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『虹の女神』第4話:炎と嵐

 第1話(末尾に全6話のリンクあり)
(文字数:約6300文字)


第四話 炎と嵐

 フサにも桂壽にも意外だったのだが、続きの部屋に出てみるとそこには、誰もいなかった。
 床は水浸しだったので、二人とも履き物を履き、本来の家屋であれば土間に当たる位置の、表戸代わりの布の手前でフサは、立ち止まる。
 布の向こうにはまだ雨音が続いている。
「あたしは……」
 フサが、背を向けたままで言い出した。
「オトちゃんば、ほんに妹んごと思いよった……」
「そいは……、知っちゃおるないどん……」
 うちは六人兄弟だ、オトはもう一人の妹だと、オトに幹雄ばかりを可愛がるので幼いうちはツタがすねて、よく泣きながら桂壽に寄り付いて来た。
「そがんじゃ、なくて本当に、血のつながった妹て……、ツタと変わらんごと思いよったと」
 言われて思い返せば他所の子には、ちょっと異様なほどの肩入れだった。
「同じ家の内で暮らされん、隣の家の子になりよるとは、そいは……」
 決して口にしてはならないと、固く思い込んだ者特有の、声の震えが表れる。
「ヤケしゃんの、子供やいけん……」
 打ち明けられても桂壽には、生憎だが考えが追い付かない。それと言うのも、シエさんが、雨の中を隣の家に逃げ込んで来た時腕には乳飲み子を抱えていたという話で、つまりヤケしゃんとオトに血の繋がりは無い事なら、村中の、誰もが知っていると思っていたのだが。
「その、シエさんの子が幹雄で、うちに女は三人も要らんて、取り替えられたとやねって……」
「なして……、そげん風な思い込みば?」
「思い込みじゃ、なかとよ」
 あんたには分からんやろうけど、などと続いてきそうな口ぶりだったが、桂壽も桂壽なりに分かっている。卵売りの、手伝いに入ってからはより一層、それはもう存分に。
「心根では好いておった人と、人目ば盗んで結ばれたり……、子供同士が遊びんごとやったり……、夫ば亡くさした奥さんの所に、若か者は夜中忍び込みに行ったりして……」
 その、奥さんももちろん訪ねに行くし、ひと口には語り切れない胸の内も聞かされている。更に言えば、日々聞かされる困り事の半分は、その中から深刻な物を選び出せば実に八割近くが、出来た子をどうするか、父親は誰と思われるか、どこの誰の子にしておいたならば後々まで問題が生じないか、またそうする事は可能か、どうしても困難が生じる場合には、温泉町などに里子の話はあるか、といった諸々だ。
「そげん話ばあたしは、小さか頃からもう散々、聞かされよった。あたしは長女やいけん、賢く育たんばならんけんて、ばあちゃんから」
 ヤケしゃんが現れる前の世代では、もちろん女達の胸三寸に、納められてきた話だ。納め切れず対処が上手くいかずに、夫や親にも知れてしまった例が、三郎になる。
 女側の意志などは、考慮されない。子が出来たならそれは、女側も存分に喜んだ証とされる。そんなはずもない事は、聞かされていればすぐに分かるが。
「ヤケしゃんと、母ちゃんはちょっと他所の目にも、おかしかごと仲ん良かったし」
「友達の、嫁さんじゃいけんな。お互いむげにもされんじゃろ」
「シエさんは、オトちゃんの事ちっとも可愛がりよらん。構い付けんでよぉうちに、遊ばせに来させよったし」
「そがん風に、見えておったとは思うばってん」
「今日だって、なしてうちん母ちゃんの付いて歩くと? ほんに自分の娘やったら……」
 振り向いてきた姉の涙目に、もう黙っておく事は不可能だ、と判断した。
「シエさんは日の高かうちは、家ん敷地から一歩も出歩き切らん」
 打ち明けたもののフサの表情はまずきょとんとしている。もう少し、気を遣いながらの言葉を、足していかなければ。
