてもいいけど……」
ルイーザは少し辺りを見回してから言った。
「部屋に行きましょう、そこで話してあげる。それに……どうせあんたのことだから、まずは服を替えたいでしょう? 話はそれからよ」
マルチェロは念願叶ってやっと三日間来ていた服を脱ぎ、新しいものに着替えることができた。嬉しさのあまり、特別なときにしか着ない見事なレースが施されたシャツを選んだ。
脱いだ物は念入りに洗濯するようにと召使いに言ったが、もはや捨ててしまってもかまわないとさえ思った。
たっぷり時間をかけて見出しなみを整えると、姉の部屋に向かった。
ルイーザはガウン姿で化粧台の前で美しい金色の髪の毛を溶かしていた。
洋服ダンスの開けられた扉にドレスがかけられている。すみれ色と黒のレースと刺繍の施された豪華なドレスだ。ルイーザの金髪とさぞ合うだろう。マルチェロは姉のセンスの良さに唸ってから「このドレスは? 今日お召しになったのですか」と尋ねた。
ルイーザは髪の毛を溶かしながら「いいえ、着るのは明日」と答えた。
「明日の夜にサン・ベネデット劇場で舞踏会があるのよ、あんたも招待されて…………ちょ、ちょっとマルチェロ、あんた今から舞踏会にでも出かけるわけ?」
髪を梳かし終えて振り返ったルイーザは、弟の姿に眉を寄せた。
「え? 行きませんけど。姉上と話をしたらもう寝ます」
ルイーザは小さく息を吐きながら「だったらそのゴテゴテの衣装はなんなのよ」と呟きながら立ち上がると、弟を部屋の中に入れて部屋の外をきょろきょろ見回してから扉を閉じた。
警戒している姉に、マルチェロは少し不安になった。
「な、なんですか、もしかして兄上が屋敷にいらっしゃるとか……」
「いいえ、お兄様は今夜はもう帰らないわ。ただ、壁に耳ありっていうでしょ」
そう言われたマルチェロの頭に、前に自分とクリスティーナがダンドロ屋敷で見た光景が思い出された。
ルイーザは「さて、まずあなたがいなくなった金曜のことから話さなきゃね」と腕組みをして言った。
「私はあの日、サン・モイゼの劇場に行って、夜半過ぎには屋敷へ帰ってきたの。その頃にはあんたはいなかったし、お兄様もいなかった……いたのはお父様だけ」
マルチェロは目を細めた。兄はこの屋敷に形跡を何一つ残さなかったのだ。
「それから昨日の土曜日は何事もなかった。あんたがこの時期に連絡なしに帰ってこないのは毎年のことだったし、お父様は朝から出かけてらしたわ。ただ昼間に一度だけ、うちを尋ねてきた人がいたの」
「尋ねてきた? 誰がです」
ルイーザは肩をすくめた。
「知らない人だったわ。あんたの召使いが対応しているのを後ろから見てたけど、上がり込んでくるような雰囲気じゃなかったーー“ご主人はいるか”って言うのと“ご子息がどこにいるか知っているか”って訊いているのが聞こえたわ」
父上だけでなく、兄上か、あるいは私に用があったのか。
「それで?」
「どちらもいないって使用人が答えたら、帰っていったの」
「えっそのまま帰らせたのですか? 父上を訪ねてきた人ですよ、普通なら……」
ルイーザは「違うのよ、聞いて」と首を振った。
「あんたの使用人だってばかじゃないわ。その男が去ろうとするから“伝言があるなら”とか、“ご用件は”とか、“お名前は?”ってしつこく尋ねたのよ。それでずっと渋っていたけど、とうとう男は“バレッティだ”とだけ答えて、ゴンドラに乗って行ってしまったの」
バレッティ? 知らない名前だ。
「それでその後、ゴンドラはどちらに向かって行ったのですか?」
「そんなことわからないわ。まあでも方向としてはサン・マルコの方ね。あっそうそう! 彼がゴンドラに乗るところを窓から見ていたんだけど、バサッて翻したとき、タバッロの色が表と裏で違ったの。今はそういうデザインが出ているのね」
「なんですってっ!」
マルチェロは思わず声を張り上げた。
「そ、その表と裏の色というのは、もしや黒と赤胴色では? 他の色でしたか!?」
ルイーザは突然大きな声を上げた弟に目をぱちくりさせたが、少し記憶を辿るように考えてからこくこくと頷いた。
「え……ええ、そうね。確かに黒と赤っぽい色だったわ。青とか緑ではなかったわよ」
マルチェロは息をのんだ。彼だ。バレッティという名の男だったのだ、ダンドロの主人が警戒し、アンナ=ソフィアを見張っていた密偵は。
ダンドロ屋敷から出てきた父上に、私の居所を尋ねていたところを見たとエドアルドは言っていた。おそらくあれはこの屋敷に来た後だったのだろう。
そして今朝、彼は何者かに刺されて死んだーー懐にフランス王家の紋章の短剣を携えて。
マルチェロは頭を抱えた。結局彼の正体は密偵ということ以外はわからずじまいだ。バレッティ、全く知らない名前だ。だが名前からしてフランス人ではなさそうだ。
「……他に何か特徴は? 兄上とは繋がりがありそうですか?」
ルイーザが「さあね、どうかしら」と言ってから、思い出すように言った。
「そういえばその人、フェルツェ付きのゴンドラに乗っていたの。だからきっと高貴な人だと思うわ。所作もなんだか丁寧だったし」
「フェルツェ付き……所作も丁寧……?」
姉の言葉にマルチェロは違和感を覚えた。バレッティはやはり今朝倒れていた人物で間違いないだろう。フランス王家の紋章の短剣を持ち、フェルツェ付きのゴンドラに乗るほどの高貴な人物。
いや、ほんとうにそうであろうか。
フェルツェ付きに乗るような男だというのか? 密偵のバレッティが?
