【小説】『マルチェロ・フォスカリーニのカーニヴァルの最悪な一週間』 7. 月曜日
空が白み始め、明けの明星が輝く頃、マルチェロとエドアルド、そしてクリスティーナは、仮面とバウタ、帽子タバッロを着付けた姿でリアルト橋のたもとにやってきた。
昨夜は騒がしかったのだろう、橋にはあちこちに酒瓶や、リボンやら紙ふぶきの切れ端が落ちているが、この夜明け直前の時刻は、しんと静まり返っていた。もうすぐ祈祷の鐘が鳴るだろう。
マルチェロは寒さに身を縮め、タバッロをかき寄せた。教会の中と比べて、やはり水辺は凍りつくようだ。
「ううー寒いわね」
クリスティーナが仮面の下で鼻をすすって呟いた。
「仮面をつけてると鼻水も拭えないわ。祭りのときは不便ね」
「拭けば良いだろう、ハンカチも持っていないのか」
マルチェロが嫌そうな声で言うと、クリスティーナはずるずると鼻を鳴らしながら答えた。
「持ってるわけないでしょ、あんたみたいに家に帰って着替えたり準備したりなんかしてないのよ」
それもそうだ。昨日の早朝、ランパーネ邸の娼館を慌ただしく出発してから彼女はずっと帰っていない。
マルチェロは「ふん」と鼻を鳴らしたが、懐からレースの見事なハンカチを取り出した。
「これで拭け。汚いからそのままにするな」
クリスティーナは少し驚いたようにそのハンカチを見つめていたが、「あ、ありがと」と言ってそれを受け取った。
一方エドアルドは、そんな二人の会話など全く耳に入っていないようで、一人でリアルト橋の真ん中の階段を上がっていこうとした。
「待て、エド」
マルチェロは彼の腕を掴むと、警戒するようにきょろきょろと辺りを見回して言った。
「そっちはだめだ。私たち以外にも合図を聞きにくる者がいるはずだ。橋の真ん中では目立ってしょうがないから、たもとにある店の裏側に回るぞ」
「えっ」
エドアルドが不平そうな声を上げた。
「だって、橋から離れたらどんな合図かわからなくなるじゃないか」
「ばかだな、合図は音なのだぞ。少し離れていても聞こえるに決まっている。それよりも私たちがここにいることを連中に知られてしまうことだけはどうしても避けなければならない」
マルチェロが用心深く声を潜めながらも語気を強めて言うと、不安そうな友人の腕を掴んで暗い影になっている店の方へと引っ張っていった。
その後に従うクリスティーナもエドアルドに「心配ないわ、エドアルド」と声をかけた。
「こんなに静かなんだもの、楽器の音も船頭の歌も絶対に聞こえるわよ。今日は魚の市もお休みだから大丈夫」
物陰に入ると、マルチェロは横の隙間から見えるカナル・グランデに目をやった。
確かにクリスティーナの言う通り、今日は漁船は見えない。月曜日の朝は大体皆、寝静まっているのだ。そのうちにカランカランと教会の鐘が鳴り始めた。そろそろ夜明けである。
祈祷の鐘は静まり返った街に反響し、運河を震わせているようだった。この鐘を合図に、教会では早朝の祈りが始まる。先ほど世話になっていた聖アントニウス教会でも司祭が祈祷を始めている頃だろう。
鐘が鳴り終わる頃、どこからともなく鐘の音ではない音楽が聞こえてきた。
しかし遠い。どこかの狭い水路に反響していて楽器なのか歌なのか区別がつかないようだ。おそらくリアルトの真ん中でも同じだろう。
音楽はそのうちにだんだんとカナル・グランデに近づいてくると、はっきりと次のように聞こえた。
「“金髪の娘をゴンドラに
この前の夜連れていったのさ
気の毒に彼女は喜んでしまって
そこですぐに眠りこんでしまった”」
マルチェロたち三人は仮面の顔を見合わせた。近づいてくるのは紛れもない、ゴンドラの漕ぎ手、船頭の歌声だ。
歌詞は耳を澄ませると、同じフレーズを何回も繰り返していることがわかる。
歌は細い水路を抜けてカナル・グランデに出ると、リアルト橋をくぐってまっすぐ進んでくるようだ。
マルチェロが物陰の隙間から覗くと、若い船頭がフェルツェ付きのゴンドラを漕ぎながら美しいテノールで歌っていた。朝日のおかげで辺りが明るくなっているので運河がよく見える。