「無理に出させようとしたなら発作の起こる。村の誰からも嫌われよるて、シエさん本人の、固く思い込んでしまいよるけん」
 どういった発作かを、言葉だけで説明するのは難しく、必要以上に恐ろしげな印象を与えてしまう。訊かれる前にその周辺の話をした。
「そばに付いて歩いたなら、オトちゃんまで嫌われるて」
「あたし達は何もそがん……、いじめてきたつもりは無かとけど」
「村に来らす前にもう一生分はいじめられとる」
 桂壽は聞かされていないけれど、話したがらない義父が、聞かされた内容を思い出すだけで胸をムカつかせる様子を見せられている。
「普通ん人の二生分、三生分かも分からん。オイ達に悪気は無くたってん、並みひと通りの接し方で、取り除け切れるもんじゃなか」
 発作を引き起こすだけの出来事も、実際のところあったのだろう。ヤケしゃんの妻になってひと度出歩いた途端、ヤケしゃんを立ててくれだのヤケしゃんの妻らしくあってくれだの、ヤケしゃんの子を産んでくれだの、ヤケしゃんと、本当に血の繋がった子を作ってくれだの、悪気も無く笑顔に取り巻かれながら、言われていそうだ。
「自分の娘ば、他所の奥さんと作った子に思われておったとも、もしかして耳に入っておらしたなら、相当ないじめんごと思えたじゃろうし」
 卵売りを手伝い出して尚更身に染みた事だが、悪気が無い、というのは決して罪が無い事にはならない。
「それ以前に今日のこの騒ぎは何な」
 伸ばした手の甲で、軽く表戸の布を叩いた。
「仮にじゃあるけどもオイ達は、家まで建てさせられて」
 布越しの外は次第に明るくなっているようだが、雨漏りはポツリポツリと残っている。
「そいけんあたしにはこん話が、初めから信じ切れんでおると。あんたがとんでもなか勘違いば、させられとるとじゃなかねって」
「一年もか? 何ば習わされとるとやオイは」
「誰かに仕事ば、継いでもらいたかとは本当やろ。そいけど……」
 誰もいないひと間を、見渡す目線がまだ憎々しげだ。
「父ちゃんは今、なしておらんと?」
「雨漏りのひどかけんで外に出て行ったとじゃなかか?」
「ヤケしゃんは、なして幹雄と連れ立って、出て行った切り戻って来らんとね」
「諦めるごと、話ばしてくれよらすて思う」
「のんきか事ば言いよるけどあんた、こがんしとる間に、オトちゃんと、幹雄ば二人で他所に逃がされたらどがんすると?」
「はぁあ?」
 煙草が、吸いたい気分にもなってきたが、そもそも村では贅沢品で次男などが持ち歩ける品では無く、卵売りを初めてからは歩き回るために肺は健康な方が良いと、勧められても断っている。
「逃げるも何もオトちゃんに、何の逃げる理由のあるな」
「幹雄と一緒になりたかけんやろ!」
「そがん気持ちはオイは何も聞いちょらんて!」
 そして本当に聞いた事はやはりこの期に及んでも言いたくはない。
「あたし達、ずいぶん待ちよるとにオトちゃん……、ここにはちっとも来てくれんやなかね」
「雨の降りようけん思うたようには進まんとじゃろ」
「ヤケしゃんも、二人に付いて行って、卵売りは全部あんたに押し付けてから」
「どんだけ悪か人な。姉ちゃんの中でヤケしゃんは」
「母ちゃんと、ずっとみんなば、あたし達ば騙しよる人よ! 信じ切れるわけんなかやかね!」
「そいけんそん元の話からウソっぱちじゃろうが!」
 姉も混乱しているが、元が混乱した話なので引きずられて自分まで、混乱しそうだ。
「姉ちゃん。姉ちゃんちっと、良かな」
 一旦目を逸らしうつむいて、息を吸う。
「オイは、そがんも悪か人に、一年もただ騙されっぱなしでおるほどには、阿呆じゃなかぞ」
 その時点で既に侮られていたようで腹が立っているが、姉は子供の頃からを、ずっと騙されていたようなので不問に処そう。
「そいでから、この一年の間にオイが見て来た事は、どいもこいも……」
 どちらかと言うとそうしたものが、騙された頭には何一つ、見えても伝わり切れてもいなかった事に、深く傷付く。