マルチェロは記憶をたどり、あの水曜日の夜にダンドロ邸で八の間を覗き込んでいた、おそらくバレッティという人物であろう男を思い浮かべた。
マルチェロの見立てでは、確かに仕立ての良い服を着ているとは思った。だが覗き込んだり歩いたりする様は明らかに貴族ではなく密偵のものだと、マルチェロはあのとき強く感じたのだ。
なんだかしっくり来ない話だ。
ルイーザはなにやら考え込んでいるマルチェロを見ていたが、「それで、問題のお兄様のことだけど」と続けた。
「今日ミサから帰ったら突然お兄様がいらしていたというのは、クリスティーナさんから聞いたわよね。お兄様は私と顔を合わせるなり、お父様はどこか、それからあんたはどこにいるか知っているかって私に訊いてきたの」
マルチェロは少し緊張した顔になった。牢から逃げたことはさすがにもう知られているだろう。私を探しているのかもしれない。
「……それで姉上はなんと?」
「お父様はミサの後にどこかに行ってしまわれたし、マルチェロは金曜から顔を見ていないって答えたわ。正解でしょう」
マルチェロはほっと胸を撫で下ろした。クリスティーナから聞いた話はしなかったらしい。
「……ありがとうございます」
「お礼を言われるまでもないわ、ほんとうのことを言ったんだから。それからお兄様はお父様に手紙を書きつけて、すぐにまたどこかへ行ってしまわれたわ。今夜はもう帰らないはずよ。ポルテゴでお兄様が出発の支度しているとき、あんたの使用人が今夜お食事はどうするかって尋ねたのが聞こえたの。そうしたらお兄様は“今夜はもうここへは来ない、やることがある”って答えてたわ」
ルイーザが得意げにそう言っているのを見て、マルチェロはなんとも言えない表情を浮かべた。
先ほども思ったが、姉はどうやら盗み聞きが特技のようだ。おそらくいつも噂話に耳をそばたてているのだろう。彼女こそ密偵に向いているのではないだろうか。
「なによ、その顔は」
「い、いえ……何も。その、それで父上は、兄上からの手紙を読んだのですか?」
ルイーザは険しい顔をして「ええ」と頷いた。
「何が書いてあったか教えてくださらなかったけど、きっとあんたのことが書いてあったんだと思うわ。お父様がそれを読み終わってから、私はクリスティーナさんから聞いた話をしたのよ。お父様は大きなため息を吐いてらしたわ。“全くあれほど関わるなと言ったのに”って呟いてたけど、なんだか安心した顔をしてた。あんたが無事だと知ってほっとしたのね」
なるほど、それで父上はギーシ邸まで出向いてくださったのか。
少しでも心配してくれたということに嬉しさを覚えてから、マルチェロは考えを巡らせた。
あのとき、マルチェロが“牢に入れられたことで叱られると思っていた”と述べると、父は“それはもういい”と言っていた。明らかにマルチェロが牢に入れられた真相を知っていたということだ。兄が父と直接接触していないのであれば、兄からの手紙に全てが書かれていたに違いない。
マルチェロは言った。
「その兄上の手紙は? 書斎ですか、それとも父上がお持ちなのですか」
ルイーザは肩をすくめた。
「残念ながら、お父様は読まれてからすぐにそれを燃やしてしまわれたの。私も気になっていたからがっかりしたわ。きっととてつもない秘密が書かれていたのかもね」
マルチェロは肩を落とした。せっかくピオンボに連れていかれた理由を掴めると思ったのに。
兄はあのとき、アンナ=ソフィアと一緒にいるところを見てマルチェロを捕らえたわけだが、その後は尋問するわけでもなくただ牢に入れた。もしその後にアンナ=ソフィアの話を聞けば、マルチェロは釈放されたはずで、エドアルドの屋敷に役人が向かったかもしれない。しかしそうはならなかった。私が囚われたのは一体なぜだったのだろう。
それに、クリスティーナがピオンボの看守から聞いた話も気になる。
“日曜の朝までに彼女と接触した例の人物を他に捕らえることができなければ、C318の男を誘拐の犯人として早々に処刑してしまえ”
“彼女”とはおそらくアンナ=ソフィアのことだろう。ダンドロ様が彼女を保護した証拠が見つからなかったら、兄上はほんとうに私を処刑していたのだろうか。
ルイーザは「でも、マルチェロ」と言った。
「あんたはもうこの件には関わらないんでしょう。お父様がそう言い聞かせるって言っていたわ」
姉の言葉に、マルチェロはもちろんですと答えようとしたが、口を開けたまま何も言えなくなってしまった。
先ほどエドアルドとクリスティーナの前では意地になって"関わらない"と宣言したが、今になってもうそれは難しい気がしてきた。自分はずいぶん深入りしてしまっている。もちろん隠れたままでやり過ごすこともできるかもしれないが、ほんとうにそれでいいのかと問いかける自分がいた。
なにより先ほどわかれたばかりのエドアルドの言葉が頭にこびりついて仕方なかった。
“わかってるんだ、自分がどうなるかってことくらい……でも俺は彼女を助けたい”
“俺は祖国の将来よりも、一人の命を助けることを選ぶ。それが間違ってるとは思わない。だって人として当たり前のことじゃないか”
これを聞いたとき、マルチェロは急にエドアルドが、まるで一国の主のような偉大な人物であるように感じた。それに対して、父に言われたから仕方ないと諦めた答えを出した自分がとてもちっぽけに思えたのだ。女にかまけたただの腑抜けだと思っていたが、マルチェロが思っていたよりも友人の志はもっとずっと高かった。
エドアルドは愛情深く心根の良い男で、ひねくれたマルチェロの数少ない友人だった。
彼が自ら危険に飛び込んでいくところを、私はただ安全な場所から傍観しているだけでいいのだろうか。
ルイーザは答えを出さない弟を意外そうな表情で見ていたが、「さ、話はこれで終わり」と言って化粧台の前から立ち上がった。
「いくらお父様でも、あんたを屋敷から追い出すことはしないはずだわ。今夜はもう部屋でゆっくり寝なさい」
姉にそう言われて、マルチェロは口を引き結んだまま部屋を出ようとした。
そのときコンコンと扉が叩かれた。
マルチェロとルイーザは顔を見合わせた。
夜更けではないが、誰かが訪ねてくるような時間でもない。
ルイーザが「どうぞ」と言うと、扉が開いて彼女の侍女がすまなそうに入ってきた。
「お嬢様、下がれと言われたのに申し訳ございません」
「まあグレタ、一体どうしたの?」
ルイーザが問うと、侍女は両手で持った盆を主人に掲げた。
「その、実はたった今、手紙が届きまして……」
「たった今ですって?」
ルイーザが驚きの声を上げると、侍女は困った顔で頷いた。
「はい、届けられた手紙はすぐにお見せするようにとおっしゃっておられたので……ですが、その、お嬢様宛のものではないのです」
「私宛じゃない?」
ルイーザは眉を寄せた。
「お父様宛のものは書斎に置いておくか執事が管理しておいてちょうだい。きっと夜半過ぎにはお帰りになるわ」
「いえ、その……旦那様宛ではなく、ジュリオ様宛でして」
ルイーザとマルチェロは驚いて顔を見合わせた。兄上宛の手紙だと?