仮面の穴からゴンドラに目を凝らすと、やはりフェルツェの中には誰もいないかった。歌は乗客のためではないということだ。間違いなく当局の合図と踏んでいいだろう。
ゴンドラが遠ざかっていくと、黙りこくっていたエドアルドが口を開いた。
「場所はサン・ベネデット劇場だな。これから張り込みだ。何か腹ごしらえをしてから劇場に向かうことにして……」
「まてまて、エド」
マルチェロが友人の言葉を制止する。
「行動するにはまだ早い。こんな朝からサン・ベネデットは開いていない。この国の役人も、大使もまだ開いてもいない劇場をわざわざこじ開けるとは考えられん。引き渡しはおそらく夜、劇場内が客で溢れ返っているときだろう」
友人の言葉にエドアルドは気がついたように「あ……それもそうか」と言い、クリスティーナも頷いた。
「そうね、まず今夜か明日に公演があるのかどうか確かめなきゃならないわ。きっと入れる時間も決まってるはずよ。チケットが必要かも」
「チケット代ならいくらでも出すぞ。クリスティーナ、君の分もな」
エドアルドが力強くそう言ったのに、クリスティーナは笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。
マルチェロは用心深く辺りを見回してから上着から例の紙を取り出した。
「“引き渡しの際は目印に帽子に大ぶりの真珠を付けさせる”と書いてある。おそらくアンナ=ソフィアの唯一の手がかりだが……大勢の中から探し出すなど無謀な話だぞ」
「それにもし彼女を見つけたとしても、どうやって助け出すかも問題だわ。それにその後も」
クリスティーナの言葉に、エドアルドが答えた。
「まあ、まずは安全で役人に気づかれないところに連れていきたいな。さっきの聖アントニウス教会みたいなところがあったらいいんだけど、少し離れてるから別のところを探さないと」
友人がそう言うのを聞いて、マルチェロは「何を言っている」と戸惑ったような声を出した。
「ダンドロ様の屋敷に決まっているだろう。あのお方がずっと保護しておられたのだ。きっとどうにかしてくださる。ダンドロ様に隠し事をするのは得策とは言えない」
「それは……どうかしら」
クリスティーナが迷うように言った。
「私、どうもダンドロのご主人は信用できないわ。アンナ=ソフィアのために動いてくれているとは思えない。大体あの人はほんとうに彼女の無事を願っているの?」
「なんだと? 無礼だぞ、お前は屋敷で覗き見したのだろう。彼女が酷い目に合っていたのを見たと言うのか」
クリスティーナは「そうじゃないんだけどさあ」と呟いた。
その横からエドアルドが「しかし」と口を挟んだ。
「ダンドロ様は用心深いお方だ。たとえ味方だとしても役人の手前では手を貸してくれないかもしれない。あの人にもこの国の財務官という体面があるんだ……なあマルチェロ」
エドアルドは友人の方に向き直ると、ふいに仮面を取って素顔を見せた。真剣な表情を浮かべている。改まった様子に、マルチェロはなんとなく彼が言おうとしていることに察しがついた。
「最悪の場合、俺は彼女を連れてゴンドラで大陸に逃げることも考えてる」
「……エド」
「そうなった場合、後のこと、父上のことを頼みたい。厚かましいことを言ってることはわかってる。けど、お前しか頼めないんだ」
エドアルドは懇願するような目をしていた。ほんとうにこの男は故郷を捨てる覚悟なのだ。本来のマルチェロならば、ヴェネツィア貴族としてそんなことでいいのかとか、お前はギーシ家の嫡男だろうと説教するところだったが、マルチェロはそうはせずに友人の肩をぽんぽんと叩いた。
「そんなことはとうにわかっている。だがそれは最悪の手段だろう。他にもっとましなやり方を考えろ」
「そうよ」
クリスティーナも仮面を外すと、笑顔を浮かべて言った。
「最悪の手段を考えているのなら、最高の手段も考えておかなきゃ。ね、エドアルドはどうしたいの、彼女と結婚したいの?」
