[小説] 私が菊川君のプロポーズを断らない理由(または、確率の高い“IF”)3/3
私と菊川君は正反対だった。育ってきた環境や、趣味、考え方、食事の時に好物を先に食べるか、後に食べるかといった些細なことまで違った。徐々に喧嘩が増えていった。菊川君は一度思い切り衝突すればすぐに謝ることのできる男の子らしい男の子だったが、私はそうはいかなかった。言われたことも、されたことも何一つ忘れられなかった。
あなたと菊川君は似ているだろうか。きっと、似ているから仲が良かったに違いない。だから、付き合って間もないときに菊川君の部屋に行くのを拒んで口を聞いて貰えなかった時も、食事で財布を出すのが遅れただけで怒られた時も、酒の勢いに任せて有無を言わさず私の部屋に押し掛ける平日も、冗談で言った軽口に本気で怒鳴られた時も、私の体調不良を心配もせず予定が潰れたことをなじられた時も、菊川君と違う考えを生意気だと跳ねつけられた時も、実家に帰ることや友達と会うことを嫌がられた時も、悪意なく私を貶める時も、仲直りの証として体を求められている今もきっと、あなたもそうするのだろうと耐えている。
菊川君が私から目を離す一瞬、その果てる瞬間、私も深く目を瞑る。路地裏でシュレディンガーの猫が鳴く。きつく食んだ内頬の裏側ではきっと、あなたと繋がっている幸せを私は噛み締めている。
その日の飲み会の主役は、部署内で唯一の未婚男性だったあなただった。既に妻となった彼女との出会い、プロポーズ、彼女の親への挨拶について、年上の先輩社員達は時折自分のエピソードを交えながら談笑していた。知っている話もいくつかあったが、知らない話もあった。私はそしらぬ振りで茶々を入れる。その度に、少しだけ腹の中が熱いと思った。
「濱ちゃんはどうなの?!」
菊川君との交際を隠していた私にも話が及ぶ。それを掃うのは得意な方だけれど、あなたが居る場でだけはどうしていいかわからなくなる。あなたが優しい目で私を見ている。適度に助け舟を出す。私はその舟に乗って、どこまでも流れてしまいたいと思った。腹の熱さは増す一方だった。私は不快な熱さを抱えたまま、一人帰路についた。
自室に帰り着くや否や、私はトイレに這いつくばってえずいた。ひっくり返してでもすべて吐き出してしまいたかった。胃液の逆流と共に、たくさんのものが穴に落ちていった。あなたにとっての過不足を数えて、ひとつずつ足したり引いたりしていけば、私はあなたの彼女、あなたの妻になり得ただろうか。私の望みは、してきたことは間違っていたのだろうか。
学生時代に後ろ暗いところもない。それなりに部活に打ち込んで、それなりに勉強をした。それなりに恥ずかしくない大学を出た。資格だっていくつか持っている。そして正社員の職に就き、あなたの下に就いた。私は他の誰よりもあなたを信じている。もしもあなたが間違えることがあれば、私が何を犠牲にしても黒だって白に変えて見せる。そう、あなたが一言発すれば、魔法のようにすべてが動き出すのに。それでもあなたは職も教養もなくあなたの苦悩も背中も知らない、私と真逆の女を選んだのだ。
神戸に発つ瞬間が、すぐそこまで来ていた。
ドレスを来た上からトレンチコートを羽織る。もう一度手帳を開いて最終確認をする。電車の時間、美容院の時間、挙式の時間、披露宴の時間、二次会の時間。バッグとのその中身、招待状、ご祝儀袋、それともうひとつ。
「アクセサリー忘れてた」
洗面台に置いていたパールのネックレスと、薬指に通す指輪。それは手に取った瞬間から、とても重たくて冷たい。もしもあの日、駅に背を向けることが出来たなら。望まない旅先にノーを言えたなら。いや、そもそもあなたの命令を突っ撥ねて、私の感情をぶつけていたのなら?
その影を振り切るように、煌びやかなハイヒールに足を通す。玄関とリビングを繋ぐ扉が細く開いた気がした。私はいかにも気づいていない風を装って、振り返らずに玄関のドアをひとりで開けた。
今日は綺麗な秋晴れだ。朝の空気は澄み切っている。屋外にいてもそこまで冷えたりはしないだろうから、花嫁も参列者も良い気分で式が進むだろう。あなたの門出にはとても相応しい。
あなたはどんな衣装を着るのだろう。どんな面持ちで花嫁の横に立つのだろう。私たちの上司の祝辞で、涙ぐんだりするだろうか。あなたはそこまで身長が高くないから、いつもより背筋を伸ばしてみたりするだろうか?
披露宴ではあなたは親友である菊川君を探すだろうから、隣にいる私も最高の笑顔が見られるはずだ。あなたは締めの挨拶をするだろうけれど、あなたは仕事でも少し言葉の砕けたところがあるから、私はきっとはらはらしながら見守るのね。どんな結婚式になるだろう。どれだけ素敵なあなたに会えるのだろう。それはどんな甘い誘惑よりも魅惑的で、何年何十年経っても私の真ん中に焼き付いて離れないに違いない。私以外の人と幸せになるあなたに会うまでのあと数時間が、本当に待ち遠しいわ。
写真素材:https://www.pakutaso.com
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