侍女は言いにくそうに続けた。
「その、今回のマルチェロ様の件で、ジュリオ様宛の何かがあればすぐにお嬢様にお知らせするようにと言っておられたので……それでお持ちした次第でございます……その、どういたしましょう」
ルイーザとマルチェロは目を丸くしてその盆に乗った手紙を見た。
四つ折になった紙が三つ折りにされ、中央にはXの文字で象られた紅色の蝋印が押されている。明らかに十人委員会からのものだ。
こんな極秘の手紙を、まさか勝手に読むわけにいくまい。
マルチェロはそう思っていたが、ルイーザはまるで聖母のような笑みを浮かべてそれを手に取った。
「そう、よく気を回してくれたわね、グレタ。ありがとう、もう下がっていいわ」
そう言われて、侍女はほっとした表情を浮かべると空になった盆を手に部屋を出ていった。
「……あ、姉上! 何をしようとしているのかわかっているのですか!」
マルチェロが思わず声を荒げたが、ルイーザは涼しい顔で「もちろんよ」と言った。
「この屋敷に届けられたんだから、確実に本人に届くとは限らないでしょ。私宛だと思って開けたら違った、それだけの話だわ。私は世間知らずの深窓のか弱き乙女ですもの」
マルチェロが顔を歪めて「どの口が言うんですか……」と言っている間に、ルイーザは目をすがめてまず表の“ジュリオ・フォスカリーニ殿”と書かれた文字を見た。
「インクの滲みがあるわ。書かれたばかりのもののようね、とにかく開けてみましょ」
「あの姉上、せめてまた元に戻せるように封蝋の形は慎重に残したままで……」
弟が横から言うのを聞き入れず、ルイーザは手紙が破れないようにだけ気をつけながら蝋印をパリッと豪快に割って中を広げた。
「ええと、なになに……
“G・フォスカリーニ殿。
同じ内容のものを事務所にも送ったが、重要事項のため念を入れて屋敷の方へも送る。
引き渡し日の変更はなし。
某国の大使はまだ大陸にいる。
彼との接触については、月曜の日の出の時刻にリアルトのたもとで合図の音を示す。
聞こえるいずれかで判断せよ。
ヴァイオリン:O. P.
フルート:M. S. ᗄ.
Gの金髪娘:T. S. B.
引き渡しの際は目印に帽子に大ぶりの真珠を付けさせる。
くれぐれも問題を起こさぬように”
……なあにこれ、さっぱりわからないじゃないの」
ルイーザは眉をしかめた。
マルチェロも姉から手紙を渡されて目を通してみる。彼女が読み落としをしているのかと思ったが、書いてあるのはほんとうにこれだけだ。
「まずGはジュリオ、お兄様のことでしょ。ジュリオ・フォスカリーニ殿。くれぐれも問題を起こさぬようにって、マルチェロ、あんたのことかしらね。引き渡しって何かを渡すということだわ、大使に会うのなら渡す相手は彼よね」
姉がそう呟くのを聞いて、マルチェロの頭にはアンナ=ソフィアの存在が頭に浮かんだ。
引き渡すのは物ではない……おそらく彼女のことだ。
それならば、某国の大使とはおそらくフランスからの大使の可能性が高い。彼はこの国に来ているのか……ああそうか、だから金曜の夜に突然貴族たちはドゥカーレ宮に集められたのだな。
この国の政府はやはり彼女をフランスへ送り返そうとしているらしい。そしてそれはおそらく極秘で行われるのだろう。マルチェロはごくりと息をのんだ。
ルイーザは手紙を裏返したりひっくり返したりしながら言った。
「バイオリンかフルートっていうのはわかるけど、Gの金髪娘って何なの? それに聞こえたところでアルファベットの意味が分からなきゃどうにもならないわ。これなんか何? Aの文字がひっくり返ってるわよ、わけがわからないわ。しかも月曜って明日じゃないの。明日の早朝にリアルトに行けば何かわかるのかしら」
マルチェロは姉のチェストの上に置いてある豪勢な時計を見た。日の出の時刻まであと10時間もない。
どうする、どうやってこの謎を解く……と考えてから、マルチェロは頭を振った。
ばかな、何がどうする、だ。
私はもうこの件からは手を引いたではないか。父上からも関わるなときつく言われている。それにおそらくダンドロ様も動いていらっしゃるのだ。私の出る幕ではない。あのソプラノ歌手のふりをしたフランス人貴族の女のことなどどうでも良いではないか。
そうだ。このまま彼女は自国に帰される。フランス人がフランスに帰る、当然のことではないか。私とてヴェネツィア貴族だ。生きるも死ぬもこの島以外は考えられない。そのはずだ。
それに、彼女が自国に帰ったところで死ぬと決まったわけでは……。
「くそっ」
マルチェロは顔を歪めて悪態をつくと、栗色の髪を無造作に掻き上げた。
そしてルイーザの手からその兄宛の手紙を奪うと、姉の机を借りてその手紙の内容を別の紙に手早く書き写し始めた。
書きながらマルチェロは言った。
「姉上……私は行きます」
ルイーザは手紙を取られて怒ることはなく、それどころかにんまりとした笑みを浮かべて「そう」と言った。
「屋敷に居たことはお父様にはごまかしておくわ。もちろんその手紙のこともね。使用人のことも任せてちょうだい」
ルイーザの言葉に、マルチェロは一瞬手を止めたが顔をあげることはなくただ目を細めた。
「ありがとうございます、恩に切ります」
「いいのよ、でも今度は自分の財布を持っていきなさい。あんたのことだから無茶はしないと思うけど、ヘマはしないようにね。まあ……またピオンボに入れられたら差し入れくらいは持っていってあげる」
「……なっ!」
マルチェロは思わず姉の方を振り返ってわめいた。
「あそこにはもう二度と入るつもりはありませんよ! 心配はご無用です! 今回は慎重に動きますから」
それからはふんと鼻息を鳴らしながら書き進めた。写し終えると、書いたメモは上着のポケットに入れる。そしてにやにやしている姉に手紙を返し、マルチェロは咳払いしながら「では、幸運を祈っていてください」と足早に姉の部屋を後にした。
マルチェロは支度をすませると、ポルテゴに下りてバウタ、帽子、タバッロ、そして仮面を身につける。もう頬の腫れはすっかり引いていたが、これは必要であった。