クリスティーナの予想外の言葉に、エドアルドが目を白黒させて「なっ!? けっ、けけけ、け、け」と言葉に詰まっていると、マルチェロが「これだから庶民は困る」と鼻を鳴らした。
「我々貴族が結婚などそう容易くできるものではない。相手は貴族かもしれないとはいえフランス人だろう。あまり軽々しく言うな」
「なによ、じゃあマルチェロはどうするべきだって言うの」
クリスティーナが不満そうに言うと、マルチェロは肩をすくめた。
「さあな。愛人、良くて内縁の妻辺りが妥当だろう。ギーシ家専属の歌手、あるいは使用人として向かえても悪くない」
クリスティーナはじとっとした目で仮面の顔を見つめながら「“妥当”ね。はあ、マルチェロってほんと……」と呆れたように呟く。
「私がなんだ」
「なんでも。ただ、あんたはちっとも成長しないんだなあって思ったのよ」
「なんだと、無礼な! 私は貴族としてまともな意見を……」
「はいはい、そうね、生粋のヴェネツィア貴族ですものねえ。それでエドアルド、あなたはどうしたいの?」
クリスティーナはマルチェロを軽くあしらってからエドアルドに再び同じ質問をすると、彼は下を向いて「俺は」と答えた。
「俺は彼女を助けたい。その後のことは彼女が決めることだ……ただ、できれば歌わせてあげたいな、歌がとても好きだと言ってたから」
その言葉に、クリスティーナはほうっと感動したように胸に手を当てると、眉尻を下げて「そうよねそうよね、エドアルド!」と頷いた。そしてマルチェロの方を向いて哀れむように言った。
「わかった、マルチェロ? これが妥当な答えなのよ」
マルチェロは仮面の下で表情を歪めると「ふん」と鼻を鳴らした。
なんだ、結局曖昧な答えしか出ていないではないか。候補を述べただけで、なぜ私が娼婦ごときにばかにされなければならないのだ。
腹立たしげにそっぽを向くと、リアルト橋を渡る人々が目に入った。
月曜日とはいえ、日がのぼると人々の往来も増えてきたようだ。ふと女性の鮮やかな紫色のスカートが見えた。
そういえば姉ルイーザも似たような色のドレスを今夜着ると言っていたなと思い返したとき、突然「あっ」と声をあげた。
昨夜ルイーザは何と言っていたか……。
“明日の夜にサン・ベネデット劇場で舞踏会があるのよ”
「舞踏会だ!」
マルチェロは二人の方を振り向いて言った。
「今夜、サン・ベネデット劇場では舞踏会が行われる。貴族は皆招待されている……当局の連中はそこでフランス大使と接触するつもりなのだ」
「なるほど、舞踏会ね! そこならたくさんの人間と踊るから大使がいても不思議じゃないわ。それに仮面をつけるのが義務なはず」
「そ、それじゃ、ソフィアはそこに連れていかれるというのか……で、でもでも、大使と踊ったら最後、連れていかれてしまうじゃないか!」
慌て始めたエドアルドに、マルチェロは「落ち着け」と腕を掴んだ。
「劇場が開くのはおそらく夕刻だ。公演中のボックス席でなく平土間でのダンスの場なら、踊る人数も限られる。真珠のついた帽子の女などすぐに見つかるだろう」
クリスティーナも頷いた。
「それに早めに来場して、入口で見張っていてもいいかもね。彼女にどれくらいの役人がくっついているのかも確かめることができたら楽だもの。でもマルチェロ、貴族が招待されてるってさっき言ってたけど、アンナ=ソフィアも入れるの?」
「貴族としての招待状か印があれば入れるはずだ、我々の着ているこの服装で門番はすんなり通してくれるはずだ」
マルチェロはそう答えてから、友人の腕を掴んだまま彼に言った。
「私は、何事も必ず計画を立てて実行すると決めている。今回もそのつもりだ……完璧な作戦を考えるぞ、エド」
***************
晩課の鐘が鳴っているのを、ソフィアはぼんやりと聞いていた。
四日間閉じ込められていた修道院から出ることができたのは、もう日が沈む頃だった。
役人たちに命じられるまま、ソフィアは修道女たちに手伝ってもらいながら用意された白い絹のドレスを着て、仮面やバウタ、タバッロ、帽子を身につけた。