「ヤケしゃんは、すごか人じゃて、ヤケしゃんにはかない切らんて、思わされて悩まされるもんばっかしじゃ。こいの跡ば継がんばて、どがんしたら良かろかいて……、オイに継ぎ得るもんなて、本当に……」
 何を思って口にしても、見えていなかった者にはつるつると、滑り逃げるように思えて口をつぐんだ。自分の側の、気持ちのようなものはどうでもいい。はっきり言える事だけを、聞かせるべきだ。
「そがんとば、オイに押し付けて逃げ切れる人じゃなか。今更逃げるような者ならそもそも始めてもおらんし、今の今まで続けてもおらん。悪か言い方ばするばってん、姉ちゃん」
 腹の底に力を入れて出来るだけ、落ち着いた声を出すように努める。
「考えたなら分かる」
 カチンと来たようだがその分、冷静にもなってくれたようだ。
「オトちゃんの、気持ちは? あんたと一緒になるつもりはあると?」
「そん、『一緒になる』て言い方がオイはどうも好かん」
 フサにとっては今どうでもいい、ますます苛立たせるところだとは、分かってはいるが。
「一緒に、なり得るもんな。元々全く違いよる、人間二人が」
「そしたら何ね。他にどがん言い方のあると?」
「結婚じゃろ」
 桂壽にはこの一年でもはや疑問にも感じなくなった言い方だが、
「ケッコン……?」
 村の内では話になら聞いていても、まだ血肉のようには馴染んでいない言い方だった。
「オイが夫で、オトちゃんが妻で、ヤケしゃんの家ば継ぐ、て国にまずは届けるだけの、言うたなら手続きじゃ」
 見合わせた姉の目がまずは二、三回、瞬いている。
「そいだけ……? あんたの、思いよるとは……」
「そいだけて。そいがまずは出発点じゃなかな。一生ば仲良う暮らし得るかなんぞ、先の見えるわけでもなし分かりもせん。暮らし出したなり何もかもば夫と夫の家族に従わんばごと、思い込まされよるけんしんどかとじゃ」
 姉ちゃんも、と舌に乗りかけたがやめておいた。何せ村中が今はまだ、そうあるべきだと信じ込んでいる。
「そしたら、その……」
 あからさまに戸惑って、フサはまだ考えが追い付いていない。
「オトちゃんは……、あんたと、その、ケッコン、するつもりは、あると?」
「ああ」
「幹雄とは……」
「何っも無かぞ。オトちゃんは、幹雄とは!」
 え、と素で驚いた声が尚更癪に障った。
「ひょっとしたら姉ちゃんが、そこから思い込みよるとなら腹ん立つけん、はっきり聞かせておくけども!」
「そいけどあたしは、確かに二人が付き合うとるごと……」
「幹雄の側からしか聞かされちゃおらんとじゃなかか? そいか、二人ともまだよっぽど子供ん頃に、聞かされておるか。少なくとも、結婚の話ば最初に知らされた時は、オトちゃんは『家から離れとうなか』て泣きよったぞ」
 泣かれてそれで、自分とではそんなに嫌なのか、とまず早合点した事は伏せておいた。
「『父ちゃん母ちゃんと、離れて暮らしとうなか』て」
 くっきりした目を見開いて、姉はずいぶん驚かされたようだ。桂壽には、それほど大した文言に思えなかったのだが、固く思い込まされていたものが、雷にでも撃たれたようにガラガラと、崩れ落ちているらしい。
「まだ、子供じゃろうが。そいけん今日まで一年も延びたとじゃ」
 おかげで卵売りをひと通り、見聞きさせてもらえて、即結婚したよりは今後がはるかにしのぎやすいとは思うが。
「そう……」
 フサはいつになくぼんやりしている。
「あんたはオトちゃんは、好いとると?」
「ああ」
「いつからね」
 今更、に思えたが口に出せる限りは、そのまま答えた方が良い。
「話の、持ち上がってからじゃな。そいまでは、なるべく気の行かんようにしよった」
 監督役だった自分は怖がられ、嫌われているのだろうと思っていたし、幹雄と関係があるのではないか、幹雄の方が良かったのではないかと、思い返せば何という事もない、この一年の間に通り過ぎた事を、姉の口から改めて蒸し返されただけだ。