ポーチの扉を開けると、祭りで騒ぐ人々のがやがやとした外の声が強まる。
水門の玄関口にいたいつもの船頭がマルチェロを見て、「あれ、これからおでかけですかい」と言った。
マルチェロは頷き、ゴンドラに乗り込んだ。
「ギーシ邸へ頼む……無駄口は叩くな」
船頭は目をぱちくりさせたが、肩をすくめて「へいへい」と答えると、暗闇の運河に漕ぎ出した。
マルチェロはゴンドラに揺られながら先ほどの手紙のことに考えを巡らせた。
明日の朝、リアルト橋で何がわかるのだろうか。
手紙には確か楽器の名前が並んでいた。バイオリン、フルート……ここまではわかるが、Gの金髪娘、これが問題だ。おそらくアンナ=ソフィアをフランス大使へ引き渡すことに関する情報なのだが、一体なんのことかさっぱりだった。
Gの金髪娘……Gという人物の娘が橋にやってくるのか? 彼女が何か情報を持っていて、指示を出すのかもしれない。
「……んな、旦那」
マルチェロは、船頭に呼ばれてはっと顔を上げた。
「な、なんだ、まだ着いていないではないか」
マルチェロが辺りを見て眉を寄せたが、船頭は何やら神妙な顔をしながら「無駄口だったらすいやせん、けどね……」と小さな声で言った。
「つけられてますよ。さっきからずっと着いてくるゴンドラが見えます。気のせいじゃありませんぜ」
「なにっ」
櫂を進めながら船頭は「こっそり後ろを見てくだせえ」と言った。
マルチェロは言われるままに横を見るふりをして後ろに視線を向けた。
「赤の帽子にひだがついてる男が漕いでるゴンドラがありますでしょう、あれは俺の顔見知りのリカルドってやつです。試しに遠回りしてみましたが、やっぱり後ろにくっついてきてまさあ。旦那、密偵にでも追われてるんですかい」
マルチェロはそのゴンドラの乗客に目を凝らしたが、ランタンがあるとはいえ、今は夜だ。こうも暗くては運河に浮かぶゴンドラさえちゃんと見えない。しかし、バレッティはもう死んだはず。
「くそ……一体誰だ。どんな奴かわかるか?」
船頭は「そうですねえ」と言って目をすがめた。
「これと言って特徴はありませんね、旦那とおんなじ格好ですよ。バウタと仮面をつけてらっしゃる。タバッロも黒。まあ、旦那みたいに帽子に金の縁飾りはありませんがね……どうします?」
全く、近頃は皆が同じ格好をしている。マルチェロはギリと歯を噛み締めた。
「撒くことはできるか? できたら通常より倍の給料を出そう」
マルチェロがそう言うと、船頭はにんまりと笑みを浮かべた。
「お安い御用でさあ。このカルロにお任せを。しっかり捕まっててくだせえ」
それまでゴンドラはゆったりと運河を進んでいたが、右側に細い水路が現れると突然そちらに曲がった後はすごい速さで水路を進み始める。
バシャバシャと水が跳ね、マルチェロの腕にかかったが、それを拭いている余裕もないくらいゴンドラは揺れに揺れ、目の前が見えないくらいだった。暗さもあって、周りの景色が分からず、どこを通っているのか見当もつかない。ただ幾度も角を曲がり、細い水路を抜けていることはわかった。
一度ぐらっとゴンドラが傾き、水の中にひっくり返るのではないかと思う瞬間もあったが、ゴンドラの縁を掴んで離さずにいたので無事だった。マルチェロはただひたすらに落ちないようにゴンドラにしがみついていた。
しばらくすると、ゴンドラの動きが遅くなった。
「旦那、もう大丈夫ですぜ」
船頭の声で、マルチェロはうっすらと目を開ける。やっと安心して呼吸ができるようだ。
「へへ、ついてましたねえ、旦那。もう例のゴンドラはいません。リカルドの奴はスピードがなっちゃいねえんですよ。俺の方がずっと熟練ですからねえ」
船頭が得意げに言った。
マルチェロはいくらスピードが速くても生きた心地がしなかったぞと文句を言おうと思っていたが、今はもうとにかく無事であることに、ほっと胸を撫で下ろすだけだった。
ところがギーシ邸が近づいてくると、何やら妙な様子であった。
ギーシ邸の周りには、複数の役人の姿が見えたのである。カーニヴァルとは違う雰囲気で屋敷は騒がしいようだった。「そっちはどうだ」「こっちも確認しろ」と声が聞こえる。誰かを探しているのだ。もしかして……いや、もしかしなくともそれは自分だろう。マルチェロは背筋を凍らせた。
そのうち岸辺の近くにいる役人の一人が運河に浮かぶゴンドラをじろりと見下ろしてきた。
今ここで下りれば間違いなく尋問される。名を名乗れば、またピオンボに逆戻りになるに決まっている。
マルチェロは緊張のあまりぴくりとも身体を動かすことができなかった。仮面をつけているが、心臓が口から飛び出しそうだった。
しかし、目的地のただならぬ様子に、船頭は櫂を止めることなくそのまま視線も向けずに運河をまっすぐ進んでいった。
どうやら気を利かせてくれたようだ。役人の視線を感じながらもマルチェロは仮面の下で息を潜め、船頭の行動に心から感謝した。
ギーシ邸が見えなくなるところまで来ると、船頭は言った。
「……勝手なことをしましたかね」
マルチェロは息を吐きながら「いや……おかげで助かった」と言った。
「厄介ごとからは逃げるが一番でさあ……で、結局どこに行きます?」
マルチェロは少し考えてから言った。
「サン・ザッカリアの岸辺に頼む」
「サン・ザッカリアね、へーい」
ゴンドラはゆっくりと進路を取った。
先ほどのギーシ邸での様子からだと、クリスティーナやエドアルドは屋敷にはもういないだろう。ということは、例の女が居る修道院に行ったのかもしれない。とにかく、彼らに会って手紙のことを伝えなければ。
ゴンドラは目的地に着くとようやく止まった。
サン・ザッカリア修道院の通りに面する岸辺は、近くのサン・マルコと比べるとあまり人通りはなく、寂しいように感じられた。
マルチェロは立ち上がると、財布を取り出した。
「あれ旦那、支払いはいつもお屋敷でまとめてもらってるからツケで大丈夫ですぜ」
船頭がそう言ったのに、マルチェロは首を振って船頭の手を持った。
