ベートーヴェン、ピアノソナタ第8番『悲愴』のフレーズ構造、第1楽章その1(mm.1–10)
この分析の基礎になってる考え方は↓のページにまとめてあります。
第1-2小節
まずは冒頭の主題を聴いてみましょう。
この主題は、次の図に示したように、2つの2分音符からなる2拍子を骨組みとしています。
拍子記号のCは一般には4/4拍子と解釈されていますが、4拍子は構造的には2拍子の一種ですから今は区別する必要はありません。
(※ベートーヴェンは速い曲ではアラヴレーヴェを、遅い曲ではCを、そしてもっと遅い曲では2/4を使う傾向があります。)
3拍目、4拍目のE♭-Dは小さな標準形で、上の図の2分音符同士の標準形に埋め込まれて入れ子になっています。
このように終わりの音が弱拍にある場合を女性終止といいます。
裏を取る形(ウラ)
さらに細部を見てみましょう。2拍目の後半には、3拍目の頭への「裏を取る形(ウラ)」が出ています。
裏を取る形とは次の図のように、拍節の「強-弱」という標準的な位置に対して、そこから遅れる位置に「弱-強」というグループを出す形のことです。この例では、その形にさらにアナクルーシスが付いています。
ウラシャ
このアナクルーシスを斜拍子として解釈し、2つの動きに分解すると、ウラシャになります。
これを図で書くと次のようになります。
次に示す第2主題も、リズム的にこれと同様の形を持っています。
第53小節の3度下降もまた、ここで終止するわけではありませんが、第1小節の女性終止での下降に対応しています。
大雑把に見れば、第11小節から始まるアレグロ冒頭の主題も、グラーヴェ冒頭の主題となんとなく似ている気がしますね。
つまり、冒頭のC音の後、ほとんど順次進行で上昇し、3拍目に対応する第15小節から下降に転じています。
さて、最初の2小節の話に戻りましょう。
第1小節の2拍目の後半から3拍目の頭まで、裏を取る形(ウラ)は確かにつながっています。
しかし3拍目のE♭音は、次のD音と女性終止を作って密接なまとまりと作っていますから、その代償として2拍目最後のE♭音との間に切れ目を感じることになります。
その結果、2拍目後半からの裏を取る形は、その末尾である3拍目のE♭を奪われたように感じられることになります。
このようにして2拍目の後半には、末尾を奪われた裏を取る形が残ることになります。
もちろん、ウラシャの形であっても同じことが起こります。
第2小節では、直前に32分音符のアナクルーシスが加わっていますが、同じ形のフレーズを繰り返しています。
この2つの小節は、メロディーとしてはそれぞれ分かれていますが、より抽象的なレベルでは2拍子を構成しており、標準形を作っていると考えることができます。
ですから、この2小節だけならば非常に安定したまとまりであるように聴こえることでしょう。
ところが、3つ目の小節で3つ目に当たる繰り返しを出すことによって、この安定性は崩されます。
ベートーヴェンでは、同じことや似たことを繰り返して安定したまとまりと作った後に、3つ目の要素を出してそれを崩すことから展開が始まる、ということが良く見られます。
第3-4小節
次の動画を見てすぐに分かることは、第4小節の後半でベートーヴェンは楽譜に音価を正確に割り振っていないということです。
動画では楽譜の音価の通りに演奏させていますが、実際の演奏では9連符と、その直前の4つの64分音符を同じ長さで演奏するわけにはいかないでしょう。
それどころか、9連符ではむしろ速度を遅くしたくなるでしょう。
第4小節後半は、無理やり4/4拍子の小節に音符を押し込めただけの、自由なリズムの箇所とみなすべきだと思います。
楽譜に忠実に、という言葉はよく聞かれますが、楽譜が音楽に忠実であるとは限らないということも頭に入れておかねばならないと思います。
さて、第3小節はドッペルドミナントの減七の和音から、ドミナントに進む進行を、冒頭と同じフレーズ構造で出しています。
4拍目に入るまでは同じですが、ここから2拍目後半と同じ形を出して、さらに2拍分、フレーズを延長しています。
すでに第3小節の初めから「第2小節で安定して終わったのにまた出すのかよ」といった感じだったわけですが、さらにここ小さく繰り返しが入ります。
さて、この後が判断に迷うところです。
第4小節は今までに出ていない形をしており、しかも第3小節が延長されたので、強拍の位置が良く分からないのです。
楽譜上の1拍目は、第3小節の3拍目に当たる部分の繰り返しなのですから、3拍目と似た機能を持っているはずです。
では本当の強拍は下の楽譜の赤い点線の次にあるのでしょうか?
