絶え間なく、止め処なく
保育園に無事落ちた。
無事、などと言うと、さすがに所属組織の上長や先輩方の苦笑いが目に浮かぶ。とはいえ、わたしが手足をびたーんと投げ出しておでこを地面にこすりつけて泣きの言葉を述べたところで(いや、ホントは落ちたくて落ちたよね?)という疑惑は払拭できないだろう。
ずっと、そういうスタンスで仕事に取り組んできた。この点において、自己認識と他者からの評価は一致するはずだ。その上、反体制側とまでは言わないが、体制側ではないとの自負や意思表明もあったり……。
それはある種「わたしがいなくても仕事は回る」という無責任さもとい謙虚さの現れでもあるのだが、実のところ、わたしの戻るところはあるのだろうか、という不安もある。
弊社はジャパンに存在する良くない企業の多くと同じように、数年前からボロボロと定年退職者が出始め、いまもって定年退職者がつかえているような企業だ。悪阻で休職している間、この育休中にもお世話になった方が何人か定年退職したり、役職定年を迎えた。
さらには今年度の頭、子どもが小学生にさしかかった女性の先輩や同期も数人(もともと女性の数が少ないのに、数人!)やめた。
それがいわゆる「小学生の壁」であったのかは、最後に彼女らと言葉を交わすことのできなかった私の知るところではない。長子が小学生、末子が小学生など、人によって状況も違ったしね。
まあ少なくとも、女性が働きやすい会社でないのは自明的である。
そんな、そんな会社に。育休が明けたとて、わたしの帰る場所はあるのだろうか? という疑問を抱いてしまうのは、当たり前のことだと思う。
特に秀でた能力があるわけでもなし。営業部門にいながら、コミュニケーション能力は下の下。業績が厳しくてなかなか新人が配置されない部門ではあるが、その中でも数少ない後輩はみな優秀。それでいて事務業務(システムへの打ち込みとか、備品の発注をしたり、見積書を作ったりとか)は何もできないから、今更別の部門に飛ばすことも難しい。
チームを組んできた人たちが、わたしに居場所を作ってくれたからわたしはそれに全力で乗っかっただけ。その人たちは少なからずわたしを評価してくれた、からわたしは排斥の対象にならないでやってきた、けど、それは猫の手よりはマシだっただけで、他の人でもできることだし、なんなら他の人の方がうまくやるだろう。
わたしの手元に、なにか身についたスキルだとか、「重要なプロジェクトの一端を担った!」とか「わたしもみなと一丸となって要求の高い顧客の課題を解決した!」とかいう手応えはない。
つまり、その人らがいなくなった時、わたしは「自分に価値があります」と自信をもってプレゼンすることはできないのだった。
***
子どもの歯医者を予約しなければ、と思っていた。はじめの歯が生えたのは確か春先だったと記憶している(記録、はしてあるが今確認するほどのことじゃない)。
向かいに住んでいる、うちの子より一歳年上の子を持つ家の人が「歯が生えていなくても、口内環境を整えるのって大事みたいですよ。うちはそれで割りと早くから歯医者通ってます」と言っていたことが大きなきっかけだったから、春先からずっと「歯医者の予約をしなければ」と思っていたことになる。
それがようやく、今月末に予約をとったわけだ。秋分の日ですらもう五日も前のことになる。
どうしてこんなに遅くなったのかの言い訳をしようにも、言い訳の言葉すら思いつかない、という有様で。
たぶん、ふと思いついた週の天気が悪かったとか、今月は旅行に行くからいいや(育休中のわたしのカレンダーはもはやベースが白すぎて、時間が進むのが遅々として、「徒歩一分の郵便局に手紙を出しに行く」なんて予定も一大イベントのように認識してしまうのだ。まして、旅行の予定なんて況や。)とか、自分でもよくわからないままに遅延されてきたのだ。
いや、もう本当によくない。これで仕事に復帰できる気がしない。こんな人間が仕事相手だったら怖すぎる。
育児は、メリハリがなくて大変だ。いつも目の前のタスクだけに追われる。現状、言葉も通じないし。
新生児期には今にも死んでしまいそうで目が離せなかった。今は、何でも口に入れたりひっくり返ったりひっくり返したりするから目が離せない。
それに比べれば、言葉が通じて納期が(基本的には)確定している仕事なんてお気楽ではないか、と思ったこともあったが、大人でも言葉が通じない時があることをわたしは知っているし、自社の上長と業者である私たちに別の態度を見せる顧客より、一心にわたしのことが好きな子どもの世話をしている方が、わたしにとってはどう考えても楽なのである。
成果物が、望みの通りになるかはさておき。
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秋になったから、というわけではないだろう。突如「読書がしたい」という気分の周期がやってきた。
夏の盛りにも、父親の前で「最近本を読んでないけど何か読みたい」と零したことがある。その時、図書館に定期的に通い、芥川賞・直木賞や本屋大賞など一通りを抑えるのが趣味であるこの人に『成瀬は天下を取りに行く』や原田マハなど5~6冊の本を借りたのだが、それは、漫画で導入部分を読んだことがあって気楽に手を出した『変な家』だけ読了し他は積んだままだった。
子どもを中心に回る生活の中で、新しい話や概念を脳に入れるには、思いのほかパワーがいると感じていた。
一念発起して(そう、このくらいのパワーが必要である)それらを読むかとも考えたけど、私は子供部屋(ここではわたしの部屋のことだ)に向かうと、4冊の本を手に取った。
綾辻行人著『Another』——今の気分に合う本はつまりそれなわけだったのだけれど、こんなに人がバカスカ死ぬ怖い本の気分とは一体どういうことなのだ、とは自分が聞きたいところではあった。
ところが、ひょんなところにアンサーはあった。
作中の最終盤面の時期が9月だったのだ。
なるほど。わたしがAnotherを選んだつもりだったが、もしかしてAnotherがわたしを選んでいた……?
***
ともかく、保育園には無事落ちた(一応補足しておくと「書類不備で落ちることも出来なかった」という最悪の事態を避けられた、という安堵から来る「無事」である)。
エアコンを付けなくても眠れるような気候になった。久しぶりに占いに行こうかと思ったが、行かずじまいになった。
そんな9月(これしかないのか、9月?)が、もうすぐ終わる。
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