聖書読書記録(30週目210日間)
2023年7月23日~7月29日
哀歌1−1〜5−22
エゼキエル書1−1〜20−44
内容:
『哀歌』はユダの王の中でも、
神に対して敬虔だったヨシヤを悼んで、
エレミヤが作った歌。
エゼキエルはバビロンに捕囚された人たちの中から、
預言を受け取った人。
イザヤ・エレミヤと比べて幻想的。
ざっくり感想(実にざっくり):
哀歌より:
ヨシヤ、いてる?(汗)
ごめん。どこにどう書かれているのか、
詩的表現なせいかよく分からない。
エルサレムにシオンが、
娘、姫、女王として表現されていて、
罪を犯す事がはなはだしかったために、
主から見捨てられた事を嘆く内容。
「打つ者に頬を向けよ」
って文章はここで初めて出てきた気がする。
主の罰は当然として受けるべきとする内容だけれど、
私小学二年生にして教会の指導者から右の頬打たれて、
「ほら。左の頬を差し出しなさい。
笑顔で。お礼を言って」
って大人たちに取り囲まれたの忘れてないし許してない。
主の罰ならともかくなぜ貴様ら程度からの罰まで、
私が受け入れて当然と思えんだよ。
ガキ殴ってんだよお前ら。少しは考えろよ。
エゼキエル書より:
ええとね。
多分後の絵画とかでも表現されるようになる、
車輪を持った生き物の幻が、
序盤に出てきてしかも描写が細かくて、
空想にしてはよくそんなの浮かんだなって思う。
エゼキエルが語る以前からある程度、
文書化されてはいなくても存在していたイメージか、
そうじゃなきゃエゼキエル自身としては、
本気で「見た」のかもしれないな。
そしてエゼキエルには割と親しげに、
語り掛けるようでいて結構無茶を言う主。
「人糞で焼いたパンを人々の前で食え」
って言葉を頂いて、
エゼキエルさすがに嫌ですって訴えたら、
「牛糞を使う事を許す」って言ってもらえた。
↑当時は比較的煮炊き肥料に使っている。
だからさ。本気で嘆いたら主は聞いてくれるだろ?
問答無用で両頬打たれろって何なんだよ。
エルサレムを女性として表現した文章が、
エゼキエル書でも繰り返されるけど、
描写の細かさが増し増しだな。
しかしやはり姦淫の罪を犯しまくったとして容赦ない。
こんなん繰り返されたらホンマに、
女性全般のイメージが悪くもなるで。
だけど親から虐げられ捨てられて、
自分の血の中でもがいていた少女として、
描かれている序盤は泣ける。
その後洗って美しく着飾らせて食べ物を与えて、
女王のように美しくなったのに、
その美しさを頼みとして姦淫しやがってと、
主の嘆きが続くけれども、
『生きよ』の一言こそが最善だったのでございましょう。
ああ。あとこれまでにもちょいちょい出ていたけど、
エゼキエル書の18章には、
「親の罪で子は罰せられないし、
子の罪で親は罰せられない」
「悪人でも悔い改めれば生きられるし、
善人でも悪事を働けば生きられない」
辺りの事も詳しく書かれているので要チェック。