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ゆっくり終わる、時間をあげたい

靴箱の上の印鑑入れから、4回折りたたんだ小さな紙が出てきた。ざら半紙みたいな、粗末な紙片。なんだこれ?と開いてみてぎょっとする。


「手をむすんで。」

いつ、誰に、もらったんだろうか。どこかでいたずらをされて笑った記憶がうっすらと蘇る。「むすぶってあまり言わへんようになったなー」みたいな会話をしたような。「手をつないで。」はエロいかもしれないけど、「むすんで。」だとほほえましい。むすんで、ひらいて、みたいな? とか。

ポケットに入れて忘れてて、出かけるときに「なんか紙入ってるな」と出して、ぽんと靴箱に置いてそのままになったのだろうか。きっと他にも、ようわからんものを見過ごしたままずーっと何年も暮らしているにちがいない。

片付けは、記憶の探検だ。
昨秋父が亡くなり、実家という記憶のジャングルの探検がはじまった。

実家の電話番号


昭和生まれのわたしの電話の記憶は、やっぱり黒電話からはじまっている。幼稚園にあがるより前には、黒電話はモスグリーンに変わった。そのうち、ともだちの家は「プッシュホン」になったが、母はもう電話を変えようとしなかった。その後は、コードレスになるまでずっと、モスグリーンの電話のままだったと思う。

母は電話が大好きで、学校から帰るといつもおしゃべりする声がしていた。ともだち、親戚、おばあちゃん。電話口で母はよく笑い、ときに声をひそめた。「ふんふん、ふんふん」と相槌をうつのがおかしくて、姉とふたりで真似して叱られた。市内通話なら何分話しても10円、という時代。電話は、お嫁入り前の関係性をむすぶ大事なラインだったのだろう。

「この番号だけは忘れたらあかんのよ」

5、6歳の頃、わたしは電話番号を暗唱させられた。ひとりで遊びにいこうとすると、母に「おうちの電話番号言える?」と聞かれた。わたしは、番号に節をつけて歌うように繰り返してから家を出る。「なんかあったら電話するのよ!」と母の声が追いかけてくる。いつもポケットには10円玉が入っていた。

小学校にあがると、忘れ物をするたびに職員室横の赤電話に走っていって、ダイヤルが戻る時間ももどかしく番号を回した。「ママ、忘れ物した……」とべそをかくと、次の休み時間に母が忘れ物をもってきてくれる。リコーダーだの、体育館シューズだのを片手にもって高く振る、母の姿には無量の安堵があった。

この番号さえあれば母につながる。いつかけても「もしもし?」と澄んだあかるい声が聞こえて、安心できる。だいじょうぶ。そう思えていた記憶が、七桁の番号にまとわりついていたようだ。

母が亡くなり、父が亡くなり、いよいよ実家の電話番号を手放すと決めたとき、まるでアラジンのランプみたいに、電話番号からもくもくと思い出が現れてきた。わたしは思いのほか動揺して、子どもの頃と同じようにぽとぽと涙を落とした。いまだ心のどこかで、この番号さえ握っておけば大丈夫だと思っていたのかもしれない。もう、あの家には誰もいないし、あの電話もないのに。

おセンチだなと思ったけど、最後にもう一度だけ電話をかけてみた。

死者の目で、部屋を見渡してみた


ここ数年、姉とわたしは実家に帰るたびにせっせと捨て続けていた。自分たちが残していたもの、6年前に亡くなった母の古着や押し入れの奥で萎びていた寝具など。瞬時に「いらない」と判断できるものがたんまりあった。父の葬儀を終えて、何気なくかつてからっぽにした2階のタンスを開けて驚いた。父が着なくなった下着を詰め込んでいたのである。わざわざ2階に運ぶならゴミ袋に詰めて外に出すほうが楽なのに、なぜゆえにこんなことを?