久しぶりに夕焼けの空を見ることができて、ソフィアはその美しさに仮面の下で目を細めた。
「こちらです」
丁寧ではあるが、有無を言わさない口調で役人らしき男たちは彼女を連れて街を歩いた。
祭りの騒ぎでサン・マルコ広場は随分と賑やかだった。なんて楽しそうなのかしら。彼女は羨ましげに仮装した人々を眺めていたが、役人たちは立ち止まることを許しはしなかった。
役人たちが逐一説明してくれたわけではないが、ソフィアは自分がこれからどうなるのかよくわかっていた。
いずれやってくる未来だった。優しい兄が共に逃げようと言ってくれたからこそこの国に来たが、もう限界なのだ。
たどり着いたのはある劇場だった。入口に向かう前に、役人がソフィアに言った。
「良いですか、あなたはこれから何も言葉を発する必要はありません。我々と一緒にホールに入ります。中では舞踏会が行われていますから、ダンスに参加してください。いいですか、全ての曲をずっと踊り続けてください。そのうちフランス語を話す方があなたの手を取りますから、その方の指示に全て従うのです。良いですね」
いやだと言って逃げるわけにはいかない。前に考えなしに自分勝手な行動をしたために、一人の青年を牢に入れるようなことになってしまった。
ソフィアはそのことをひどく後悔していた。あんなことは絶対起きてはならないことだわ。
言われるままに劇場に入る。背の高い門番にじろりと見下ろされたときはどきりとしたが、咎められることはなかった。
劇場に入ると、役人たちに囲まれながら人の流れに沿ってホールに入った。
舞台には楽団たちがずらりと並んで演奏し、平土間には大勢の仮面姿の者たちがひしめき合っていた。天井からは細工の施された美しいシャンデリアがいくつも下がっている。
「まあ、では今年の春にご婚礼を?」
「見世物小屋のライオン、怖かったわよ」
「オペラの"ピットーニ夫人"を見たかい? すごい芝居ぶりだったぞ」
「オラツィオ様にご挨拶するのよ、絶対にね」
仮面をつけているとはいえ、皆が楽しいおしゃべりに花を咲かせ、笑い合っていた。
ソフィアはその光景に急に懐かしさを覚え、仮面の下で目を細めた。自分の社交デビューした頃をふっと思い出したのだ。
緊張していたが、美しく豪華なドレスに身を包んで宮殿に入ったときの感動は今でも忘れない。艶やかなドレスが行き交い、洗練された人たちの優雅なダンスに思わず見惚れたものだ。あれから数年しか経っていないというのに、ソフィアにはもうずっと昔のことのように思えた。
「アンナ=ソフィア様」
ふいに役人に声をかけられ、ソフィアははっとした。平土間の真ん中に空間が作られている。ダンスが始まるらしい。そうだ、自分も参加しなければならないのだった。
修道院を出たときからずっとついてきた役人の男が手を差し出す。最初に踊る相手は彼らしい。まずはポロネーズのダンスだ。
自国では国王から身分の順に踊っていたが、皆が仮面をつけて同じ服装をしたこの空間では、そういった決まりはなかった。
周りを見ると仮面を外している者もちらほらいるが、ほとんどが顔を覆ったままだった。皆がつける白い仮面はどことなく不気味さを感じさせたが、ソフィアにとって顔を明かさずにいるとヴェネツィア人に混ざったような気がして、いくらか気が楽だった。
ポロネーズが終わると、拍手がホールに響き渡る。その中でダンスをする者たちがわさわさと入れ替わり始めた。ソフィアは先ほど役人に言われたままホールにとどまる。
そのときだ。
人の流れに紛れてソフィアは誰かの手で後ろに強く引っ張られた。「あっ」と転びそうになったところを誰かの腕に強く支えられる。一瞬自分の目の前にすっと現れた女性の後ろ姿が見えたが、すぐ近くで「静かに」と言う男の低い声にはっとして自分を後ろから支える人物の方を振り向いた。
誰だろうと驚きながら目の前の仮面を見つめる。男は彼女の身体を支えながら、わざと人混みに紛れるように体勢を低くした。
「こちらへ」
男の声はくぐもっていたが、どこか焦ったような口調に聞こえた。有無を言わさず男はソフィアの腕を引いて平土間を出ていく。