「今夜はお前のおかげで助かったのだ……今払わせてほしい。これで足りるだろうか」
そうして船頭の手にピカピカに光る金貨を数枚乗せると、船頭はその量に口笛を吹いた。
「ちょっとちょっと! 確かに長いこと乗せましたけど、こんな大金をもらうほどじゃねえですぜ。全部もらっちゃあバチが当たりまさあ」
「当たるものか」
マルチェロはそのまま渡した金額を握らせた。
「お前はそれほどの働きをしてくれた。それに……これは口止め料だ」
船頭はきょとんとした表情を浮かべたが、くくっと笑い声を上げた。
「口止め料。自分の主人のことを誰に喋れって言うんです? さっきのお役人ですかあ? へへ、大丈夫でさあ、誰にも何にも言いませんから」
その真摯な言葉に、マルチェロは仮面の内側で目を細めた。
「……そうか。それではその金はお前の機転に払おう。どうか受け取ってくれ」
そう言ってマルチェロはゴンドラを降りた。長く乗りすぎていたためか少しくらくらしたが、座り込むほどではない。そのまま岸からまっすぐに修道院へ向かった。
後ろから「どうかお気をつけてえ」と聞こえた声に、マルチェロは振り返らずに帽子に手をやった。
岸から歩いてまっすぐのところに、サン・ザッカリア修道院はあった。
修道院前の広場はやはり仮装した人々で賑わっているが、少し角を曲がれば暗い路地が多かった。大勢いる中で仮面をつけたエドアルドやクリスティーナを探すのは不可能だ。
広場から角を曲がり、二人がいないか見回してみる。
すると裏口の近くにバウタ姿の女が立っているのが目についた。
皆と同じ格好では誰が誰だかわからないのではと思っていたが、こんな暗がりできょろきょろと挙動不審に辺りを見回している女など、おそらく一人しかいない。なによりタバッロから見えているドレスの裾は、少し前に見た時と同じ空色だ。
マルチェロは彼女に近づこうとしたが、ちょうどこのときに、通りすがりの男たち三人が彼女に話しかけているのが見えた。
「よう、あんたさっきからここにいるけどいくらだい?」
「顔を見せてくんないと客は寄ってこねえぜ」
男たちは彼女が客引き中の娼婦だと思っているらしい。彼女は「あーごめんなさい、ちょっと今忙しいの」と答えた。
少し離れたところから聞いていたが、やはりクリスティーナの声だとマルチェロは確信した。
「忙しいだって? ずっとここに立ってるじゃねえか」
「そうなんだけど、これには深いわけがあって……とにかくだめなのよ、悪いけど娼館に行ってちょうだい」
「なんだと? 生意気言いやがって」
「ここでやらせてもらおうじゃねえか、それなら文句はねえだろう」
「何も金を払わねえって言ってるわけじゃねえんだ。へへ、すぐに終わらせてやるからよ。まずは顔を拝ませてもらおうか」
「いや、だからちょっと! い、今はやめてって言ってるじゃない!」
クリスティーナは後ずさったが、男たち三人はずいずいとクリスティーナを囲んでしまった。そして彼女の仮面に触れようとしたので、マルチェロは慌てて「待てっ!」と声を張り上げた。
「なんだ……」
男たちは振り返ってマルチェロをじろじろと見る。その不躾な視線に、マルチェロはふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
私を誰だと心得ているのだ、広場の見せ物ではないのだぞ。
マルチェロは腕を組み、仁王立ちした。できるだけ低い父に似た声を出す。
「彼女は私の連れだ。他を当たってもらおう」
尊大で堂々とした態度に、三人のうち二人はこちらが貴族だと悟ったのか、まずいと言うような表情になった。
しかし一人は邪魔をされたことに眉を寄せた。
「なに、他を当たれだと? 後から来たくせに何を言いやがる」
そう言って男はクリスティーナの腕をガッと掴んだ。その勢いにクリスティーナが驚いて「あっ」と声を上げるのが聞こえると、マルチェロの頭にかっと血がのぼった。
青年はずんずんと男の目の前に大股で歩み寄ると、彼の太い腕を掴んで、仮面の穴からギロリと睨んだ。
「その手を離さなければ、お前は明日の朝死体となってカナル・グランデに浮かぶことになるぞ、それも自分の耳を口に咥えた状態でだ。私にはそれくらい容易い。どうする、それでもその女にこだわるのか」
自分でも驚くほどの低い恐ろしい声が出た。しかも本気で言った言葉なので迫力があった。
間近でそれを聞いた男の方はすっかり怖気付いてしまったようで、「ひ、ひい……!」とだけ言うと、腰を抜かして座り込んでしまった。
その後は仲間の二人が「す、すいやせんでした!」と言って歩けなくなった男をずるずると引きずって、角を曲がってどこかへ行ってしまった。
やれやれ、やっと諦めたか。マルチェロはクリスティーナの方に向き直ると、彼女は仮面越しにこちらを見つめたまま立ち尽くしていた。
「マ、マルチェロ、あんたなの? あんたが助けてくれたの?」
「ふん、別に助けたわけではない…………邪魔だっただけだ」
マルチェロは嫌そうに首を振ったが、クリスティーナは「ふふっ」と笑い声を上げた。
「そうなのね。でもありがとう。それに戻ってきてくれたのね!」
クリスティーナの嬉しそうな声に、マルチェロはごほんごほんと大きく咳払いをした。
「お前に礼を言われるようなことはしていない」
「してくれたわよ! それにしても自分の耳を口に咥えるですって? 脅し文句とは言え、よくそんなことを思いついたわね」
マルチェロは鼻を鳴らした。
「前に読んだ小説に出てきた表現だーーところでエドはどこだ」
マルチェロの問いに、クリスティーナははっとしたように答えた。
「修道院の表玄関の前で見張っているわ。今のところはアンナ=ソフィアも密偵らしき人物も役人も来ていないみたい。何かわかったの?」
マルチェロは頷いた。
「彼女がこの修道院を出るのは少なくとも今夜中ではない、確かな情報だ。とにかくエドと合流する、話はそれからだ」
サン・ザッカリア修道院前の広場では、先ほど見た通り大勢の人々が楽しげに騒いでいた。この中にエドがいるのか?
