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リズムとはなにか

一見すると、世の中のものには至るところにリズムが存在するように思える。音を適当に鳴らしたって、風の音を聴いたって、全てリズムなのだと言えなくはない。

だがどうだろうか。人間が聴いていない所で鳴っている風の音が、リズムを持つと本当に言えるのか。

というのは、外界の出来事をリズムとするためには、人間の認知が必要なのではないか、と思うからだ。

例えば、木の木目の模様の中に人の姿などを見出すのは人間の認知の仕業であって、木目の模様そのものに人の姿が存在するわけではない。

だから、同じ形を見ても、人によって理解が異なったりする。言語でもそうだ。同じ文字の並び、アルファベット配列、同じような発音でも、それを読み解くコードの種類によって理解が変わってしまう。

人間にとってリズミカルな音楽でも、犬や猫はそれに全く関心が無いようだ。それは彼らにはリズムを理解する能力がないからだ。彼らにはリズムが「聞こえて」いない。

しかし動物に理解できるリズムも存在する。例えば24時間や、季節の周期だ。単純なパルスを感じる動物もいるだろう。同じリズムで運動を繰り返す種もたくさんいる。しかしほとんどの生物は音楽を理解するという段階には到達していない。

人間は進化の過程で、音楽的なリズムを理解する能力を獲得した。それは人間が言語能力を獲得したのと同様の出来事であっただろう。


人間が獲得した「リズム理解能力」とはどのような内容を持つのだろうか。私はこれを、人間が図形を理解する際に用いる能力とよく似たものであると考えている。

人間が三角形を理解するとき、人間は頭の中に一種の純粋な三角形の概念を持っていて、見た対象がその概念に属するかどうかを判定している。

三角形に属すると判断されれば、より詳細な三角形の概念によって、さらに対象の詳しい判別が行われる。例えば二等辺三角形だとか、正三角形だとか直角三角形だとか。

このような頭の中の概念を「スキーマ」と言う。三角形のスキーマを「親スキーマ」だとすれば、二等辺三角形や直角三角形などのより詳細なスキーマを「子スキーマ」と呼ぶことができる。子スキーマは、親スキーマを修飾した存在であり、三角形としての基本的な特徴を継承している。


リズムは、このような「スキーマ」そのものであると考えると非常にうまく理解できる。

2拍子とか、3拍子を、図形で言う所の丸とか三角と同等のものと考えてみる。すると、例えば2拍子における様々なリズムは、2拍子を「親スキーマ」とする「子スキーマ」であると言えるだろう。そして2拍子と3拍子は、1つの未区分の小節を「親スキーマ」とする「子スキーマ」である。

さらに2拍子は4拍子と6拍子に枝分かれし、スキーマは原初スキーマから子孫スキーマへと連なる巨大な木構造を形成する。

このようにして人間のリズム理解能力は、1つのスキーマ・システムをなす。そして、人間が理解できるリズムはこのシステムの中のどれかと一致しなくてならない。人間がスキーマを構築できるものだけが、人間に理解可能な対象である。

人間が理解する以前の対象は、人間の持つスキーマと照らし合わせて初めて「リズム」であると理解される。正確には、リズムというスキーマ群の中の1つのスキーマのインスタンスであると理解される。インスタンスとは、あるスキーマに属すると理解されるような具体的な事例のことである。

この場合、同じ対象を、2人の人間が相異なるリズムとして理解することがありうる。それは対象が2通りのスキーマの中間のような特徴を持っていたり、2つの相異なるスキーマがたまたま共通の外見をしている場合などである。

音楽がリズムを持つのは、作曲家が人間に分かるように音楽を作るからである。音が勝手にリズミカルな配列を取るわけではない。リズムは音の性質ではないのだ。


スキーマという用語が有名になったのはエマヌエル・カントの『純粋理性批判』や20世紀初頭の心理学によってであるが、実はスキーマは古代ギリシャのリズム論ですでに用いられていた用語であった。

アリストクセノスは次のように言っている。『物質が、その諸部分の全体あるいは一部が異なった配置を取れば異なった形(スケーマ)となるのと同様に、リズムの素材は異なった形態を取る。しかし、その違いは素材それ自身の性質によるのではなく、それが持つリズムの性質によるのである。』(リズム原論II-4)

アリストクセノスはリズムを、時間の区分の知覚に関係するものであるとしている。彼は現代の認知科学のスキーマ論に非常に近い考え方をしていたように思える。これは、イデア界や対象そのものに本質があると考えた彼の師匠たちとは異なる見解であろう。


つまり結論としては、リズムとは人間のリズム理解能力を本質とするということになる。音楽がリズムで満ちているのは、作曲家が作品を人間に理解可能なものとして作ろうとするからであり、リズムとして解釈されるであろうような可能性で満たされているからである。

楽曲の中に見出される客観的な意味でのリズムは、リズムそのものではなく、リズムとして解釈される可能性を持ったものに過ぎない。そして我々は日常的な用法として、特定のリズムとして解釈されるであろうような対象をあたかもリズムが客観的に実在しているかのようにリズムと呼ぶのだ。

それは演奏されてからも同様である。音楽のリズムは、聴き手に理解された瞬間に実際のリズムとなる。どんなに魅力的なリズムも、手の込んだリズムも、聴き手がそれに適合するスキーマをうまく見つけ出せなければ、リズムとして理解されない。


困ったことだが、演奏者はリズムを理解していなくても、リズムとして理解可能な音の連続を生み出すことができてしまう。楽譜通りのタイミングで演奏すれば、最低限のリズムを作ることができる。すると、正確なタイミングを取ることだけがリズムを理解することであると勘違いした演奏家が生まれてしまう。

楽譜の通り正確に演奏しようとすることは大事なことではあるが、それはリズムを理解することとは違う。だが、楽譜の通りに演奏している演奏者がリズムを理解しているのかどうかを判定することは非常に難しい問題である。


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