ソフィアの耳には後ろからメヌエットが始まる音楽が聞こえた。
ソフィアが男に連れられて出た先は暗い廊下だった。別の男が、待ち構えていたようにこちらに駆け寄ってくる。彼も同じように仮面をつけていた。
「ど、どうだった!?」
青年の言葉に、ソフィアの腕を引く男は「もちろん、私が失敗するはずがなかろう」と自信ありげにそう言った。廊下にいた青年は「ああ、よかった!」と嬉しそうな声をあげる。
男は言った。
「ホールで父上たちを見た、報告してくるから先に向かってくれ」
「え、報告? ……大丈夫なのか?」
「大丈夫も何もなかろう、きっと保護してくださる」
最初の男はそう言ってソフィアの腕を後から来た男に預けると、再びホールの方へ姿を消してしまった。
一体何が起こっているのかしら。ソフィアはわけがわからなかったが、青年は「そそ、それじゃ、こっちに」と彼女の腕を取って歩き出した。
そのまま彼は、表玄関に続くロビーではなく奥の方へと進んでいく。この先は……ボックス席ではないだろうか。今夜はオペラの公演ではなく舞踏会なので、この辺りは無人のはずだ。
誰もいない方に連れていかれているとソフィアは身に起こる恐怖を感じ、「いやっ!」と突然立ち止まって抵抗しようとした。
「は、離してください! やめてっ」
彼の力には抗えないとわかっていたが、ソフィアは掴まれた手を振り払おうと懸命にもがく。しかし、ソフィアの予想から外れて、青年の方は慌てたように「ごごご、ごめんなさい、痛かったですか!?」と手を離した。
ソフィアは後ずさろうとして、思いがけなくこちらを気遣う言葉に、はたと動きを止めた。
「あの……どなたですか」
警戒しながらそう問うと、彼は「あっそうか、そうですよね」と言って辺りを見回してから仮面を取った。
「あ、あなたは……!」
会ったのは一日だけ。だが、自分の歌を天使のようだと褒めてくれた青年の顔はよく覚えていた。
「エドアルド様、でしたね」
ソフィアがそう言うと、彼は目を見開いて「えっ! お、お、おお覚えていてくれたんですか……」と感動していたが、ロビーの方から聞こえた客たちの笑い声に我に返ったようで、もう一度真面目な顔に戻った。
「強引に連れてきてしまって申し訳ありません。後でちゃんとお話しします、今は俺についてきてくださいませんか」
エドアルドは真剣な目をしていた。四日間閉じ込められていたソフィアにとって、誰かとまともに目を合ったのは久しぶりだった。思えば、役人の方たちはいつも目を伏せ、こちらを見ようともしなかったわ。
ソフィアが「はい」と頷くと、エドアルドはほっとしたように小さく微笑んだ。そして再び仮面を顔につけて劇場の奥に進んでいく。
ソフィアが思った通り、奥にはボックス席がずらりと並んでいたが、エドアルドはそこを通り過ぎて、最奥の物置部屋へと続く扉を開けた。
部屋には古めかしい舞台の大道具などがごちゃごちゃ置いてあったが、その先にまた扉が見える。
エドアルドはソフィアに手を貸しながらその中を歩き、扉を開けた。
その先は外のようだった。
「まあ、裏口……」
ソフィアがそう呟いたのに、エドアルドは「そうなんです」と言い、彼女の手を引いて劇場の外へ出た。
「ひとまずこの劇場からは離れます、どうぞこちらへ」
外は日も沈んですっかり暗くなっていた。祭りの騒ぎに人々の賑わう声があちこちから聞こえる。
ソフィアはそのままエドアルドと共に、暗く騒がしい街の中へ溶け込んでいった。
***************
マルチェロの立てた計画は完璧だった。
アンナ=ソフィアを見つけ出し、大勢いる中に紛れて似たような服装のクリスティーナと入れ替えさせる。ドレスの色はどうしようもないが、例の手紙にはアンナ=ソフィアの帽子に大ぶりの真珠をつけると書いていたのでクリスティーナの帽子にも彼女と同じく真珠の飾りをつけた。こちらの方がひとまわりほど小さかったが、ヴェネツィアではあれが一番大きな物なのだから仕方ない。