「歳をとるとさ、モノを捨てると自分の存在がなくなる感じがするんじゃないかな」

同じく高齢のお父さんがいる友人は言う。なるほどそうかもしれない。買ったときの自分、それを着ていた自分を失っていく感覚があったのか。簡単にモノが買える世の中で少ないモノで生きるには、ある種の技術やセンス、強さが求められるのだと思う。それに、人間は”必要”だけでは生きられるものでもない。

母は実家の建て替え時、収納スペースづくりに血道をあげた。おかげで、全室に間口一間の押し入れ、さらには納戸まである。開けても開けても、モノが出てくる。おしゃれ好きだった母の洋服は、捨てても捨てても湧いて出るがごとくで、いまだ生きているわたしの洋服よりずっと多い。

キッチンの天袋からは、未使用の鍋、食器、ゴルフの景品でもらったらしいサイフォンセット等々。和室の床の間には母のお琴、縁側には父専用のクローゼットがあり、背広がぎっしり詰まっている。いずれも、着る人がいれば、使う人がいれば生かされるモノたちだ。持ち主を失って「いらないもの」に成り果ててしまった。

人が死んだら、モノも一緒に死んでしまう。

死者の目で、自分の部屋を見渡して思う。もし、明日わたしが死んだら、この部屋にあるすべては死んでしまう。わたしが、生きるために必要とするすべてのものが「いらないもの」に変わってしまうだろう。明日死ぬのなら、この部屋の99%はいらない。一ヶ月後に死ぬなら、次の季節の洋服はいらない。一年後なら?ーー時間軸によって部屋のモノたちは増えたり減ったりする。いつまでも生きる前提でいるからモノは増えていくのだ。

なんだか、いつまでも生きるつもりの自分がいやになってモノを整理しはじめた。洋服は「古着でワクチン」に25kg分送った。弾いていないギターは欲しい人にあげた。もう聴かないだろうレコードは友人のお店に引き取ってもらった。場合によっては、モノは買うより手放すほうがエネルギーがいる。それもまた、歳を取ると捨てられなくなる理由かもしれない。

部屋にぽかんと空洞ができただけで、日常の景色が変わる。断捨離とか、こんまりとかではない。今のわたしにとって片付けは、生きるとか、死ぬとかをたしかめることに近い。たぶん、これからの人生ではきっと「これはもう一生分やったな」と満足して手放すことが増えていくだろうな、と思う。

「捨てる」の反対は「所有する」ではない


週末、あられ降るなか、姉家族と一緒に父の納骨に行く。こんな寒い日に行かんでええのに、と寒がりの父に言われそうだなと思う。

不動産屋さんに来てもらって、実家の査定をお願いする。生まれてからずっと仲良くしてくれたご近所さんに不安のないように、相性の良い方にお譲りしたいと話す。合間に片付けをしていたら、初めて大相撲に行ったときに買ってもらったおもちゃが出てきた。

小さなコマ相撲セット。木の土俵のうえで小さな力士のコマを回して勝ち負けを決める。そーっとコマを回したら思い出した。あの日は、大相撲に行くために姉とふたり小学校を早退した。いつもとは違う誰もいない帰り道に心が浮き立っていたのだろうか。ふざけて木の電信柱によじ登り、太ももに赤く長い引っかき傷をつくった。家族そろってマス席で食べたお弁当、機嫌のよい父と母の華やいだ雰囲気。マッチ売りの少女が、擦ったマッチの明かりに幻影を見るように、コマが回っている間だけわたしは記憶に引きずりこまれた。

小さな文具店を営む友だちが、古い空き家から見つけた、同じコマ相撲を持っていると言う。土俵や軍配はないというのでセットごとあげた。今は彼女のお店の棚に、たくさんの力士が並んでいる。子どもたちがコマを回して相撲をとっているかもしれない。記憶から抜け出したお相撲さんたちは、時を超えてシコを踏んでいる。

捨てるの反対は所有するじゃない。たぶん、受け渡すだと思う。

誰もいない庭を、みんなの庭に

最寄り駅から実家まで、徒歩20分。帰るたびに、違うルートを選んで歩く。小学生の頃、学校からの帰り道はちょっとした探検で、6種類くらいのルートを発見したはずだけど、いくつかは思い出せなくなっている。家が建て替わって、道がわからなくなるときもある。なぜ、あの立派な家を取り壊したのか、どうしてこんな無個性な家を並べちゃったのか。それぞれの理由があるんだろうな、と思う。

家に着くと、窓という窓をすべて開け放つ。淀んだ空気が流れはじめて、お仏壇にあげる線香の煙がゆらゆら立ち昇って霧散する。お茶を淹れて郵便物を確認して、なんとなく庭に出る。一面、カラスノエンドウが生い茂っていた。しかたない、草引きしていくかと腰を落とした。ついでに、伸び過ぎた庭木の枝を剪定して積み上げると小さな山になった。

