
【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』序説(4/4)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約1000文字)
ここに一つ、どれほど強調したとしても、し足りない事実がある。
そうと決めるから、そう見えるのだ。
言葉は対象の、ほんの一面しか表さない。たとえその一面が、どれほど的確に表されていたとしても、全体の姿には、遠く及ばない。
そうであるのに、またそうと言われれば誰もが分かっていながら、何か一つの言葉に決められた途端それそのものでしかないように、見えてしまう。
そうでないものには見えなくなる。そして見える通りに扱い出す。それが正しいと思い込み、やがて疑いも持たなくなる。誤りと、認めるわけにはいかなくなる。誤りを続けてきた歳月に年数に、その重みに耐え切れなくなる。それでますます正しさを、塗り固めるように信じ込む。
これまで数多くの言葉が問題とされ、実態を誤認させるもの差別的の意識を植え付けるものとして、世間に向けて使われるべき正しい言葉の一覧からは消えていったが、実は決める行為そのものと、決めるために使われる全ての言葉が共通して、同じ罪をはらんでいる。
「泣き疲れて、寝入ってしまいまして」
控えの部屋に置かれていた、洋風の長椅子の上に横たえられて、子供は眠っていた。父の外套を掛けられて、頬を伝った涙やここ数日のうちに刻まれたシワなども、寝入った後で女中か義視か、あるいは二人ともが綺麗に拭き整えたのだろう。生まれてこの方この世には何の苦しみも見出していないかのような、愛らしい寝顔だった。
「疲れただろう。お前も、少し休め」
主人の仰せに女中は、「かたじけのうございます」と深く頭を下げたものの、戸口の手前で振り返り小首を傾げつつ部屋を出た。これまでは「おトヨさん」か子供たちといる時には「おばさん」と。
いいからおばさんも休みなさい、みたいに気安い言い方を、してくれていたのに。
「義視」
はい、と義視は目を上げて、正面に立つ父の背中を見た。
「覚悟しておきなさい。コイツをもう弟とは、思わないように」
胸を、貫かれるような衝撃を感じたが、義視は長い息を吐いて諦めた。これから弟が、いや自分たちが行かされる場所に、これまで通りの親しさやワガママとされる振る舞いなどは、許されない。そう思い込んでいたからだ。
「私も、我が子とは思わない。私はコイツを、今後一切」
子供に落とした目を父は、しかし声を出す前にしっかりと閉じた。
「愛さない事に、決めた」
子供に向けて漆黒の幕を引き下ろす、自らのしなび始めた手を感じた。
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