あとはクリスティーナがどこまで役人と大使を騙し続けることができるか、である。
マルチェロがホールに入ったとき、仮面をつけていない自分の父フォスカリーニとダンドロの主人が立っている姿が目に入った。
あの二人はいつも仮面を外している。貴族の印である仮面よりも、自分の顔で貴族であることを示しておられるのだ。なんと崇高なことか。
マルチェロがアンナ=ソフィアをエドアルドに託し、再びホールに入ってもなお二人は同じ場所に立っているようだった。
マルチェロはまっすぐそちらに駆け寄った。
「父上、ダンドロ様!」
優雅な音楽が流れている中、マルチェロは息を弾ませて、二人の目の前で頭を下げ、仮面を外した。
二人は突然現れた青年の姿に驚いたようだった。マルチェロは笑顔で言った。
「もうご安心ください、彼女は確保いたしました! 大使の目は逃れています、保護してくださる場所をご指示くだされば、そちらへ連れてゆきます!」
マルチェロの父は目を見張らせた。
「お、前……何を……」
ダンドロの主人は口を結んだままだったが、信じられないようなものを見る目で見下ろしている。
マルチェロは答えた。
「例のソプラノ歌手ですよ、ダンドロ様はずっとお探しだったでしょう。修道院に閉じ込められていたようですが、無事です。大使も当局もまだこのことには気づい、て……」
ぺらぺらと話していたが、マルチェロは急に言葉を途切らせた。自分を見る二人の目が異様だったからである。マルチェロとて、アンナ=ソフィアを確保したことでこの気難しい二人から褒め称えるような言葉を期待していたわけではない。
だがそれにしてもおかしな様子だ。父上は少し顔を青くしておられるし、ダンドロ様が眉間に皺を寄せず、ここまで驚いた表情をしているのは珍しい。まるで罪を犯した者を見るようでは……。
マルチェロは焦りを覚え、ダンドロの主人の方を見た。
「だって……ダンドロ様は彼女を保護していましたよね? 屋敷に匿って、オペラに出るのも、彼女にやりたい事もやらせてやって……」
ダンドロの主人は答えなかった。父であるフォスカリーニ伯爵が代わりに答えた。
「それは大使が来る前の話だ。ダンドロ様はこの国の意志に反しているわけではない。彼女はここにいるべきではないのだ……わかるか、マルチェロ」
マルチェロは息をのんだ。嘘だ。
「この国の意志というのは……彼女を本国へ送り返すということですか。帰れば殺されるということが分かっていても?」
「フォスカリーニの息子よ」
ダンドロの主人がようやく口を開いた。
「よく聞くのだ。これは後のことを考えてのことだ。ヴェネツィア貴族に属する者として、我が国の火種になるものは排除しなければならな……」
「いいえ!」
マルチェロは初めて目上の人間の言葉を遮った。そして自分よりも何十も歳上の、権力のある男をまっすぐに見据える。このときマルチェロは、自分でも驚くほど腹が立っていた。
「国を守る人間としては正解でも、人としての道は間違っています。ましてや同じ貴族、同胞として救うべき命です。もし我が国で同じことが起こったときのことを考えれば、誰だってそうするはずです」
「……マルチェロ」
フォスカリーニ伯爵が息子の名前を呼んだが、マルチェロは首を振った。
「父上、私は従えません。目先のこととお思いでしょうが、それでも……それでもあなた方は間違っている!」
マルチェロは「失礼」と挨拶することもなく、父親とダンドロの主人の前から足早に立ち去った。
***************
アンナ=ソフィアの前に進み出たクリスティーナは、おぼつかない足取りで懸命にダンスに興じていた。メヌエットなどかろうじて踊れるくらいなのに、広場で踊るようなふざけたものではない上品な音楽に合わせるなど初めてだった。
マルチェロが「できないのか?」ってばかにするから思わず引き受けちゃったけど、これじゃあすぐアンナ=ソフィアじゃないってばれてしまうじゃないの。
クリスティーナがどきどきしながら足を進めていると、突然ペアになった相手から何か耳元で囁かれた。
え……な、なに?
