吃音くそ

吃音が苦しい。
今は吃音による二次被害的なものが苦しい。頑張っても頑張っても報われないのが苦しい。28歳にもなって自分の吃音とうまく付き合っていけてないのが悔しい。吃音もそうだけど自分の人生を進めていくセンスのなさにも絶望してしまう。
友達や家族や上司や同僚など誰に話しても気にすることはないと言われるけど、そのアドバイスに応えたり優しさにもたれかかれない自分が苦しい。でもその一方で全員一回吃音になってから言ってくれとも思ってしまう。みんなそれぞれの苦しみがあるのは分かっているけど吃音の苦しみを一回味わってみろ。どれだけしんどいか。苦しいか。普通に話せているように見えているかもしれないが、頭の中や身体が話すたびにどれだけ痛くなるか。吃音じゃない人は絶対に吃音の苦しみはわからない。
もっと言うと吃音を持っていても俺の苦しみは俺以外の人にはわからない。

それと同じでどれだけ恵まれているように見える人でも、その人が抱える苦しみは俺には絶対にわからない。
だから俺が吃音で唯一良かったと思えるのは、他人の心の奥底に寄り添って、人の話に耳を傾けできるだけ優しくできることだと自負している。しかし、効率性や利益を追求する社会の中で、その類の優しさはあまり意味を持たないことを知ってしまった。一度は自分なりに克服した吃音にまた苦しめられ、会社を辞める決断をした。

最近は本当に生きたくないとよく感じてしまう。目の前が真っ暗になっている。


吃音というのは日常生活の会話において相当な支障をきたす。
今の俺は話そうとするだけで脳と喉がギュッと締め付けられた感じになってしまう。
もはや言葉に詰まる詰まらないなんて関係なく、話そうとするだけで身体的・精神的にダメージを受けてしまう。多分トラウマってやつだと思う。今の俺は自分でも異常だと思う。これは吃音に悩んでいるのか吃音以外の他のこと悩んでいるのか、それすら分からない。もう生きたくない。でも生きたい。いやこんな状態なら生きたくない。いやいややっぱり生きたい。そんな状態。

昔は吃音の苦しみがあってもサッカーに救われたりお笑いに救われたり、自分が生きる楽しみがあった。吃音というマイナスを上回るほど感情が揺さぶられることに溢れていたから、この世界全体を否定するようなことはなかった。でも今はサッカーもお笑いも昔ほど自分を生かせてくれる効果がなくなってしまった。友達も遠くにいってしまったし家族にいつまでも頼る訳にも行かない。

話すことは人間がこの世界、社会で生きていく上での真っ先に必要な基礎能力なのに、吃音があるとそれができない。サッカーをするのに戦術や難しいテクニック以前に最低限のボール扱いや走力が必要なのと同じで、日常生活ましてや社会生活を送るのにスムーズに話すことは必須の能力なのに、その能力が欠落しているから、生きることが本当に苦しくなる。こういう話をするとありがたいことにスムーズに話す能力なんて必須じゃない、吃音でも相手に伝わればそれでいいとか言われるけど、社会は挨拶くらいは誰でもできる、もっとはっきり声を出せとか平気でみんな言ってくる。吃音じゃなかったら当たり前すぎて、そういう前提がどんだけしんどいか分からない。
別にそういう社会や分からない人が悪いと言ってるわけではなく、そういう環境で生きてく術がなかなか分からない自分に腹が立っているだけ。だからここに書いてるだけ。


今は人と話す状況が全て苦しい。脳と喉に明確なダメージを受けていることが自分で分かる。だからといって人と話す状況を全て遮断すればいいという単純な問題でもない。なぜなら、この世界は人と話さないと生きていけないし、人と話すことで最高の瞬間が生まれることを知っているから。
今は誰とも話してない時間も苦しくなってしまう。多分社会に自分が完全に馴染めていないことが分かってしまったからだと思う。誰かといてもしんどい。一人でいてもしんどい。マジで爆発しそうになる。ずっと叫んでいないと身体が爆発してしまいそうだ。だから文章の構成なんか一ミリも気にせずこうやって誰にもわからない思いや苦しみをnoteに吐き出している。これくらい許してくれ。クソクソクソクソクソ。

今はこうやって吐き出すことしかできなくなってしまったけど、また絶対に復活する。
吐き出すだけでは納得できる自分にはなれないことも分かっている。
絶対生きていく。納得できる自分で生きていく。

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