疲れた

先月28歳になった。
なんか、生きることに疲れた。疲れすぎた。
やっぱり社会で生きるって俺にとっては並大抵のことではない。難易度が高すぎる。

高校卒業後、大人になるために成長しようと自分なりに必死に頑張った。もともと人とコミュニケーションを取るのが得意じゃないし、自動的に発動するネガティブ思考に苦しめられるし、生きてるだけで自分の存在が恥ずかしくなるし、周りからは普通に見られがちだけど自分の中では何か本当に周りの人と同じように生きれないとずっと思ってきた。そんな自分を変えるために毛嫌いしていた飲み会や、自分の男としての価値が測られるのが怖くて逃げ続けていた恋愛にも必死になった。それをすること自体、自分から離れる行為で心身をすり減らすけど、若さゆえの強い成長欲で頑張ってきた。吃音を克服するためにボランティアに行ったり、吃音者が集まるコミュニティでスピーチする機会を頂き、百人ほどの前で経験談を語ったりもした。吃音でまともに言葉が出ずに苦しんでいた時、まさに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで挑戦したコーヒーチェーンでの接客のアルバイトは運良く自分の吃音人生に光を差す転機となった。20代前半は他の人から見たらそんなことかよと思われるようなことにとにかく必死になり汗をかいてきた。その先にみんなと同じような普通の感覚の人間になれると信じ込み、努力をしてきたつもりだ。

自分のフォームを崩しながらフラフラで就活をし、何とか入った会社で5年間働いたが、とうとう生きることに疲れて動けなくなってしまった。色々頑張って大きくなったと思っていたが、自分はやっぱり自分だった。誰に相談しても考えすぎとかもっと気楽に適当に考えて生きればいいと言われる。でも、俺みたいな気が小さくてしょぼい人間は頑張って成長しないと社会でまともに生きられない。適当に楽観的に社会に居座り続けるのも、必死に社会にしがみつくのも難しい。苦しすぎる。

そもそも俺が大学生の頃に目指していたものってなんだったのか考えた。それは一言で言うと「みんなと同じようになること」。みんなと同じというのは楽だ。誰からも何も言われることはないし、世間的にも社会的にも正しく動いているように見られる。でも俺はそれができない。みんなと同じになることをずっとずっと頑張ってきたけどその結果潰れてしまった。みんなと同じように生きればいいってもんじゃない。でも、みんなに合わせないと人との繋がりによる喜びは生まれない。みんなに合わせながら自分に色を出す、自分を出しながらみんなの色に溶け込む。こんなに難しいこと俺にはなかなかできない。と言ってもまだ28歳。休憩してまた生き方を考えればいい。

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