デリカシーは、なにでできているのか?
こんにちは。みなさんいかがお過ごしでしょうか?
先日、友人がやってきて「最近どう?」なんて感じでお話をしに来てくれました。「まぁ、ボチボチですな〜」なんて世間話をしていたのですが、以前話題に挙がっていた「FF式ストーブの取り付け/取り外し」について話が進んで行きました。
いろいろと調べてくれたようで、「あ〜、したらいい」「こ〜、したらいい」と説明してくれたのです。
これはこれでとてもありがたいし、ボクも「そうなんだ〜」と聞いていました。
ところが、こちらの事情を説明しようとしても途中で話を遮られたり、もっとこうしたほうがいいんじゃないか、と話を続けてくれるわけです。
「ちょ、待てよ」と。
こちらが説明しようとしても二言三言すると、彼の主張という壁に阻まれてしまいます。
「たしかにそうなんだけど、こちらにもこういう事情があるからさ」
と伝えたくて「あ〜そうなんだ〜」としたいだけなのに、取り合ってもらえないような感じが数回続いてしまいました。
この状況にボクはやり場のないモヤモヤが貯まり、限界を超えてしまいました。
「あのさ〜!!!」
と語気を強くして話を聞いてもらう手段でしか説明ができない状態に。
ややキョトンとした表情をしながらボクの説明を聞いてくれていたのですがしばらくすると、
「あなた、疲れてるね」と。
たしかに、疲れていないわけではない。否定はしない。でもコミュニケーションは取れるくらいの状態ではある。
仮に「疲れていました」としてもですよ。
「疲れているね」と宣告された本人はどうしたらいいのでしょうか?
「はい、そうですね、疲れています、すみません」
と謝罪するのでしょうか。
この「疲れているね宣告」は、「疲れているあなたが悪い」という風にも聞こえてしまったんです(← 疲れてるね)。
さて。
こんな会話をきっかけにして、デリカシーってなんだろう、と考えはじめて現在に至るわけです。
デリカシー【delicacy】 の解説
感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ。「デリカシーに欠ける振る舞い」「デリカシーのない人」
そういえば、以前、写真家の幡野広志さんのコラムで「デリカシーフリー」というパワーワードがあったことを思い出しました。
「カフェインフリー」みたいにしれっとした言い方してますが、デリカシーフリーはすごくイヤです。
しかしですね。
デリカシーを強要したり、デリカシーを求めたり、デリカシーを押し付けるというのも、ある意味では「デリカシーがない」と思ったりもしませんかね。
こんなことを考えていると
「デリカシーを受け取るにもデリカシーが必要」
という真理にたどり着くんです。
これは作家の岸田奈美さんが
「優しさを受け取るにも、優しさが必要」
という名言があったので思いつきました。
宇宙兄弟にも
「“優しさ”に気付くのもまた“優しさ”」
という名言がありました。
そんなことを考えていたら「デリカシーフリーな人には、デリカシーのことは伝わらない」という論理になるのではないかと。
「ジョジョの奇妙な冒険」に登場する名言「スタンド使いはスタンド使いにひかれ合う」とも類似性が感じられます。
この名言から推測すると「デリカシーフリーがデリカシーに遭遇すると事故になる」ということでしょうか(っていうか、デリカシーフリーとデリカシーフリーのスタンドバトルはちょっと見たい気もするけれど、絶対に巻き込まれたくはないですね)。
すこしずつ話題が逸れてきましたね。
こんな思考実験をしながら、「デリカシーってなにでできてるんだろう」と思うに至ったわけです。
デリカシー【delicacy】 の解説
感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ。「デリカシーに欠ける振る舞い」「デリカシーのない人」
まだ十分な考察はできていませんが、おそらく「過去に苦しい思いをした人(=傷ついた人)が、同じような思いをさせてはいけない」というところから始まるのではないでしょうか。
この「始まり」についてもいくつかの条件が必要です。
・そもそもデリカシーを感じられる体質なのか
・他人に苦しい思いをさせてはいけないと思える体質なのか
こうなると、デリカシーというのは、生まれ持った才能の1つなのかもしれませんね。「デリカシーの種」がある人にしか、デリカシーを育むことはできないのでしょうか。
ボクもなるべくデリカシーのある振る舞いや行動をしようと思いますが、別の視点に立てば、デリカシーフリーなことをしていることもあるかもしれないなぁ〜と頭の片隅にしまっておくことにします。
相手の背景、業界、住む世界、文化、によってもデリカシーの幅があるようにも存じているわけですが、ルールやマナーとも意味合いが違うような気もします。
デリカシーとリスペクト、敬意を払う、失礼なことをしない、といったワードもつながっているような気がします。
このようなことから、コミュニケーションを取るときは相手のことを尊重するという心構えは忘れないようにしたいものです。
昨今は、実際に顔を合わせてコミュニケーションができない場合がありますが、リアルでも、ネットでも、ビデオ通話でも、音声でも、テキストでも、どんなコミュニケーションにも「相手は生身の人間である」ということは忘れてはなりません。
誰かとの繋がりや温かさでボクたちは生きているし、救われて、前に進んでいるのだから。