クリスティーナについていくと、玄関近くの柱に立っているバウタ姿の男がエドアルドらしかった。
彼はクリスティーナの存在に気づくと「あれ、クリスティーナ?」と声を上げた。
「どうした、何かあったのか……あれっマルチェロ!? お前マルチェロじゃないかっ!」
エドアルドは、仮面をしたままの姿でもすぐに友人だと見抜き、がばっと抱きついた。
「お、おい、やめろ! な、なぜ私だとわかるのだ」
「わかるさ! お前はマルチェロの雰囲気がだだ漏れなんだよ。その背筋のぴんと伸びた背格好も、やたら豪華な帽子の縁取りも、マルチェロしかいないんだ……ああ戻ってきてくれたんだな、愛しい友よ」
ぎゅうぎゅう抱きしめられているのに、息が詰まりそうなり、マルチェロは「やめろと言っている!」と、無理矢理彼を引き剥がした。
「人前で抱きつくな、威厳が損なわれるだろう!」
マルチェロは厳しい口調で言ったが、エドアルドは「そうかそうか、わかった」と嬉しそうに頷いた。
仮面をつけてはいるが、どうせその下ではにやにやと笑みを浮かべているのだろう。それも仕方ない、自分はもう関わらないと言ったのに、結局ここまでやってきたのだ。マルチェロは照れくささを隠すように怒ったような口調で言った。
「いいか、大事な話をするぞ。あの女がここの修道院を出るのはおそらく明日以降だ。今夜ではない。だから今ここで見張る必要はない。それからエド」
マルチェロは真剣な声で仮面の奥の友人の目を見た。
「今お前の屋敷は中も外も役人だらけだ」
「なんだって?」
「役人が?」
エドアルドとクリスティーナは驚きの声を上げた。
「だ、だってさっき出てきたばかりなのに……」
「おそらく寸分の違いだったのだろう。おそらくは今夜は戻らない方がいい」
マルチェロは辺りを見回しながら言った。
「二人に見せたいものがある。どこか静かで落ち着いて話せるところはないものか」
マルチェロはギーシ邸の客間であの手紙を解読するつもりだった。だがもうあそこへは入れない。サン・マルコやここの広場では、手紙を読むのには人が多すぎる。しかももう夜更けだ。
「いいところがあるわ」
クリスティーナが言った。
「静かで、この時間でもきっと開けてくれるところ。こっちよ、ついてきて」
まさかまた娼館ではなかろうか。マルチェロはそう思ってエドアルドを見たが、友人はその視線に気づくこともなく、何も言わずに彼女についていった。
マルチェロは不服そうに立ち止まっていたが、二人は待つ様子もなくどんどん行ってしまうので慌てて後を追った。
クリスティーナが向かった先はマルチェロにとって意外な場所ーー教会だった。
聖アントニウス教会は、騒がしい大きな広場からは遠く離れ、静かな路地と橋の通りに面している。
だが、クリスマスもとっくに終わっているのに、こんな時間に教会が開いているのだろうかとマルチェロは思った。
案の定、教会の正面の扉は閉まっており、鍵もかけられていた。マルチェロは思い切り押してみたが扉はびくともしない。しかしクリスティーナは「そっちじゃないわ」と言って正面を通り過ぎると、建物の側面にある小さな扉に向かった。
こちらには正面にある豪華なファサードのようなものはなく、扉も古ぼけたもののように見えた。
「私、日曜の朝のミサにはあんまり出席できないから、夜に時間を見つけてここへ来るの。司祭様がいつでもとおっしゃってくださっているのよ」
クリスティーナは説明しながら、帽子と仮面、バウタを脱ぐと、扉を叩いた。
すぐに扉が開いて、中から老齢の司祭が顔を出し、「おやクリスティーナ、こんばんは」と言った。
「こんばんは、司祭様。毎度夜分にごめんなさい」
「もちろん、かまいませんよ……おやおや? あなたがたもお祈りに来たのですか」
司祭がクリスティーナの後ろにいた仮面姿のマルチェロとエドアルドに気付いた。二人の若者は慌てて帽子と仮面、バウタを外す。さすがにこの格好で祈りに来たとは言いがたい。
だがクリスティーナは真面目な声で「いいえ、今夜はそうではないのです、司祭様」と言った。
「私たちは今、一人の女性を救おうとしているところなのです。どうかこの教会で少し休ませていただけませんでしょうか」
クリスティーナの懇願に、司祭は目をぱちくりさせたが、すぐに頷いてくれた。
「お困りのようですね。もちろんです。主は誰も拒みませんよ、どうぞ」
聖アントニウス教会の礼拝堂には、ダンドロ邸や劇場と違ってシャンデリアはなかったが、司祭が灯した蝋燭のおかげでぼんやりと明るかった。
三人は入ってすぐ脇にある聖水盤に指を浸すと十字を切った。そして内陣の手前にある蝋燭の近くの方へ行こうとしたが、司祭は火のついた燭台を持ってきてくれた。
「これしかないので少々暗いかもしれませんが、お使いください。立ったままより会衆席でお休みいただいた方が良いでしょう。早朝の祈祷の鐘が鳴るまでご自由にどうぞ。何かありましたら聖具室に」
あまりきちんと睡眠をとっていない三人の顔を見て、司祭はそう言ってくれた。
「ありがとうございます、司祭様」
「ありがとうございます」
クリスティーナが礼を言うと、エドアルドも続いて言い、マルチェロも頭を下げる。
司祭はそれに小さく頷くと、礼拝堂を後にして聖具室に入っていった。
「バレッティ……? 知らない名前だな」
司祭がいなくなって開口一番にマルチェロが「バレッティという男を知っているか」と尋ねたのに、エドアルドが眉を寄せた。
「姉上の話では、土曜日に屋敷で父上か兄上、あるいは私を訪ねてきた男がそう名乗ったらしいーー彼は赤っぽい色と黒のタバッロを着ていたと姉上が言っていた」
