朝に立つアレ。そう朝立ち。
断っておくが、夏の午後の雨のことじゃない。そんなことについて語りたいわけじゃない。
朝に立つアレだ。男性にしかない特有のアレ。漢字にすると勃。素材が柔らかいズボンだったら丸バレなので、ウエストに挟むことで回避していたアレ。
高校の寮生活時代、毎朝7時から校庭で始まるラジオ体操の時、既に待機している下級生にバレないようにウエストとズボンのゴムで挟み、かつ前屈みになって凌いだアレ。
なぜ朝立ちなのだろうか。なぜ昼立ちでも夜立ちでもなく朝なのか。
そしてなぜ私は平日のサラリーマンが行き交う中で、こんなことを考えているのだろうか。
それでもやっぱり、人生には考えないといけない重要な局面がある。
プロポーズをされたら結婚するかどうかを真剣に考えるし、仕事で大きなプロジェクトを任されたら考えないといけないことなんて沢山ある。
それと同じで、36歳になってもなお、仁王立ちのように立ちはだかる目の前の息子から、
「なぜ僕(息子)は朝に立つの?」
と問われたならば、それに答えないなんて出来ない。
世の息子(バナナ)たちは今まで無数の男性に問うてきたのだろう。
だが、ほとんどの男性はその人生の問いに答えてくれない。
立つことに何の疑問を持たず、ほとぼりが冷めるのを待つ人生。
年齢を重ねれば重ねるほど、人生からも問われなくなっていく。なんて悲しいことなんだろう。
だが私は違う。私はその問いに対して応え(答え)てあげよう。
私はリアリストだが、スピリチュアル界隈でよく「みんな深いところで繋がってる」と言う。
だからこそ、虫の知らせがあり、離れた相手のことが何となく分かったりする人もいる。
密接に繋がってる家族のことなら尚更である。
で、実は私たちは寝ている間、すべてと繋がっている。
どこかの記事に書いたが、睡眠とは孤独感を主に満たせる欲求である。
性欲は主に無価値感。食欲は主に罪悪感。
寝ている時はそのすべてと繋がっている。
すべてと繋がっているが故の安心感だったり、孤独を満たすことができる。
しかし、その睡眠から目が覚める時というのは、すべてとの繋がりから途切れる時であり、その繋がりを求めたくて朝立ちが"起こる"。
じゃあ、女性は濡れるのかと問われれば、女性は濡れない。
なぜならば、女性は子宮という本質(宇宙)があり、求める必要がないからだ。
男性にはそれがないから、本質というすべてを求める必要がある。
そう、男は穴があったら入りたいのだ。
言ってしまえば、女性は本質であり男性は本質ではない。
だから、女性は1人でも生きられるが、男性は基本的に1人では生きられない。妻が亡くなれば、後を追うように夫もすぐ亡くなる方が多い。
つまり、朝立ちというのは起き抜けに起こる現象であり、起きるのが昼なら昼立ちになり、夜なら夜立ちが起こる。
さあ、これでどうだ。世の息子たちの無念は晴らせただろうか。
若ければ若いほどはち切れんばかりで、ズボンが破けて突き出してしまうんじゃないかとよく心配していたものだ。
私は未だに衰えを感じないが、歳を取れば取るほどそのすべてを求める飢えはなくなっていく。
それは歳を取ったら精神的に大人になるというわけではなく、単純なる生命力の衰えに過ぎない。
すべてとの繋がりを求めて朝に立つアレ。
私より先に起きる早起きさん。
きっと孤独感を真に満たせたならば、この現象は無くなっていくのだろう。
あぁ...今日もいい天気だ。