呪いの物語を綴る人 宮崎駿

皆さん、もし宮崎駿の映画に共通するものは何か?という質問を受けたら何を思い浮かべますか? 風の谷のナウシカ、崖の上のポニョ、などタイトルに「の」の字が入っている、これは大正解。少女が空を飛ぶシーンがある、これもきっと正解です。魔女の宅急便でキキは気持ちよさそうにほうき(途中からデッキブラシ)で空を飛んでいましたし、シータは飛行石の力で、千と千尋の神隠しでは、千は龍になったハクに乗って、風立ちぬでも(不本意ですが)菜緒子は空を飛んでゆきました。 

または、物語は決まってボーイミーツガールから始まる。これも正解です。パズーは空から落ちてきたシータと出会って、宗太は海からやってきたポニョと出会って、トンボはキキに一目ぼれして、物語は展開してゆきます。

特に天空の城ラピュタでは、パズーとシータは3回の出会いと別れを繰り返すことが物語の骨子になっています。最初は偶然の力で、空から落ちてきたシータをパズーが見つけて出会い、2回目は大人(ドーラ一家)の借りて、要塞に捕らわれたシータを救出し、そして3回目は、ムスカ破壊を止めるため、二人だけの力で出会いを果たします。(早く捨てて―のシーンです)このように、宮崎駿の映画では、少年と少女の出会い(と別れ)が構造化され、物語にテンポと緊張感を与えているのです。

さて、よく言われるように宮崎駿の映画、入口の敷居は低く、そして広く、子供から大人も、日本人だけでなく、外国人もみんなが、楽しめるように作らているけど、一方、出口は高く、設計されており、宮崎映画を解釈することは複雑で難解です。

僕が注目している宮崎映画の共通項は、彼の映画では、いつも誰かが「呪い」あるいは呪いともいえる無作為で理不尽な病や暴力によって心身を蝕まれているということです。この呪い、呪いに類するものを解き放つための冒険や覚悟、勇気、ときには諦めなど、登場人物の呪いへの思いと行動が宮崎映画の動力源として伏流しているのです。 ひとつひとつの映画を思い出してみましょう。

風の谷のナウシカでは、腐海の毒素、またその害悪の一部である蟲によって多くの登場人物が身体を蝕まれています。ナウシカの父ジルやミト爺の体の一部は石のように動かなくなり障害を負っています。またクシャナ殿下も蟲との戦いにより体を欠損しています。この映画では、彼らの痛みや苦しみが腐海への怒りや敬服の感情となって、登場人物たちが対峙してゆき、物語は最後のカタルシスへとたどり着きます(巨神兵のドーン)。

千と千尋の神隠しでは、千尋は湯ばあばの魔法によって、名前を変えられ囚われてしまいます(本人はそれほど苦痛ではなさそうだけど。)紅の豚のマルコは豚の姿に変えられてしまったし、ハウルの動く城のソフィーも魔女の魔法によっておばあさんに変えられてしまいました。魔女の宅急便のキキだって、一時的に魔法が使えなくなり、苦悩と葛藤が描かれています。となりのトトロのサツキとメイのお母さんは、当時、不治の病であった結核を患っています。物語の中で、苦しそうな表情をちっともみせなかったけど、当時、結核は、有用な抗生薬もなく、日本人の死因一位で深刻な病気でした。(あの一家、サツキちゃんとメイちゃんの明るさのおかげであまりダークサイドな部分はで表にでないけど、お母さん致死性の疾患だし、お父さんは大学の非常勤講師で非正規職員だし、けっこう破城するか否かギリギリのラインで生活していたのではないかと思います。)結核といえば、風立ちぬの菜緒子さんもそうでした。

宮崎映画は一見すると、美しい美術と明朗活発な登場人物が動き回る明るい世界観をイメージしがちですが、その実、多くの登場人物たちは不可避な呪いの力によって、呪縛され、苦痛を被り、時には死に至る、本質的にダークな作品なのです。

呪いといえば、宮崎映画の随一のダークファンタジー、もののけ姫を忘れてはいけません。この映画の登場人物(もしくは動物)のほとんど全員が、なんらかの呪いに憑依されています。序盤、村にやってきたタタリ神(人によって住処を奪われ殺されかかった元猪)がアシタカに死の呪いを掛けられ旅立つところから始まります。物語の始まりからすでに呪いアクセル全開です。村のおじいさんもいっていましたが、アシタカは村を守るために、タタリ神と戦ったのであって、その代償として呪いをかけられてしまうことは理不尽でしかありません。この映画ではずっとアシタカは呪いに苦しんでいます。腕がしびれたり、勝手に動いたり、人ならざる力を開放して死にそうになったり、こんな痛々しい映画の主人公は他に多くはありません。

現在、2022年公開に向けて宮崎監督は新作の制作を進めています。次作がどのような呪いの映画になるか、今から楽しみです!


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