しかしオレンジ色の点線の次から強拍であるという解釈もあるように思います。残念ながらここでは明確な答えは出せません。
第5-6小節
第5小節からは、冒頭の主題の形を若干装飾したものが出てきます。
第5小節の最初の音は、さっきのパッセージの最後の音です。このように次にはみ出す形は、裏を取る形やウラシャの形の特徴でした。
第5小節の最後にも裏を取る形が出ており、第6小節の頭に同じようにはみ出した音を作っています。
このはみ出しにぶつからないように、メロディーの最初の音は1拍目の後半へとシンコペーションされています。
3拍目の女性終止は短くなっています。このため実際以上に速度が速くなったような錯覚を持つかもしれません。
またそのおかげで、4拍目に裏を取る形を挿入する余裕が生まれました。こういったスペースの取り合い譲り合い、というのも実はリズムの重要な要素なのです。
裏を取る形(ウラ)
次の譜例の裏を取る形は、3拍目と4拍目とで作られる小さな2拍子の中にできた裏を取る形です。
この動きを第6小節へのアナクルーシスと解釈できる可能性もあります。その場合には、これは裏を取る形ではなく斜拍子と分析され、次の第6小節に所属するグループということになります。
しかし私の印象では、このグループは第5小節の中心となるフレーズに合いの手を打つものであるように感じますので、裏を取る形だとしておきます。
裏を取る形については次の例でどのような形か思い出しておきましょう。
ウラ小シャ
細かいところも見ておきましょう。次の形は私がウラ小シャと呼ぶ形です。
これは裏を取る形にアナクルーシスが付いているのでウラシャに似ていますが、ウラシャより細かいレベルでアナクルーシスが付いているものです。
次に挙げるモーツァルトの交響曲40番の冒頭が、ウラ小シャの最も良い例でしょう。
第5–6小節は、第1–2小節と同じように、同じ形を繰り返して安定したまとまりを作っています。そして次にさらに繰り返しが行われてその安定性を崩しにかかることも同じです。
第7–8小節
小節5-6のフレーズ形をさらに繰り返します。
基本は2つずつですから、3つ目である第7小節は展開の開始となります。
次の動画では、裏を取る形の末尾のはみ出しを「\」で、またアナクルーシスを「/」で簡易的に表示しています。
第7小節の3拍目で緑の矢印で示した女性終止だけを、第8小節でさらに繰り返すのですが、この女性終止だった形は、第8小節ではそれぞれのグループの主要な要素になっています。
この曲の冒頭から引き続いて、この2小節は大きな2拍子として感じられるだろうと思います。
そしてそのように感じるということは、次の譜例に示したような位置に標準形をぼんやりと感じているということと同じことになります。
ここではさらに、第8小節からの動きが第9小節まで流れ込むので、大きな裏を取る形も感じられることになります。
第9–10小節
まずは聴いてみましょう。
下の譜例に、第9小節の最初の細かい動きを簡単にしたものを示しています。これは2拍目から3拍目への裏を取る形に細かいアナクルーシスを付けたものです。
2拍目の後半からは左手も加わって音が増えています。ですから、緑の矢印で示したようなウラシャの形として理解されることが意図されていると言っていいでしょう。
第10小節の第3拍からは裏を取る形が出ています。ただし、3拍目にG音を出そうとする動きを邪魔したくないので、シンコペーションの形で遅れてE♭を出しています。
ですから、このE♭は、機能的な意味では3拍目の先頭にあるのと同じことなのです。このようなシンコペーションはすでに、第5小節冒頭でも見ています。
上の譜例の裏を取る形(ウラ)は、トニックの4,6の和音から属七の和音を経て、次の小節にトニックを出しています。
このパターンは、次から新しい大きなまとまりが始まるときに、極めて頻繁に使われるお決まりのパターンです。また4,6の和音の代わりにサブドミナントなど他のドミナントを準備する和音を使うパターンもよく見られます。
注意しなくてはならないことは、これは大きなアナクルーシスではないということです。つまり、この動きは次の新しい部分に所属するものではないということです。
似たような例をいくつか挙げておきます。
第9–10小節の分析を詳細に楽譜に書き込むと次のようになります。
まずこの2小節をまとまりとして感じられるならば、大きな標準形があるということですので、2つの小節を大きな点線の矢印でつないでいます。
それぞれの小節は2拍子(4拍子)ですから当然標準形の骨組みがあるはずです。これも同じように点線の矢印で示しました。
この譜例では緑の矢印でウラシャを示しています。ウラシャの骨格となっているのが赤い点線の矢印で示した裏を取る形です。ここではさらに、第10小節後半にもウラシャが潜んでいると解釈しています。
カテゴリー:音楽理論