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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ四(6/6)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約2400文字)
かなり後になって思い返せば、また別の人生に、大きく変われていたかもしれない機会があった。
教科棟の、教室にいたはずだったのに、気が付くと周りは瓦礫の山で、だけど立ち上がって見回すと、瓦礫が散らばっていたのは俺がうずくまっていた、その周りだけで、そこから先は見渡す限り何にも無い、ただただ明るい空間が広がっていた。
さっきまで、震えながら泣きじゃくっていたオレが、涙を拭くなりケロリとした様子になって、立ち上がりその明るい空間に向かって、歩き出して行く。
かと思ったら立ち止まって、俺を振り向いて言ってきた。
「行かねぇの?」
俺の、すぐ目の先まで戻って来て、俺の顔見上げて、ぱか、と開けた口を下唇から閉じて息を抜く、変わった溜め息をつく。
「オレはそれ、あんまり勧めない」
そう言われても俺には、その時脳が壊れて死んだような気がしていて、そっちに進んだらいよいよもってあの世、って事なんだろうなと思っていた。
「オレは、みんなが好きだから。出会う人たち出来るだけたくさん、好きでいたいし、今よりちょっとでも何かを、良くしていきたいから。やれることに、やりたいことがいくらだってあるってのに、アイツただ一人にかまってるヒマなんか無いよ」
「……お前のままガキのまんまで生きていけてたら、そうも言っていられたんだけどな」
足元にいたはずのオレの顔が、すぐ鼻先に近寄って見えた。
「オレは、ずっといるんだよ」
こんだけ近寄ったら陰になって、暗く見えそうなのに、まぶたとか鼻の際とか細かい所までくっきり明るいままで、不思議だったけど何せ、夢とか幻だから。
「これからも、これまでも、俺が、何を選んでも、どこに暮らしても、誰を好きになって、どんな人間になっていっても、ずっとここにいて俺を、愛してる」
今の俺には哀しく感じるほどの、明るい笑顔を見せてくる。
「だから、心配すんな。俺のことならオレは、ぜんぶ知ってて、何が起きたってオレだけは、生きてて良いんだ大丈夫だって、いつも、言ってやるから」
それに対して今の俺は、苦笑しながら呟いた。
「俺一人だけに愛されたって嬉しかねぇよ」
そしたらやっぱりオレは、足元にいて、首を傾けてふわふわした赤茶色の髪の毛を、ひと通り掻き回して、
「オレはそれ、よくイミが分かんないけど、今の俺がそう思ってんだったら仕方ねぇな」
笑みを浮かべて俺が立っている、瓦礫の方へと踏み込んで来た。
目を開けた先には長持に、文机とその上の灰皿があって、下宿の俺の部屋にいるって気が付いた。身を起こした枕元には握り飯が二つ、お盆の上に皿に乗せて置いてあって、
「目を、覚ましたか」
布団に対して斜めに、扉を開けた奴が目が合って驚きそうないつもの位置に、田添が座っていた。
「おにぎり」
かろうじて言えたけど頬が痛い。
「当然だ。腫れ上がっている」
手に開いて眺めていた黒い革表紙の手帳を閉じて、
「ここの女将が持って行けと。お前の分の朝食は、俺の胃に納めてしまったからな」
選ぶ言葉が正確過ぎるんだって、とか思っていた間にお盆だけを持って出て行って、しばらくしてまたお盆を手に戻って来た。おばさんに淹れてもらったらしい、緑茶の湯呑みが乗っていたから、
(おばさん、心配してた?)
とほとんど身振りで伝える。
「もちろんだ。心配しないはずがない。しかし先に腹に何か入れろ」
痛みの強さと部位にもよるけど、食べている間くらいは米粒がクッションになって、多少は和らぐ気がする。
「お前しばらく休んでいいぞ。何たってコレラだ。長期療養が必要だ」
(嫌味か。行くよ。お前、尾行下手だから)
ふ、と漏らした笑みは心なしかこれまでに見てきたより強めだ。
「もうお前は俺にそんな口を利けないんだからな。どうして俺に、昨日の屋敷が分かったと思う」
言われて思わず、
「ホントだ」
と呟いた。頬が痛い事なんか忘れて。
「おい。何でだ」
「知りたいか」
「知りたい」
「教えてやる」
田添は立ち上がると明かり取りの小窓に、色褪せてもいない真っ黒なとんびを掛けて、部屋が暗くなったけどカチ、カチと音がしてすぐに、ランプが点いた。
仕事で使っている地図を長持の胴板に、張り付けるように広げて、
「お前は情報を書き込んだ後、鉛筆の尻で必ず一回、地図を叩くんだ。お前の頭の中で物事の、起点になっているんだろうな。昼間の陽の光の下では分からないが、暗い中で光を向けると、これだ」
ランプの光に照らされて、地図の右寄りの一部分だけが、丸く明るく浮かび上がった。この一年間鉛筆の尻で叩き続けていた箇所が、ちょっとずつはげて紙が薄くなって、ちょうど屋敷の位置を示している。
とんびは取り払われて部屋はすぐに明るくなった。ランプを消して折り畳んだ地図を田添は、手帳に挟んで懐に戻す。
「無自覚だったなぁ……」
それを聞いた途端にふふっと、普段よりも強く吹き出してきた。
「無自覚で、何をやっているんだ。いくら他の能力に長けていても、実家の場所を教えているようじゃ話にならんぞ」
声色にも若干の、笑いが混じって揺れている。
「え。俺実家だなんて……」
「違うのか?」
改めて、問い掛けられたら否定できない。その通りだ。
「昨夜のお前の、泣きながらの話に父親も出てきた。兄も出てきた。何より実家でなければあの規模の屋敷に、家屋侵入罪だ。俺は今からお前を警察に、突き出さなくてはっ……!」
ついに堪え切れなくなった感じに田添は、身を崩して腹を抱えて笑い出した。
「あんなっ……、屋敷がお前の……、実家だと……? よりにもよって、この上なく、似合っていない……。一種の、地獄だろうそれは……。面白すぎる……」
「どこで笑いのツボに入ってんだよ」
→ 地獄ノ五 明るみに出る
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