厚意と厚顔の間
私たちって、常に戦ってきたと思うんです。望むと望まざるにかかわらず。
私たちって誰か、っていうと、赤文字系雑誌(※1)全盛期にキラキラした女子高生~女子大生時代を駆け抜けた光の者たちが存在する他方、mixiおよび個人ホームページならびに2ちゃんねる&ニコニコ動画全盛期……の低空(※2)を疾走した陰の者たちもまた多くいた時代(※3)を駆け抜けた私たち、ゆとり世代初期の女性たちのことなんだけど。
……まあなんとなく壮大っぽいフリから始めてしまったので、のっけからよくわからん注釈だらけになってしまったわけだが、今日の骨子は「私、最近、やさしさってどういうものかわからなくなってしまったみたいだ」という気付きに端を発する四方山話なのだ。
四方山話なのに骨子とはこれ如何に。
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どうやら、最近の若者(この言い方が既に老人)は、会社の飲み会が嫌いじゃないらしい。それは、この大ハラスメント時代において、上の世代の者たちが疲弊するほどに気を揉み、つまり、彼らにとってはとても穏やかなものであるからだという。
そういう側面は確かにあるだろう。では果たして、なぜ大ハラスメント時代は幕を開けてしまったのか?
私たちには覚えがあるはずだ。私たちが若かりし頃、「イイ女」であることは、ある程度当たり前に強いられていたと思う。
飲み会の場では我先にと食事をとりわけ、ちょっとおバカなふりして周りを立てる(そういえば、おバカ番組がとても流行った時期もあった)。それが正しい道だと信じていたから。
中でも不器用だった私たちの中には、新社会人だった時分、それらに加えて積極的に「自分サゲ」をして、社会、いや会社?の中に溶け込もうとした(せざるを得なかった)人も多いんじゃないかと思っている。それが正しい道だと信じていたから。業界によるものも大きいだろうけれども、「社会」はまだまだ多くの男性たちのもので、普通にしていては同じ土俵にあがるのも難しかったから。
私だって自分(新人)の歓迎会と言いつつ、組織のお偉いさんの近くに座らされ酌をし「娘と同じ名前だから(下の名前)チャンって呼ぶね」と言われても愛想笑いしかできなかったことがあった。
飲み会の場の思いつきで、その場で立たされ一発芸をやらされそうになったことがあった(天然の同期をうまく盛り立て回避)。
「壇蜜に似てる」と言われ物まねさせられたこともあった。
何度か飲み会の場で一緒になり、趣味の話で盛り上がった既婚者に「今度は二人で会いたい」と言われた……のは別の話か。いや同じ話か?
そして、私たちは知っていた。その「普通」にしたって、私たちのパイセン(ここでは明確に女性だけを指す)たちが踏ん張ってやってきたから、「女が(俺らと同じ)仕事に就くのは当たり前」になったということを。
いや、厳密にいえば当時はそんなこと(少なくとも、私は)意識していなかったし、今でも実感としては薄いのだけれど、たぶんそういうことなんだとぼんやりと認識している。
だからこそ、あの頃より図太くなって、あの頃よりは力を付けた私たちは思ったわけだ。
「あの苦行、いらなかったよね?」と。
自分をサゲたって、得られるものなんかたかが知れてる。今自分とうまく仕事をしてくれている人って、自分をサゲた時に高みからゲラゲラ笑っていたような人たちではないだろう?
それを今育休中のお前がいうのかよ、という自分ツッコミ(これも自分サゲなのか?)はあれど、おそらく、育休が明けた後、時短勤務でバタバタする自分とうまくコミュニケーションを取ろうと真心を砕いてくれる人たちは、おそらくそういうバカではない。
でもやっぱり一部にはバカの生き残りがいて、バカに引きずられるコバンザメ的なアホも当然いるから、私たちは戦ってきた。
飲み会では「飲み会は無礼講なんで手酌でお願いします!」と自然な笑顔で言い、食事が来ても積極的に取り分けるようなことはせず、自分をサゲて笑いを取らない。
東にセクハラ発言を受けている新人(主に女性)がいれば、真顔で「それセクハラですからやめた方がいいですよ」と言い、西になぜか毎回シュレッダーのゴミを片づけるハメになる新人がいれば、オッサンを巻き込んでみんなで片づける。
それはすべて、私たちは私たちのいる環境が当たり前でないことを知っていて、次の世代にはそんなゴミクズな風土はなくなってほしいからだ。
それで飲み会が快適なものになるなら、自分の受けた扱いも無駄じゃなかったってことになる。自分だって救われる。
そうやって、そうやってNOを突き付け続けたことで、不要なところまで敵と認識することになりはしないのだろか?
別にお酌くらいしたっていいんだよ。右も左もわからない若者(当時)を導くのはそれだけでそこそこ重労働だ。世話になったのは事実だろう。
食事だって取り分けたっていいんだよ。飲み会なんて、ただでさえ食事がどこに入ったかよくわかんないのに、(あの人、お皿から遠い席だけど食べられてるかな?)なんていらん気を揉むよりこっちも楽だし、日本人特有の誰のためかもわからん一口残しをされると、次の大皿がテーブルに乗らないからね。早く唐揚げ食べたいよ。
自分サゲたっていいよ。あの頃はちょっと、全然傷口が渇いてないネタも全力で披露しちゃっただけで。指突っ込まれても傷口開かない程度の酒の肴くらい、生きてりゃひとつやふたつあるよ。話せる人が自由意思で話せばいい。笑ってくれたほうが救われることも時にはある。
強くなった代わりに、失うものが優しさじゃあ意味がない。強くなったのは、優しくあるためでありたい。でもそれは両立しないことがある。なぜ?
