「スムーズ喋る」ということへの拘り
昨日の昼、地元のラーメン屋でラーメンを食べたときの話。
店内はよくあるカウンタータイプでその時客は俺一人だった。
つけ麺を食べようかと迷ったが、初めての店だったので、一番人気のシンプルな中華そばの券を買い、威勢の良い短髪の店長に渡した。
待つこと数分、美味しそうな中華そばが出てきた。お腹が空いていた俺はすぐに中華そばを平らげた。
俺は「ごちそうさまでした。美味しかったです。」と店長に一言言って店を出たかった。基本的に飲食店で店を後にする時、「ごちそうさまでした」は言いたい。
でも、俺の吃音の厄介のところはこういう決まった言葉が出てこない時は本当に出てこない。「ごちそうさまでした」を言おうと思ったら、「ご、ご、ご、ご、ご、ご…………ごちそうさまでした」みたいになってしまう。
店長はその時厨房にいたし、お金は券売機で買う時に支払い済みなので、別に言わずに店を出て行くことはできる。でも、自分としてはそれはしたくない。「ごちそうさまでした」を伝えたい。とはいえ、わざわざ厨房で仕事をしている店長に10秒くらいかけてぎこちないごちそうさまを伝える必要もないと思ってしまう自分もいる。俺はやっぱり「ごちそうさま」を言おうと思い、「ご」を発音しようと思って一人カウンターで「ご…………………」と言ってる間に店長が厨房から出てきて、「ありがとうございました〜」と食べ終わった器を持って厨房に帰っていった。結局「ごちそうさまでした」を満足に言えず、下を向きながら自分にしか聞こえない小さい「ごちそうさま」を何故か早口で吐き出し、店を後にした。
吃音かもしれないけど誰も気にしてないよ
どもってもゆっくり話せば伝わるよ
俺に寄り添ってくれる人はそういう言葉をかけてくれるが、俺の日常にはこういうストレスが常に溢れている。挨拶とか相手の名前を呼ぶとか、それをするだけでお互いに気持ちよくなるようなコミュニケーションをしたくてもできない瞬間が数えきれない程ある。俺が吃っても頑張って言おうとしていても、俺が吃音だということを知らない相手はその不自然な間を自然に埋めてくる(それは何も悪いことじゃなく、普通のこと)。そうすると、もう挨拶をするのも名前を呼ぶのも放棄したくなる。でもそうすると、社会で良いコミュニケーションが取れていない自分に嫌気がさして苦しくなる。だから頑張ってみるけど詰まりながら話す痛々しさに自分で耐えられない。
接客バイトや就活を経て一時はそのストレスがほぼ無かった時期があった。ラーメン屋でも元気に「ごちそうさま」を言えていた。でも今は「ごちそうさま」もろくに言えないからラーメン屋に行くにも億劫になる。吃音でスムーズに喋れない自分を割り切って生きるような大人にまだまだなりきれていないことにも腹が立つ。一回理想の自分になれたから、またなれるはず。でもそのためには、また無様で痛々しい自分に耐えながら喋ることを頑張る日々が必要なんだと思う。
俺は「スムーズに喋れる自分」をどうしても諦めきれない。吃音を気にせずにスムーズに喋れたら、この世の中が1.5倍くらい楽しくなることを俺は知っているからどうしても諦めきれない。
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