雪柳が散って、隣の小手鞠が咲き乱れていた。次はわたし!と言わんばかりに、その隣で山吹が葉を広げている。躑躅が満開で、世話もされていないのに菖蒲と紫蘭が咲きはじめていた。

両親は、何を思ってこれらの草木を選び、植えていたのだろうか。好きだった金木犀は高く背を伸ばしていた。沈丁花はどこにいったのか。紫陽花は?からだのなかに庭木の記憶がある。塀の向こうから「恭子ちゃん、帰ってきたん?」と声がかかる。ご近所さんたちが出てきて井戸端会議になる。

「今年は雪柳がものすごい咲いてたよ」
「もうすぐ薔薇が咲くねえ。おっちゃん、毎年伐ってくれはってね」

お隣さんやお向かいさんは、ベランダからうちの庭をよく見ているらしい。幼なじみの姉妹を、何十年ぶりかに庭に招き入れる。「あの奥に柿の木があるよね」「なつかしいね」とふたりが言う。ああ、みんなのからだのなかにも記憶があるんだなと思う。お花が咲いたら、好きなときに庭に入って伐ってね、と伝える。誰もいない庭は、みんなの庭になればいい。

ゆっくり死んでいく時間をあげたい


最近、いとこが祖母の着物をメルカリに出していると聞いた。祖母の家には蔵がある。母たちは子どもの頃、「悪いことしたら蔵に入れるよ!」と言われ、また実際に閉じ込められたらしい。蔵は恐ろしく、それがゆえに子どもの好奇心をくすぐった。祖母にねだって、何度か重い扉を開けてもらったが、そこに何があったかはまるで覚えていない。

いとこ曰く、蔵には祖母の着物もたくさん仕舞ってあるそうだ。祖母が九七歳で亡くなってもう二〇年は経つ。わたしが記憶する限り、和装の祖母は見たことがないから、もっと前から蔵で眠っていたということか。傷みもせず、よい品だからそれなりに売れているらしい。

祖母は明治末の生まれだ。彼女が生きた時代、モノをつくるのは人の手だった。ひとつのモノができるまでに、たくさんの手間と時間がかかっていた。つくる人がたくさんいるから、直してもらうこともできた。買うよりも、捨てるよりも、使い続けるほうが理に適っていた。

また、家を構えた人たちは、子世代に受け継いで暮らしつづけた。蔵なんかつくってしまう祖母の家などは、一代限りの発想ではつくられていない。だから、モノは家のなかでゆっくりと循環していた。亡くなった人の着物や道具は、その家を受け継いだ子世代で分け合い使い続けていく。だから、祖母が亡くなっても大きな片付けなどは必要なかった。

ところが、高度経済成長期を経て、モノをつくるのは人の手から機械へ、国内外の大きな工場での大量生産へと変化した。あまりにもたやすく、そして安価に手に入るモノたちに囲まれて、モノを使い続ける理屈は破綻した。ある時期から、両親はモノを使い捨てるようになった。ちっとも大切にしなくなった。逆説的だが、その態度への違和感が、わたしのモノとのつきあい方をかたちづくっている。

モノがゆっくり循環するには、そのための余白というか、時間と空間と人の手が必要なのだと思う。何十年もの間モノを保存できる、祖母の家の蔵はまさにその循環装置だ。また、祖母は九人もの子を産み、七人を育てあげた。数多い親族のなかに、たまたま祖母の着物に興味をもついとこが現れて、蔵の扉を開けることができた。手間をかけてつくられた着物だから、旅立つ先を見つけることもできた。

本来、人間の生きるとか死ぬとかは、一代限りではどうにもできないんだろうと思う。ひとりやふたり、ひとつの家族だけではどうにもならない。そのどうにもならなさは、この社会の生きづらさの根っこの一部にもなっている。祖母は今なお、ゆっくりと死んでいく時間を過ごしているけれど、わたしたちは両親にそれと同じだけの時間はあげられない。そうなんだけど、でも、と思う。

せめて、自分たちを育ててもらった家を終いゆくプロセスのなかで、立ち昇る記憶にフタをせずに言葉に置き換えようともがく。言葉にすることで時間をつくろうとしている。たぶん、言葉とは、どうしようもできないことのためにもあるのだ。

(つづく、かもしれない)




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