「自分の味方」にだけ優しくなれればいいのかもしれない。でもそれは、別の誰かにゲラゲラ笑いを突き付けることになりはしないか? 社会の粗大ゴミになら、ゲラゲラ笑いを突き付けてもいいのか?
……まあ、こんなかんじで、「私」は迷走している。
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2ちゃんねる全盛期、といっても、2ちゃんねるそのものに出入りしていた人(特に、書き込みをする人)より、まとめブログやまとめwikiを見ていた人の方が多いのではないだろうか。
当時、まとめブログ等も乱立し、どのまとめブログを見ているか、は、どんな主張を持っているかをかる~く見定められるほどだったと思う。みんなあの頃アフィでいくら稼いだんだろうね。
私なんかはまあサークルも勉強もバイトもデートも碌にしない大学生で暇だったので、とにかくまとめサイトに文章量と刺激を求めた。
流れ着いた先はそう、家庭・育児系のまとめサイト。「嫁のメシがまずい(※4)」「2ちゃんねる駆け込み寺(※5)」「義実家にしたスカッとするDQ返し(※6)」「真のエネミーは配偶者(※7)」を筆頭とした、まとめブログというか、もはやWikiと成りあがったこれらは、まさに文章量・刺激ともに申し分なかった。
そうして(婚活に苦戦してとても選べる立場ではなかったが)、夫はエネミーじゃない人を選ばないと思って生きてきたし、強烈な義実家の話なんてお伽話であってくれよと思っていたわけだが、残念ながら現実は厳しい。
私は現在進行形で、義実家に――というか義母に嫌われており、目下のところ義実家は出禁となったままである。それでも一月一日には顔を出さないといけない。なんだかなあ。
まあもともと、夫と交際中から「母はクセがある」とは聞いていたし、実際会ってみて「なるほど」と思ったわけだが、ここにきて敵視されるとはね。
義母が爆発した直接の出来事はただの引き金で、おそらく、ずうっと前から私のことが気に入らなかったのだ。
夫と私は同い年で、もっと若い嫁が良かったらしいし、大した企業にも勤めていなくて、見れくれも特別秀でるところがなく、ロクに気も利かず、好き嫌いが多くて、何を考えているかわからないところが嫌だそうだ(夫からの又聞き)。
私としては、「そうですか、あなたから見た私がそうなのであれば、あなたにとって私は不快なんでしょうね」と思ってしまうのだが(なんか最近気づいたんだけど、この考え方って世の大半の人と相性悪くない?)、それもまた理解しがたい考えらしい。
でもそうじゃん。人って完璧に相互理解できないんだから、相手の感覚を理解できなくても受容するのが歩み寄りじゃん。違う? ……と、当たり前に私が思うことは相手にとって圧になり、そういう所作が滲み出ることでより敵愾心を煽るのだろう。
いずれにせよ、そうして自分の立場が決まってしまえば義実家はヤバイ義実家となり、義実家と私をうまく調整しない夫(私の夫は義実家の肩を持つわけではないが、私に肩入れすることもない、が、彼なりに私を守っているとは感じる。効果的であるかはさておき。結果エネミーに近いと感じることはある)は疎ましくなり、上記のスレの本当だか作り話だかわからないお話たちが脳内競技場を全力疾走で周回してm9(^Д^)プギャーと指を向けてくる。
ああ、私は、私の置かれているこの状況は、「事実は小説より奇なり」を体現している……。
そして重要なことは、いくら私の懐の入口がガバガバでも、懐の中はイッパイイッパイだったりするので、攻撃されるなら、防御なり迎撃なりをしないといけないということだ。
義母の行いを客観的に見てほぼほぼ正確に把握している夫(つまりは、私に非もある一方、義母はかなり無茶苦茶だという事実の把握)にも、「いやお前の親とうまくやってほしいと思うならちゃんとテコ入れしろよ」と毒づきたくなる。
フラットなままではいられない。私はとても傷つきやすいし、無駄な痛みを感じやすいので。
それでもやはり、根本的な想いに立ち返ると、私は気が合わないからといって義母を攻撃したいわけではない。
なかよくやっていきたい、かはともかく(というか、その世界線へのあこがれは早々に捨てた)、優しくしたくはあるのだ。そうだろう。邪険にしたり、冷たくしたりする理由なんてないんだから。
しかしどんなに何かを飲み込んでも、自分の「よかれと思って」した行動が相手にとって迷惑であった、ということに謝罪の意はあっても、自分の心理や行動に非があったとは思えないから心からは謝れないし、行動は変わらない。むしろ戦いたいくらいだ。
義母はこれからも私に苛々するだろうし、私はますます義母と心の距離をとり、不気味な嫁として存在し続けるだろう。なんて不毛な世界なんだ。
明日は元旦。義実家詣が憂鬱だ。訪問したら入れてくれないほど義母が子供とは思わないが、どんな顔で迎えられても、もはや(ああ、私に対してあんなことやこんなことを言っていた人だ~~早く帰りて~~そちらも早く帰ってほしいでしょ~~~)としかたぶん思わない。
最終的には、脳内ではこれだけ思考を展開してても、対面での頭の周りが遅くて誰よりも小心者でめちゃくちゃ疲労抱えて帰ってくるであろう自分に腹が立ち、情けなくなって自分を責めてしまう。
だから私には脳内でネタスレを立てて、現実逃避風に乗り切るしか道は残されていないのだ。つらい……。
戦いたくない。優しくありたい。それだけなのに。それだけが叶わない。
優しさってなんだろう。赤文字雑誌も2ちゃんねるも、それは教えてくれなかったよ。私が見逃しただけかもしれないけれど。