「ヤケしゃんとは、上手かごと、仲良うやれよると?」
「ああ」
「シエさんとも」
「ああ」
義母かあしゃんて、呼びよったね」
「家の内でじゃそがんやろ。ヤケしゃんの事も、家ん中でじゃ『義父とうしゃん』て呼びよるし」
 吹き出す声がしてフサが、小さく笑い出した。
「そいは……、ちっとおかしか感じのする」
 姉には珍しく、口元にも目元にもやわらかな笑みが乗っている。
「オトちゃんからは、好かれとると?」
「分かるもんな。そがんとは」
「あんたの、感じでは」
 促されて少し、考えてから口にした。
「嫌われては、おらんじゃろて思うし、こいからも嫌われんごと、気は遣うて行くつもりはある」
「まわりくどかね。相変わらず」
「はっきりとは言い切らん事じゃけんな」
 感じに、気持ちのようなものは当てにならず、互いに探り合い押し付け合っては混乱するばかりで、切り捨てて生きられるものならどれほど楽か、と桂壽は幼い頃から思っていたが、
「そいばってん……、本当に、あんたと結婚するとなら……」
 笑みを残したままうつむいた、姉の声が細かく震え出した。
「あたしは……、なんも母ちゃんば、悪か人のごと思うたり……、幹雄ば他所ん子とか……、ヤケしゃんの事ば腹ん底では、寄り付きとうもなか汚ならしか人のごと……、思うておりたくはなかったとけど……」
 うつむいた頬に伝い落ちる、と気付くが早いかフサの方では、桂壽に背を向けてうずくまった。
「もっと……、子供らしゅうに甘えたかった……!」
 両耳を固く塞ぎたいように、落とした頭を抱えている。
「賢くなんて、なりとうなかった……! 長女やいけんて……、怖か話ばかり、気持ちん悪か話ばっかり聞かされとうなかった……!」
 祖母が生きていた頃と言えば、姉はせいぜい十歳前後で、そうした話は受け入れて飲み込み切れるどころか、必要以上に恐ろしいものに響かせたはずだ。
「あんた達は……、あんたもツタも……、何も知らされんでのんきに暮らし切れて良かねて……」
 深い傷にもなっただろうと、思いやられるところもあるが、
「ちっちゃか頃はつい……、いじめるごたる事もしよったけど……」
 は、とつい呆れ尽くした溜め息が出た。
「申し訳ん無かばってん姉ちゃん、何の言い訳にもなりよらん」
 うずくまったままでフサがまず、振り向いて来る。
「いじめられた側にはそっちの、気持ちんごたるもんはなん、関係の無か」
 立ち上がるついでに、涙を拭き、桂壽に向き合ったところで息を、吸い切った頬が赤くなった。
「人が……、せっかく素直に謝りよるとに……!」
「謝りよるて? 素直か今んとが? オイには今更どげんしようもなか、恨み言ばただ聞かされたようにしか思えんじゃったぞ?」
「ムスッと黙り込んでおってから、口ば開いたならナマイキ……!」
 幼い頃から骨の髓にまで馴染みのある言い合いだ。お互い腹を立てているはずなのだが、もはや快さに面白みまで感じる。
「オイはただただ姉ちゃんとは、昔っから気の合い切らんだけじゃ。気の合わんだけで好いとらんとも、世話になっちょらん有難く思えよらんとも思いよらん。礼ば言うても素直に聞き切らんとは、姉ちゃんの方じゃろうが!」
「身内から、真っ向から言われて素直に聞き得るもんね!」
「意味ん分からん! 口に出し切らんもんの、そんままで相手に伝わり得るもんな!」
「ひっちゃかましかなぁ! 外にまで聞こえよっぞ二人して!」
 表戸代わりの布が開き日の光が強く射し込んで来た。話している間に雨は上がったらしく、逆光で暗い父の背後に見える空は青い。
「桂壽」
 席を長く離れた事を咎められるかと思ったが、父は笑みを見せた。
「ちょうど良かった。外に出れ。花嫁ん見えたぞ」


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