味方にしか届かんすぎる言語になってる。100000tアローントコ・加地くんとのおしゃべり
寺町御池上ル40歩。京都市役所の横にある、レコード・CD・古本・など屋ーーこれが、加地くんが自らの店を説明する短い言葉だが、「など」の部分に100000tアローントコを表すなにかがにじんでいる。この店に来ると、言語化しきらないところ、説明しつくさないところを残しておいてもいいよな、と思う。
加地くんとのつきあいは、もう数えるのもめんどくさいくらい長い。土曜日、ひさしぶりに店に行っておしゃべりした。途中、わたしが最近考えこんでいたことに重なるくだりがあり、「メモしていい?」とノートを出した。以下は、約20分の会話を咀嚼したものだ。長い関係性ゆえ、お互いにしかわからない言葉づかいが多いため、わたしなりの理解を添えて書いた。
ちなみに、加地くんはみんなに慕われ、頼られている、だいたいごきげんなアニキである。いつもこんな話ばかりしているわけでは決してない。
「そっちの言葉」がめちゃくちゃ多くなって、「こっちの言葉」が変わってしまうというか。
加地くんは、新刊書店に行くのが好きらしく、よく本を買っている。「最近、何読んでるの?」と聞くと、手元にある読みさしの本を教えてくれる。ところが、今は全然読んでいないと言う。相づちくらいの軽さで理由を問い返すと、なんだか気になることを言いはじめた。
加地くんがしゃべったことを、文字としてわかるように説明を試みる。SNSなど、ほぼリアルな関係性に根付いていない、テキスト同士の空中戦場と化した言語空間が急速に広がって、世の中全体の言葉の質を変えてしまいつつあるーーということになるだろうか。海をイメージしてみてほしい。対岸で起きた水質変化がすごい勢いで広がって生態系を変えていき、気がついたらこちら側に達している。同じ海で生きていく以上、もう前と同じやり方でその海と関われないーー言葉の世界で、そういうことが起きているのかもしれない。
そうなったのは、この2年あまり、人と一緒に過ごすこと、なにげないおしゃべりが失われたせいもあると思う。いまや、コミュニケーションのほとんどは、画面の上を流れていく動画やテキストになっている(そう、この文章も)。言葉は、誰かに出会って、どこかに行って、できごとに遭遇して、どうしようもなく湧き出てくるものを共有するために、人間がつくりだしたものだったはずだ。でもいまは、言葉to言葉というか、いつまでも身体化されない言語が画面を滑り落ちていく。いつまでも自分に染み込まない言葉をぶんぶん振り回している、みたいな感じがする。
大きく言われるようなことを、どこまでも細かくしていくという「闘い」。
そんなことを話してみると、加地くんは「そやな」と言ってちょっと黙り、「でかいことをオレが言う資格はない気がするけど」と前置きしてから話し出した。
「大きく、何ことかで言われるようなこと」というのは、たとえば「女の子はやっぱピンク色が好き」とか、「子どもはピュアな心をもっている」とか……。うまい例を思いつかないけど、一般論みたいなもの、いわゆるマジョリティの価値観と言えばいいだろうか? それに対して「いやいや、女の子ってひとくくりにでけへんし」「こういうふうにしか生きられない人生もあるやんか」と、「実際に起こっていることの側」を描くのが、たとえば文学だったのだと思う。
あるいは、世の中のルール(法律や条例なども含めて)にただ従うのではなく、現場で起きたことに即して対処することもそうだ。もっと「闘い」らしいことで言えば、いないことにされている存在、虐げられたままにされている人たちが「ここにいるやんか!」と声を上げる。大きい理屈で丸め込まれることに対して「いやいや、それだと排除されたり抑圧される人がいるでしょ」と示して、「みんなそれぞれにちゃんといられる状態」をつくりなおそうとすることが「闘い」だとわたしは思う。
加地くんは「いまは、その相手が、それっぽい陰謀論のかたちで出てくる感じ」と言う。考えてみれば、陰謀論は“闘い”に似た装いをしている。「マスコミが伝えているのは陰謀で、実際に起きているのはこうだ」というように。実のところ「本当は何が起きているのかを知りたい」と思って、自分の力で情報を得ようとする人たちが、どこかで”陰謀”にハマっていくのだと思う。政府やマスコミなど「大きいもの」への不信、「自分の力で何が正しいかを判断できる」という過信。それらと表裏一体の、内面化させられた自己責任。
闘うひとも、陰謀論を信じるひとも、何かに対して「問いを立てる」という出発点は同じだろうけれど、その先にあるものが違う。前者は新たな地平を開き共有することを目指し、後者は結果として分断を生む。
とんでもない劣勢や。そっち側がもうメインになってきたから。
そもそも、わたしも加地くんも、マジョリティの競争からさっさと降り、ほそぼそと自営業で暮らしている。「はしっこのほうでやってますんで、勘弁したってください」と世の荒波をやり過ごしてきた。はしっこの世界は広くはないが、それなりの温もりや自由さがあり、自分たちで居心地をつくることくらいはできていた。「え、それ、こんなとこまで来る?」みたいな気持ちがある。
瑣末なこと。たとえば、京都市は不法駐輪の取り締まりが厳しく、市民からはやりすぎだと批判の声があがっている。駐輪場以外はすべて「不法」扱いで、歩行の邪魔にならない場所に、短時間駐輪しただけでも持っていかれてしまう。ルールは「みんなが暮らしやすくなるために」つくられるもの。行政と市民が、「暮らしやすさ」を保ちつつ運用するラインをさぐりながら、ルールを生かしていくほうがいい、と思う。
京都は、そういう「ラインをさぐる」ことができるまちで、「ルールではこうやけど、今この場合はこのくらいやん?」と、現場にいるもの同士で融通できる「幅」とか「遊び」があったと思う。その融通の幅が、どんどん痩せている感じがする。なんだろう?「いろいろあるよね、お互いに」と相手を受け入れあう感覚、もしくは想像力か……。しばし考えていたら、加地くんがとどめを刺した。
とか言いながら、本を買い、レコードを聴く。
もの書く仕事をする者として、言語空間が変質するのは怖いことだ。でも、その言語空間をつくっているのは、わたし自身でもある。何を読み、何を考えて書くのか。どうやって伝わる言葉をつくりだすのか。それを問いつづけることから逃げるわけにはいかない。
加地くんとおしゃべりする前に、パルガス=リョサの『若い小説家に宛てた手紙』と、ツヴェタン・トドロフの『屈服しない人々』を買っていた。だから、この2冊はとくに会話に影響していないはずだけれど、帰ってからページを開くと、なぜか関連しているようにも思う。パルガス=リョサはこう書いている。
わたしは文学でも作家でもないが、一介のライターとして、書くという行為は生業であり、生きる術である。いま起きていることから目をそらさず、かといって振り回されすぎずに、死ぬまでこの身を通して出てくる言葉を書くことをしていたい。良くもわるくも、この世界は変わりつづけるのだから。
そして、加地くんもまた、今日も100000tを開けるし、お客さんたちはレコードや本を買いにくる。日常は長く続くのである。
100000tアローントコ(じゅうまんとん あろーんとこ)
https://twitter.com/100000t_A
京都市役所の横にある、レコード・CD・古本・など屋。それらの買取りもめっちゃしてます。昼の12時くらい〜夜の7時過ぎくらいまで営業。不定休、としますがだいたい開いてます。
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