吃音と向き合うというより自分と向き合う
俺はずっとずっと自分の生きづらさは「吃音」に原因があると思っていた。しかし、それは少し違うと今になると思う。「吃音」に原因があるとすれば、吃音についてたくさん勉強したり、吃音を抱えながら生きている人の意見をたくさん聞いたりして、克服するなり諦めたりすれば良いということになる。しかし、俺はたぶん吃音を持っていなくても、デフォルトで生きづらさを感じる人間だ。幼稚園でみんなが普通にドッチボールをしていることが不思議で自分だけなぜな参加できなかったところから生きづらさは始まっている。その時は吃音なんか関係なく自分は何がしたいのかがよく分からないことが何となく苦しかった。そんな奴は大人になってもどうしても生きているだけで苦しくなってしまうのだ。そういう人間がたまたま「吃音」を持っているという風に考えなければならない。
これからは、吃音と向き合うのではなく、吃音を持っている「自分」と徹底的に向き合う必要がある。自分の症状に対して自分はどう感じるのか、何が嫌なのか。そしてそう感じてしまう上で、自分はこれからどうしたいのか。自分が今までにしてきた色んな経験から自分を炙り出していかないといけない。20代は特に充分過ぎるほど吃音とは向き合ってきたと思う。ボランティアに行って中高生相手に話す練習をしたり、コミュニティに行って吃音の先輩の話をたくさん聞いたり、自分の症状的に一番苦しい状況が多い飲食のアルバイトに飛び込んでみたり。吃音を曝け出して就活の面接に挑んでみたり、入社時の挨拶で苦手な「おはようございます」を誤魔化すことなく吃りながら言ったり。逆に話すことが辛くなりすぎて二年間ほぼ話さずに事務作業をしていたり。死ぬほど苦しいこともたくさんあったが、吃音が自分の中で全く気にならなくなった時期もあった。それは紛れもなく自分の努力によるものだったと、自分を褒めてあげたい。
色々経て今年28歳の年の4月、結局人と関わるのが急激に怖くなってしまった。もとろん吃音が苦しいのは事実としてあるけど、結局自分はこの社会で過ごすことが苦しくなってしまう「性質」を持っている。吃音が全く無かったとしても自分は社会で潰れてしまう可能性を孕んでいる気がする。そういう自分をしっかり受け入れる。自分の性質を考えて道を探っていく。絶対に自分が活きる道があるはず。
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