マルチェロの言葉に、クリスティーナが目を見張った。
「えっ! それってもしかして、今朝殺された……」
マルチェロは「わからん」と苦い顔を浮かべた。
「姉上の話ではフェルツェ付きのゴンドラに乗る優雅な振る舞いの男だったらしい。とにかく身につけたタバッロは同じものだったということだ……まあそれよりも」
マルチェロは上着から例のメモ書きを取り出すと、椅子に腰掛けた二人の目の前に立ち、それを広げて見せた。
「見せたかったのはこれだ……先頃、我がフォスカリーニ邸に届いた、十人委員会から兄上宛の手紙の写しだ」
「えっ」
「あんたのお兄さん宛ですって!?」
マルチェロは頷いた。
「そうだ……その、姉上が自分のものと“間違えて”開けてしまったのを写させてもらったのだ」
「まあまあ」
「お前の姉さんってほんと……」
二人が茶々を入れようとしたのに、マルチェロは眉を寄せて「とにかく見てくれ、あまり時間がない」と言った。
エドアルドは差し出された紙を手に取り、そしてクリスティーナはそれを覗き込むようにして読み始めた。
“G・フォスカリーニ殿。
同じ内容のものを事務所にも送ったが、重要事項のため念を入れて屋敷の方へも送る。
引き渡し日の変更はなし。
某国の大使はまだ大陸にいる。
彼との接触については、月曜の日の出の時刻にリアルトのたもとで合図の音を示す。
聞こえるいずれかで判断せよ。
ヴァイオリン:O. P.
フルート:M. S. ᗄ.
Gの金髪娘:T. S. B.
引き渡しの際は目印に帽子に大ぶりの真珠を付けさせる。
くれぐれも問題を起こさぬように”
「これは……!」
読んでいくうちに、エドアルドが戸惑うような声を漏らした。
マルチェロが言った。
「何とは書いていないが、“引き渡し”は、おそらくアンナ=ソフィアのことだろう」
「それもフランス大使に引き渡すっていうんだな……くそ、政府は確実にソフィアを本国に送り返すつもりだ」
エドアルドが紙を持つ手に力が入ったのをみて、マルチェロは同情して友人の肩に手を置いた。
横から読んでいたクリスティーナが言った。
「でもこれじゃあ、いつ、どこで引き渡しが行われるかはわからないわね。暗号というか、頭文字が並んでいても、人なのか、物なのか、場所なのか……さっぱり」
「そうなのだ」
マルチェロは苦い顔で頷いた。
「“彼との接触については、月曜の日の出の時刻にリアルトのたもとで合図の音を示す”とあるだろう。月曜日ーーつまりあと数時間後の日の出の時刻に、リアルト橋のたもとで何か合図があるのだ」
「そうらしいな。だが……」
エドアルドは眉を寄せた。
「フルートとヴァイオリンの音はわかるが、この“Gの金髪娘”ってなんだ? 金髪の女が橋に来るのかな」
「私もそう考えた。だが、なぜわざわざそんな女にそんな大役を任せる? それにGとはどこの家なのか、見当もつかん」
マルチェロが困ったようにそう呟いた横で、クリスティーナはきょとんとした表情を浮かべ、「え? 何を言ってるの、二人も」と言った。
「金髪の女が来るですって? そんなわけないじゃない、これは歌よ」
「え」
「歌?」
青年二人はぽかんとした表情になった。クリスティーナは「ええ、そう」と自信ありげに頷いた。
「"ゴンドラの金髪娘"って歌。ゴンドラの漕ぎ手たちがよく歌ってるわよ。Gはきっとゴンドラの頭文字だわ」
歌か!
マルチェロは納得したように頷いた。フルートか、ヴァイオリン、あるいは船頭の歌がリアルト橋から聞こえてくるというわけだ。
「そうか、絶対にそうだ! 楽器が続いているんだから、歌と言われてもおかしくない……いいぞクリスティーナ!」
エドアルドの言葉に、クリスティーナは得意そうに「ふふふ」と笑ったが、すぐに眉を下げた。
「でも、その隣のアルファベットは意味不明だわ。O. P. にM. S. ᗄ.、それからT. S. B.? 一体何の略かしら」
やはりこれはよく考えるしかないらしい。マルチェロは二人の前の席に座ると、ふうむと考え込んだ。クリスティーナとエドアルドも同様に思考を巡らせる。
「名前はどう? 貴族の名前。もしかしたら、当局に協力的な貴族の一族なのかも。心当たりはない?」
クリスティーナがそう言うと、エドアルドは頭をかいた。
「わからないなあ、俺はあんまり詳しくないんだ。どうだ、マルチェロ」
「いや……私も考えたが、これだという三人はいない。O. P. とT. S. B. なら山ほどいるが、むしろ多すぎてわからない。それにM. S. ᗄ. は明らかに名前ではない。このAが逆になった文字が何を意味するのかわかれば、鍵になるとは思うが……」
マルチェロの言葉に、エドアルドは「だよなあ」と呟いて再びその文面を睨み始めた。
「とにかく考えてみなきゃ。Aが逆という意味……Aの逆、Aを逆さにして……」
クリスティーナは考えながらぶつぶつと呟き始めた。
「Aの逆さま、Aがひっくり返る、Aのあべこべ、Aの反対」
「おい、うるさいな」
マルチェロがいらいらと文句を言ったが、クリスティーナはかまわず「Aの真逆、Aの対向、Aの対極」と続けた。
クリスティーナの呟きが小さく響くまま、時は刻一刻と過ぎていった。
どれだけ時間が経っただろうか。
マルチェロはふと礼拝堂に並ぶステンドグラスを見た。
まだ外は暗い。上着から鎖時計を取り出して時刻を確認する。もうすぐ2時だ。日の出の時間よりも前にはここを出なければならない。
マルチェロはちらりと後ろの二人を見た。エドアルドは腕を組んで考えていたようだが、がっくりと首が垂れている。おそらく船を漕いでいるのだろう。仕方ない、昨夜もちゃんと寝ていないのだ。
