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愛と敬意

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 要らない気がするかもしれないが、
 贈り物だ。

(文字数:約1700文字)



不幸自慢をしている気がしない

  私の両親は私の事を、
  「たっぷりの愛情で包み込み、
   守るように育てた」
  と思い込んでいるのだが、

  「一族の呪いが寄せ集められた、
   この先不幸にしかならないだろう、
   生まれて来なければ良かった失敗作」
  だとも、
  同時に思い込んでいた。

  自分たちで思い込むだけならまだしも
  物心つく以前から世間一般の常識のように、
  笑顔で言い聞かせてくれていた。

  正常にまともに育った人間であれば、
  お前を嫌うし嘲笑うに決まっている。

  お前は頭がおかしいから、
  自分が人よりも明らかに、
  劣っている事実に気付けないんだと、

  ごく普通に毎日聞かされ続けたもので、

  実は不幸自慢をしている気がしない。
  冷静に事実を書き連ねている感覚だ。

  しかし思い出話がほとんど全て、
  実質的に虐げられている場合に、
  果たしてどうしたらいいものか。
  誰に何の雑談が出来るものか。


敬意の所在を一度考えてみてほしい

  両親は極端な悪例だが、

  この国においては、
  結構多くの方々が、

  「敬意を払うべき対象は、
   偉い人、

   より簡単な基準で測るならば、
   稼げる人、
   所属集団に利益をもたらす人、
   であって、

   自分と、
   自分に最も身近な家族友人たちは、
   敬意を受けるに値しない」
  みたいに、

  易々と思い込まされてしまってはいないか。

  甘いな。
  神々の目線で見たなら実に。

  敬意を払うべき対象は、
  常日頃の身近にこそ存在しているものを。

  日々の空気に水に食糧に物品に、
  直接会って話してはいなくても、
  それらを成し育て作り上げ、
  今日の私の目の前に届けてくれた人々だ。

  もちろんそれらを整えた家族も含まれる。
  敬意を払わず済まし切れる、
  合間など無い。


「愛かお金か」などという戯言

  「愛かお金か」などという問いは、
  敢えて戯言と言い切らせてもらう。

  愛と敬意は不可分だ。

  お金などは所詮、
  「敬意、の最も簡便、かつ、
   誰の目にも容易に判別がつく、
   と思われかねない危険な指標」
  でしかない。

  愛と感謝、がよく説かれるが、
  愛と感謝は密接同等であり、
  実は並列表記するほどの差分が無い。

  敬意が無い愛は存在し、
  往々にして最悪の形になる。

  しかし敬意さえ確かなら言動には、
  自ずと愛が添えられるものだ。

  日常的に周囲に対して敬意を払い続ける事が、
  苦痛であるように、
  自分ばかりが損をしているように、
  感じない方法が一つだけある。

  他の誰よりも自分自身こそが、
  敬意に値すると気付く事だ。

  自身に敬意を払えたなら、
  他者への敬意など、
  湯水のごとく湧き出す。

  愛こそがそれだと語られるが、
  それはキリスト教的な表現であり、
  この国古来からの言い回しにおける、
  愛だとは感じ切れない。

  まず敬意を身近に戻せ。
  クリスマス当日の朝に敢えて言う。

  この国では、
  自他への敬意を基礎に据えてこそ、
  誰もが幸せを感じ取れる。

  裏を返せばただそれだけでいい。
  ならば私はどちらを選ぶか、
  と言うだけの話だ。


おまけのアドベントカレンダー

 雪を被った想定らしい、
 磨き込んだ歯車や機械部品を積み重ねて、
 白と言うよりは銀色に輝く、
 クリスマスツリーのオブジェを買って、

 当時は付き合いたてだった、
 今の配偶者の家に赴いた事。

 「私はこういうトリッキーなツリーを、
  わざわざ選ぶ人間です」
 と示したくもあったし、
 「こうしたツリーこそ邪魔にならず、
  気に入ってもらえそうだ」
 という目論見もあった。

 今そのツリーは天袋に仕舞われているが、
 役割は果たされたので良いだろう。


以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。

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偏光
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