宵の明星がきれいなわけだ。現実がこんなに酷いのだから。
僕は息子と二人で、強い地震が襲ってきた街から徒歩で避難していた。息子は話をすることができず、もしこの状態で彼とはぐれてしまったら生命の保証はない。とにかく少しでも安全な場所に行こうと、彼の手を離さないようにトボトボと歩いていた。
おおきな河にかかっている長い橋のうえには、数え切れないほどのひとがいて、その群衆は我先にと僕たちを追い越していく。ただ橋の構造体も大きな損傷を受けているのだろう。ときおりなんの前触れもなく電柱が倒れ、人がその下敷きになってしまう。
悲鳴があがるが、だれも助けようとはしない。助けようにも、我が身がいつこの様になるのか、全く想像がつかない状況では、「助ける」という気持ちすら起きなくなるのだと、改めて思う。
そうこうしているうちに、なぜか人の流れに逆らって歩いてくるひとりの女性の姿が見えた。流れに逆らっているのではなく、ただそこに立ち止まっているだけなのかもしれない。だんだん近づいてくると、その人の容貌がはっきりと見えてきた。女性シンガーソングライターの草分けとも言われるM.N.さんだった。なぜここにいるのかもわからず、少しづつ僕たちと彼女の距離が近づいてくる。
「あれは宵の明星ですか?」
彼女がいきなり僕に聞いた。
彼女の指差す先を見ると、たしかに宵の明星が橋の上にポッカリと浮かんでいた。しかしこの状況で、このことに気づいている人はいないだろうという根拠のない確信が僕にはあった。
「たぶんそうでしょうね、なぜそのことに気づいたのですか?」
僕は彼女に聞いた。
彼女は表情も変えることなく、
「宵の明星がきれいはなずですね。こんなに現実が酷く凄まじい状態なのですから」
といった。
そこで目覚めた。
ときおり僕は、セリフまではっきり覚えているような夢をみることがある。それがなにかの役に立つとか、特別な能力なのかとか考えたこともない。ただ想像力は僕たちを知らない場所に連れて行ってくれることだけは確かだと思う。