しかしその隣でクリスティーナはひたすらに「Aの◯◯」と言葉を呟きながら考えているようだった。
なかなかに根気のある女じゃないか。マルチェロは正面に首を戻して知らずのうちに小さく笑みを浮かべたーーそのときだ。
クリスティーナが「Aの反対、Aの逆転、Aの相対、あら……」と言ってから急に口を閉ざした。そして唐突に言った。
「ねえ、Aの逆さまって、もしかしてZを意味してるんじゃないかしら!」
マルチェロは後ろを振り返った。
「Zだと?」
礼拝堂に響いた二人の声に、エドアルドはびくりとして目を覚ますと「な、なんだ」と顔を上げた。
クリスティーナは頷いた。
「ええ、Zよ。Aの次だったらBだと思うけど、Aの反対といえばアルファベットのZだわ……その、ただの勘だけど」
「いいや、きっとそうに違いない」
マルチェロはこくこくと頷いた。
「わかりづらくするためにそうしたのだろう、つまり手紙に書いてあるのはM. S. Z.だ」
「M. S. Z.……?」
エドアルドは起きたばかりの頭でそう呟き、持っていた例の紙を再び見つめた。
そして「わ、わかったぞ!」と大きな声を上げた。クリスティーナは目をぱちくりさせたが、マルチェロは目を細めた。
「わかった? 寝ていたくせに何をわかったと言うのだ」
「寝ていたからこそ、今ピンと来たんだ。このアルファベットの頭文字は、おそらく場所を指している」
友人の言葉に、マルチェロは眉を寄せて彼の手から紙をひったくると目を通した。
O. P. 、M. S. Z.、そしてT. S. B.。これが場所を意味しているだと?
「場所って言われてもわからないわ、M. S. Z. ってなあに?」
クリスティーナの問いにエドアルドはふっと笑みを浮かべた。
「さっき俺たちがいた場所だよ、モナステロ・サン・ザッカリア、サン・ザッカリア修道院のことだ」
クリスティーナとマルチェロの目が同時に丸くなった。
「あらほんと」
「……で、では、O. P. とはなんだ。私には目星がつかんぞ」
「地図を思い浮かべてみろ。Oはオスペダーレ、慈善院のことだ。Pが名前の頭文字に来る慈善院はピエタしかない。つまり、O. P. はピエタ慈善院のことだ」
マルチェロは目をぱちくりさせながら、こういうときの友人の頭は計り知れないと思った。きっと今なら彼に解けない謎はない。空を飛ぶ方法すら考えつくだろう。
全く、起き抜けのくせに。
一生懸命考えていた自分は思いつきもしなかったので、マルチェロは少し卑屈な気持ちになった。
「すごい、すごいわ、エドアルド! それじゃ最後のT. S. B. は……」
「テアトロ・サン・ベネデット。サン・ベネデット劇場のことだな、エド」
マルチェロがそう答えたのに、エドアルドは「そういうこと」と頷いた。
「つまりまとめるとこうだ、ヴァイオリンの音が聞こえたらピエタ慈善院、フルートが聞こえたらサン・ザッカリア修道院、船頭の歌だったらサン・ベネデット劇場。いずれかの場所で、ソフィアが大使に引き渡される……それがいつなのかはわからないけどな」
手紙の謎が解けたことに、マルチェロはほうっと息を吐いた。
「あとはリアルト橋に行くだけね……マルチェロ、今は何時?」
クリスティーナに訊かれて上着から時計を出して確認する。
「2時過ぎだ。日の出まであと4時間と少しというところだろう……ここで仮眠を取っていくか」
マルチェロがそう言うとクリスティーナは頷いたが、エドアルドは「ここで?」ときょとんとした顔をした。
「リアルトのたもとでいいだろ、万が一寝過ごしたら間に合わないぞ」
「ばかを言え、この時期にリアルト橋のたもとで居眠りなどしてみろ、凍死するではないか!」
マルチェロがわめくと、クリスティーナは「えーと、凍死まではしないと思うけど」と口を挟んだ。
「寝るならやっぱり建物の中がいいわ。外だと気が抜けないもの……ねえ、交代で寝るのはどう? 一人だけ見張りも兼ねて起きているの。それなら安心でしょう」
クリスティーナの提案にマルチェロは「そうだ、それがいい」と同意し、エドアルドも「わかったよ」と肩をすくめた。
マルチェロは最初の見張りになった。
三人のおしゃべりがなくなると、後ろでクリスティーナとエドアルドがすうすうと寝息をたてているだけで、礼拝堂はすっかり静かになった。
暗闇の中、内陣の方は十字架のところにだけ蝋燭が灯されており、まるで十字架がぼんやりと浮かび上がっているかのように見えて、マルチェロは不覚にも背筋がぞくりとした。
いや、今は冬なのだぞ、寒くて当たり前だ。マルチェロは首を振ると腕と脚を組んだ。
ほんとうであれば、今頃屋敷のふかふかなベッドで寝入っていたはずだったが、一体なぜ自分がこんなところで寝ずの番をしているのかなどとはもはや考えまい。
マルチェロは自分が写した紙をもう一度広げた。
これを姉の部屋で書き写していたときは、意味が全くわからなかった。内容が明らかになったのは、後ろで寝ている二人がいればこそだということは、マルチェロもよくわかっていた。
最もこれが解読できたところでこれからどうなるのかという部分は穴だらけで、またどうすべきなのかもわからなかった。バレッティという男も謎のままだ。
ただ、屋敷を出てしまったからにはマルチェロはもう後戻りするつもりはなかった。“アンナ=ソフィアを救い出したい”という友人の思いに、自分は加担すると決めた。
それならば、必ずその通りにしようじゃないか。
たとえこれが共和国政府の意志に反するものであっても、罪なき人間が死の危険に晒されているというのなら、見過ごすことはできない。ダンドロ様や父上も同じ考えだからこそ、彼女を探しているのだろう。
私もヴェネツィア貴族として自分に恥じない道を選ぶのだ。
礼拝堂の暗闇と静寂に包まれたマルチェロの顔は、固い決意に満ち溢れていた。
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