クリスティーナは仮面の下で眉をしかめて相手の男性を見た。
ダンスの動きに合わせて近くたびに男は何か言っているが、クリスティーナは何を言っているのか理解できず首を傾げていたが、突然はっと思い立った。
これはフランス語だわ。母国語でアンナ=ソフィアに何か話しかけているのだ。ということはこの男はフランス大使に違いない。
しかし、クリスティーナは一言も聞き取れなかった。返事を返すこともできないまま、ただぼそぼそと耳元で話される何かを聞いていた。仮面をつけているので、怒っているのか喜んでいるのか見当もつかない。
やがて演奏が終わった。
ダンスをしていた者たちが一斉に拍手をして、平土間の真ん中から下がる。
クリスティーナもそれに従おうとしたとき、例の男にがっと腕を掴まれた。すごい力だ。クリスティーナは思わず「痛いっ!」と声を上げた。
その声に、周りの者たちがこちらに注目する。それでも男はクリスティーナの腕を掴んだままぶつぶつと呟いてどこかへ連れていこうとする。
これはさすがに逃げないとまずいかもしれない。
「やめて、離して! 何するのよ!」
クリスティーナは大げさにわめいて暴れた。その様子にさすがに男も戸惑ったように手を離す。そして男は不躾にもクリスティーナの仮面を手に取って外した。
クリスティーナの顔があらわになる。それに男は驚いて後ずさった。
「お……お前は誰だ!?」
今度はちゃんとイタリア語だったので、クリスティーナも怒りの形相で答えた。
「あんたこそ誰よ! 全く、失礼な男ね!」
そう言って男の手から仮面をパシッと奪い取る。周りにいた貴族たちもその騒ぎにざわついた。
「なんだなんだ」
「ご令嬢の仮面をいきなり剥がしたらしいぞ」
「まあ、なんてこと!」
「礼儀を知らないのかしら」
非難するような周りの雰囲気に、その大使らしき男は言葉に詰まったようだ。明らかに分が悪いのは彼である。
しめしめと思ったクリスティーナは奪い取った仮面を顔に付け直す。そしてぷりぷり怒ったふりをして身を翻し、人混みに混じってホールを後にした。
クリスティーナはマルチェロたちと確認した裏口にたどり着くと、そのまま外に出る。
向かったのは、そこからあまり離れていないところに位置するサン・ルカ劇場だった。
今夜、ここでの公演はない。そのため劇場付近にはあまり人もいなかった。
クリスティーナは、サン・ルカ劇場のファサードのある玄関を通り過ぎると、脇にある小さな扉の取っ手に手をかけた。
ギイ、音を立てて扉が開く。
ここの支配人は勝手口を閉め忘れることが多いとマルチェロが言っていたのはほんとうだったのね。クリスティーナは感心したように頷いた。
昼間に三人で作戦を立てているとき、この国の劇場という劇場の楽屋の位置、裏口、勝手口などの事情に、マルチェロはやけに詳しかった。
しかし彼が劇場ファンとも思えないので、きっと昔の恋人のためにいろいろ調べたのだろうなとクリスティーナは察する。
誰もいないロビーのすぐ手前に燭台と火打箱があったので、クリスティーナは灯をつけた。蝋燭の火により、ぼんやりとロビーの中が見渡せるようになる。
クリスティーナは燭台を持ってそのまま奥に進むと階段を上がっていった。
二階に上がると、ボックス席が並ぶ廊下に出た。確かマルチェロが確保してる扉は217番だったわね。クリスティーナは扉の文字を灯で確認しながら歩き、ようやく目当ての数字が書かれた扉を見つけ、勢いよく開けた。
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